夏影2

 幾らも経たないうちに、夏の休暇が始まった。リュードの言ったように「飲んで吐いて」一応整理らしきものをつけ、エルシアンは夏の休暇を迎える。今年はエルシアンの唯一の庇護者である皇太后が避暑に出掛けるということで、それに随従するようにと言われていた。
 夏の海はいい、とリュードも手を打って喜んでいたのだが、リュードは結局海には行けないことになりそうだとエルシアンは少し残念に思う。彼は男ばかり七人兄弟の末なのだが、三番目の兄が亡くなったとのことで、急きょ帰省しなくてはいけないのだ。半年前に彼のすぐ上の兄も亡くなっており、不幸が続くとエルシアンは思ったが当のリュードは兄とは上手くいっていなかったせいでそれほど感銘を受けた様子はなかった。淡々とそんなことを説明して王宮を出ていった。夏が終わる頃にはまた戻ってくるだろう。
 エルシアンは休暇中、ほとんどを皇太后のところで過ごしている。父王は先王の側腹の王子で、皇太后と血のつながりがない。だからエルシアンと皇太后は他人なのだが、物心ついたときから皇太后の元にいた。二十年以上前に死んだ皇太后の息子にエルシアンは似ているのだそうだ。血縁的には叔父になるのだから、不思議ではなかった。
 十五で成人を迎えてから後宮の一角に部屋が与えられ、夜はそこへ戻らなくてはいけないが昼間はどうしていようがエルシアンの自由だった。この日もいつものように後宮の道すがらに植えられている花を適当にむしって皇太后のところへ向かう。適当な手土産は皇太后が喜ぶ。エルシアンは皇太后をお祖母さまと呼んでいた。幼い頃からついた習慣のようなもので、正確には祖母ではないはずだがそれを皇太后も咎めなかったから良いのだろう。公式の場所だけで気をつければすむことなのだ。
 皇太后の住む館はこの後宮の一番奥にある。後宮といっても緑がふんだんに配された岡をまるまる三つも抱え、船遊び用の池や乗馬用の馬場や、王族一人一人に与えられている庭、それに温室、国賓用の小宮、とにかく広い。そこまで行くのに汗をかくくらいだ。エルシアンは適当に靴を脱いで船遊びに造ってある池の水辺を飛沫を跳ね上げながら歩く。この池を迂回して森林を抜けると早い。
(まぁ泣き散らしても落ち込んでても時間が流れるのは同じなんだから、楽しんだほうがましだと思うな)
 リュードの言葉を思い出して薄く笑う。それは、その通りだ。彼女のことは強いて考えないようにしている……と思うほど、目を背けようとするほど彼女のことを思い出しているのには苦笑するしかないが。けれどそれは最初のときの深い哀痛とは少し様子が違ってきている。やはり理不尽だと、エルシアンは思うのだ。自分が王子だと嘘をついて貢がせたとかいうなら話は違うのだが(リュードは最近その事件を起こして十日ほど王宮に出入りの禁止を受けているが、彼の美貌からすればさして難しいことではなかったと思われる)、話は逆なのである。
 つまり、彼女の発想が全く違う方向へ出たなら、それはいわゆる「玉の輿」というやつではないだろうか。自分で言うのも何だかおかしなことではあるのだが。エルシアンが王子であることを言いそびれていたのは……確かに自分が悪い。機会をつかみ損ねてそのままだったのだがこれについては言い訳はできないだろう。
 けれど、騙したつもりはなかった。それは何度も言ったのだが信じてもらえたのかどうか分からない。それにしても、王子だというだけでこれほどの差別を受けなくてはいけないのは間違ってる。それは生まれつきのことだから、生まれつきに背が高いとか頭がいいとか足が速いとか、そんなことと変わらないはずだ。
 これを自分が言うと嫌味に聞こえると分かるから口には出さないのだが、王族の中でもエルシアンなどは除け者で、将来の官位階級でいうなら王族の下に位置する大公位さえ貰えるかどうか怪しいものだし、役職も実権のない裏方の国府の長官か地方領主あたりで生涯を終えるだろう。有力な王族には妃が五人も六人もいるが、エルシアンにはおそらくは一人、しかも経済的な事情は妻の実家に頼らざるを得ないからおちおち浮気も出来ない……
 そこまで来てエルシアンは肩をすくめる。平民の出身であれば国府の中堅職あたりまで行けば出世頭なのだから贅沢に聞こえるに決まっている。あまり多くは望むまいとエルシアンは思っている。望みすぎるとそれに足を取られて身動きが取れなくなってしまう。大それた野望さえ持たなければ平穏無事に人生は過ぎていくだろう。普通が一番。王族にとって何が普通なのかはこれから考えることだが、それにしてもハルナのことは胸に刺さって抜けない。あれほど怯えさせてしまうまで、自分は酷い恋人だったろうか。そんなはずはない……と思う。他人に打たれれば痛い、痛いと思うからそんなことをしないようにしようと思う。優しくされると嬉しいからなるべくそうしよう、親切にしてもらうと有難いから自分もそうであるように心掛けよう。結局はそんな単純なことを信じている。
