夏影3

 で、とリュードは香草を噛みながら薄い笑みを浮かべ、真剣にエルシアンの目を覗き込んでくる。リュードの髪が頬をくすぐる。彼の髪はほんの少し波がかっていて細い。習慣にしたがって長く伸ばした髪は後ろできつくひっつめているから癖は出ないのだが。
「誰かいいのでもいた? お前さんのことだから、結構よってくる女自体はいたろう? 何度も言うけど、据え膳は、食っとけや」
 エルシアンは眉をよせる。海はそれなりに堪能し、それに付随して適当に遊んでも来たのだが。どちらが楽しかったかと聞かれれば格段に後者だ。街では王宮と違って気楽に出かけることができる。エレイナの目があるからそれほど派手にはしていないが。
「うーん……いなくはなかっただけど人妻でさぁ……肝心のときに旦那が帰ってきて俺、もう少しで殺されそうだった。旦那船に乗ってるから平気だって言ってたのにさぁ」
 そりゃないよね、というエルシアンの言葉にリュードの可笑しそうな笑い声がかぶる。兄を亡くしたばかりだが彼は兄とは上手くいっていなかった。と、いうよりリュードは家の中ではのけ者なのだ。自分も王族ののけ者、のけ者同士で丁度いいやとエルシアンは思っている。それがあってリュードは葬儀が澄んですぐに王宮へ戻ってきたのだが、ちょうどその頃エルシアンは海へ出ていて王都には不在であった。ほぼ一ヵ月ぶりの再会である。
 遊び回っているとわずかづつ薄れていく思い出がある。遠くなっていく空気がある。それにしなだれかかっているうちはきっと、本当に忘れてしまったと言えるわけでもないのだろうが。ただ、そこはエルシアンもまだ十六だった。目の前の快楽には実に素直で従順である。自分の現金さに微かな嫌悪を感じなくはないが、愉しいほうへ楽なほうへと流れていってしまう。克服するという強固な意志に欠けるのかもしれないが、そうやっているといつの間にか楽になっていくのに気付いてもいる。
「お前、旦那と格闘したの」
「まさかぁ。俺がそんな肉体派に出来てないの、リュー知ってるだろ」
 窓から逃げたんだ、とエルシアンは言って肩をすくめる。全くあの時はひやりとした。くつくつとリュードが笑い、それから慌てて笑みを消して回廊の端へより、膝をついた。エルシアンは回廊の奥を見る。彼の異母兄がこちらへ歩いてくるのが見える。エルシアンは肩に手を当てて軽く一礼した。
「久しぶりに見るな、エルシアン」
 低い声が言った。エルシアンは軽く頭を下げてから異母兄を見上げる。背が高く、均整の取れた体と厳しく引き締まった顔付きを持っているこの兄に似て、自分の意志が強ければこんなにも人を圧倒できるのだろうかとそんなことを思う。
「皇太后陛下について避暑へ出かけておりましたから」
 聞いている、と静かに答える兄を見てエルシアンはほんの微かに目を細める。いつか、この人のようになれるだろうか。この人の役に立てるようになるだろうか。いつか、遠い未来、この人の横で国政というやつを動かしていくための駒の一つにでもいい、なれるだろうか、この。
 王太子アスファーンのように。この全てを掌握しているような異母兄のように。エルシアンにとっては将来への唯一の希望でもある。アスファーンも出自は不遇であったのが実力で勝ち上がり、王太子となった。何よりもエルシアンが焦がれるのはその瞳に宿った何物にも負けないまっすぐな光だ。不屈の意思、不転の決意。それを貫いて今の地位がある。自分にはないものだと思うと、余計に憧憬は強く輝きを増す。眩しい光、圧倒的な太陽に似ているとエルシアンは思った。
 アスファーンが薄い苦笑のような表情をしてエルシアンの前髪をくしゃりとかき回した。エルシアンは微かに赤面して下を向く。馬鹿ほど兄を見つめていたのだと思った。
「学院の初学期の成績が来ていた、後で老師のところへ取りに行きなさい。……悪くはなかった、そうだな、もう少し経済学については深く掘り下げてみるように。明後日は予定は」
「特にありません」
 なにしろ、夏の休暇で学院はしばらく休みなのだから。
「では、午前中であれば時間があるから馬術を見てやろう。支度をしてくるように」
 はい、とエルシアンは頭を下げる。時折こうしてかけてもらう声や眼差しや気遣いが特別嬉しい。自然弾んだ声になった。ではな、と声をかけて兄の背が消えていく。それが回廊の端を曲がるまでエルシアンはぼんやり見つめていた。
 とん、と肩が押されて我に返る。リュードはもう立ち上がっていたが、エルシアンと同じくアスファーンの消えた方向を見遣っていった。
「相変わらず、迫力ゥ……お前さんがのぼせるのも無理ないね」
 うん、とエルシアンは頷いた。二、三年前からアスファーンは時折エルシアンに声をかけてくれる。王太子になってやや自分の自由になりそうなこともできてきたからとアスファーンから聞いたことがあった。それはエルシアン次第では彼を引き上げてくれるという意味に他ならない。実際、望外のことだったから驚きと共に深い感謝を抱いていた。
「先に老師のところへ行かなくちゃ」
 王族たちの教育にと後宮へ出仕している学者が何人かいるが、老師と言われているのはそのうちの最高齢の法律学の教師である。自身過去に学院で教鞭を取っていたこともあるし、本も何冊か書いていたはずだ。但しエルシアンはこの老人が苦手でもある。嫌いではないのだが、一度話が始まると長いのだ。避暑先から送らせた土地の名産菓子が届いたので茶に呼ばれているのに、皇太后のところへ遅刻していくのは気が引ける。だがアスファーンにそう言われた以上は知らなかったですむことでもない。困ってリュードを見ると、彼の侍従長は薄く笑った。その表情で何が求められているのか分かったからエルシアンは頼むよ、と口にした。
「俺が行ってやるよ。説教が始まると長いからな」
 ありがと、とエルシアンは笑うと友人と別れて先を急いだ。皇太后の屋敷は後宮の一番奥にある。いつものように池を回って森林を抜けようと足早に歩いていると、黒い制服が荷物を持って歩いているのが見えた。背格好に覚えがある気がする。しばらく記憶を探ってエルシアンは確か、と思った。
 ナリアシーアとかいったっけ、あの極上の美人。彼女は避暑先には来ていなかったし、あれ以後皇太后のところへ行っても顔を見なかった。何故かすっかり嫌われている、とエルシアンは苦笑する。自分の言葉もそれほど感銘を受けるような台詞でなかったのを覚えているから仕方がないのだが。ナリアシーアは手荷物を不意におろして手を振っている。その手のひらが少し赤くなっているのが見えて、エルシアンは小走りに近寄って並んだ。あ、と細い声を上げてナリアシーアが身をすくませた。そんなに怯えることはないだろうと思いながらエルシアンは荷物を取る。ナリアシーアは慌ててエルシアンの手からそれを取り戻そうとした。
「あの、殿下、そんなことをしていただかなくても」
「これ、君の荷物?」
 いいえ、とナリアシーアは首を振った。あて先に書かれている荷札は例の避暑先のもので、恐らくこれが皇太后が振る舞ってくれるという菓子なのだろう。しかし苦笑するほどの量だなと思いながらエルシアンはじゃあ俺が持つ、といってそれを肩へかけ直した。
「殿