 リュードに言わせるとそれは
「そんなに他人を信じてると今にきっと痛い目にあうね」
とか、
「じゃあお前さんは憎まれたことのない幸せ者ってことになるな」
などということらしいが。
 だから、ハルナがあれほどエルシアンに怯えていたのはやはり自分が王子であるということと、それを知らなかった頃にハルナがしてきた数え切れないほどの無礼(と彼女は言った)をエルシアンが超越的に咎めることもできるということの増幅なのだろう。
 けれど、それを俺がするかどうか、考えれば分かるじゃないか。何でそんなに怯えなくてはいけないんだ。俺を信じていなかった、という事なのだろうか、結局は。上手く行かないときに馬鹿と罵倒されたり、枕で殴られたり、約束を当て付けに反故にされたりと結構な目にもあっているのだが、それはいわゆる喧嘩という奴で、一度仲直りしてしまえばハルナは甘えたいだけ甘えてくる、可愛らしさを持っていた。喧嘩をした翌日にけろりとして店を手伝わせる現金な愛敬と、時々寂しくてたまらないとエルシアンにくっついて離れない強烈な庇護欲をかきたてる弱さを両方備えていた。好きだったんだな、と歩きながらエルシアンはしみじみ思った。そう思っている事が、それの終末を受け入れていることの証拠なのだという気がした。
 皇太后の館はいつでもあまり人の気配がない。後宮の事実上の主と言われている皇太后は人の好悪が激しいほうで、あまり他人を寄せ付けないがんとした雰囲気があると誰かが言っていた気がする。エルシアンには甘いのだが。エルシアンもこの祖母代わりの貴人をとても好きだ。成人前に使っていた部屋もまだそのままに残してくれているから、皇太后に挨拶だけしてそこへ転がり込んでしまうのが常だった。
 玄関を入ると侍女が走ってきて布を差し出してくれた。直土の上を裸足で歩いてきたから汚れてしまっている。
「殿下、もう少しお行儀!」
 ぴしゃりと年配の侍女に言われてエルシアンは苦く笑う。祖母のところに昔から仕えている女だから、エルシアンが子供だった頃の愚にもつかない所業の数々を覚えていて未だにそれを持ち出してくることがある。躾も皇太后とこの侍女がしていたせいか、どうにも分が悪い。
「分かった、次からちゃんとする」
 返答はいつもこれに決めている。嘘をつくと口が曲がりますよ、と言われてエルシアンは笑いながら真っ直ぐだろう、と返す。そんな他愛のないやり取りもとても温かくて、エルシアンはやはりここが実家なのだといつも思う。足を拭き終えると靴を履くように言われてエルシアンは自分の編み上げのサンダルを取ってきてくれるように若い侍女に頼む。靴も服も不自由ない程度にこちらへ置いてあった。
「お祖母さまは?」
 聞くと中庭だということだった。エルシアンは侍女の持ってきたサンダルを履くとそちらへ回る。皇太后は初夏の白い花を幾つか切っていた。部屋へ飾るのだろう。それにつきしたがっている侍女の黒い制服が見える。白金のふわふわとして波打つ髪に見覚えがない。新しい侍女を入れたのか、とエルシアンは思った。お祖母さま、と声をかけながらエルシアンはそちらへ足早に歩いた。
「あら、放蕩息子のお帰りだこと」
 皇太后エレイナは振り返って憎まれ口をたたきながら頬を緩めて笑った。エルシアンは肩をすくめる。自分よりもリュードのほうが余程蕩児だと思うと笑みがこぼれた。お土産です、とむしり取ってきた花を渡すとエレイナは苦笑いした。
「お前ね、後宮の花にも人の手がかかっているのだから余り無遠慮にちぎってしまうものではありませんよ」
 エルシアンは小さく笑って見せるだけで返答はしない。あの子はと聞かれたので昨日帰省しました、と答えた。そんな訳で一昨日の夜からリュードと痛飲して、昨日は半日苦しんだ。ただエルシアンの場合酒は飲めば飲むほど許容量が増えていく気がするので、おそらく体質的に合っているのだろう。
 それからエルシアンは皇太后より一歩下がったところで膝をついている侍女を見る。項垂れていて顔は見えないが、面差しに覚えがないからやはり思った通りに新しい侍女なのだろう。エルシアンの視線に気付いて皇太后がああ、と軽く声を上げた。
「マリエラが結婚してやめてしまったので、そのあとをね。ナリアシーア、挨拶をおし」
 はい、と消え入りそうな声で返答があった。手を胸の前で組み、祈りを捧げるような密やかな声で答え、ナリアシーアと呼ばれた侍女は深く頭を下げた。王族に対する最敬礼の作法だ。
「ナリアシーアと申します。ロルピア五品家のものでございます」
 平伏する姿勢にエルシアンは聞こえないように微かに吐息を落とす。昔から他人に平伏されるのは苦手だった。それに、ハルナのことがどうしても頭をよぎる。ああやって頭を下げたら最後、どうしても越えられない壁が出来てしまうような気がする。エルシアン・クリス、と呟くように答えると、エレイナがぴしゃりとエルシアンの手を叩いた。しかられているのは分かったから、それからやや明るめの声で
「第十三王子、今、十六……君は」
 年を聞いたのは、この館に年の近い侍女がいなかったからだ。このナリアシーアという侍女の前に勤めていたマリエラという侍女も二十代の後半だった。ナリアシーアは少し迷ったような間隔をおいて、殿下と同じ年でございます、と答えた。
 何となく救われたような気分でエルシアンはそう、と微かに笑みになる。だがナリアシーアは顔を上げようとはしなかった。少しくらいこっちを見てくれてもいいじゃないか、とエルシアンはまた少し不機嫌になる。最後のハルナのように、怯えているだけに見える。顔を上げさせても視線を逸らして決して彼を見ようとしなかった、あの怖れに。俺はまだ何もしてないとエルシアンは内心腐るが、エレイナが再びエルシアンの手を叩いて顔をしかめる。
「ちょっかいを出すんじゃありませんよ。この子も含めてだけれど、侍女は皆それなりの家からの預かり物なんですからね」
 はいはい、と適当に返事をする。王子が侍女に手をつけるという話はそれほど珍しくはない。エルシアンはどちらかといえば気楽な町の女のほうが好きだったから、侍女にはあまり興味が湧かない。無論結婚するときはどこかの貴族の娘になるのだろうが、どうしても欲しい女が町の娘であるなら養女として籍を入れてしまえばいいからあまり気にしたことはなかった。正直なところ、こちらの出自が最初から知れているので逆に口説きにくいくらいなのだ。
 その返答でエレイナはエルシアンが特に興味を持っていないのを悟ったのだろう、ナリアシーア顔をおあげ、と言った。ナリアシーアの肩がぴくりと震えた。その反応にエルシアンは僅かに違和感を感じる。どこか引っかかっている。何だろう、この嫌な……ひどく悲しげな空気は。ナリアシーアは微かに吐息を落とした。その密やかな調子に、それがためらいの溜息だと分かってエルシアンこそ溜息をつきたいと思った。
 ゆっくりと顔が上がる。初夏の日ざしの下で少女の顔立ちが露になる。
 霧が急に晴れて海が見えるように、暗い隧道を抜けて目にする眩しい緑の美しさのように。それらを初めて見たときの戦慄に似たものが背中を這い上がってきて、エルシアンは息をのむ。
 言葉がなかった。白い肌に煙るようにまといつく白金の髪、それが縁取って流れる頬の完璧な曲線、赤く色をつけたような唇と、至高の造り物よりもまだ整った目鼻立ち、日ざしに負けそうにも見える長い睫の落とす、白い肌の濃い影。
 エルシアンは半歩後ずさった。尋常でなかった。これは何だろう。王宮へ奉納されてくる極上の細工の人形ですら、こんなのは見たことがない。何故か、一瞬とても怖いと思った。少女の顔立ちは可憐などというものですらなかった。すさまじく、美しいとしか言い様がない。潔癖とも思えるほどに他を寄せ付けない、圧倒的な美貌であった。何か言おうとしてエルシアンは唇を開くが、どこかへ言葉が行ってしまったようにそこからぴくりとも動かない。仕方なしに少し俯いて軽く吐息を落とした。そうするとやっといつものように唇が動くようになった。
「えーと、いや、ちょっとびっくりして……すごい綺麗だね、よく言われるだろう」
 何を馬鹿なことを口走っているのだろうとエルシアンは思うが、こんなときに何を言っていいのか分からない。ナリアシーアの表情に再び強い脅えがよぎって微かに顔が歪む。歪むとますます輝くように美しくなる。
 ナリアシーアはまた、顔を伏せてしまった。何か悪いことを言ったのだろうかとエルシアンは反射的に罪悪感にかられ、自分の言葉を反芻してから首をひねる。それほど嫌味を言ったつもりもなければ少女に嫌がらせをしたつもりもない。第一、会話と呼べるほどのものすらない。困ってエレイナを見ると、血のつながらない祖母は僅かに曇った顔で首を振った。
「お茶に付き合いなさい、エルシアン。避暑先の別邸のことなんだけれどね、いちいちまるごと宿舎を借り上げるのも面倒だから買ってしまおうと思っているのよ。お前、一足先に行って私に選んでくれないかしら」
 ほっとしながらエルシアンはええ、と頷いた。エルシアンの持ってきた花を自分が切った花に混ぜてナリアシーアに渡し、エレイナは部屋へと戻り始める。ナリアシーアは軽く会釈をしてそれを抱えて裏方へ消えていった。結局、一度もエルシアンと視線を合わせようとはしなかった。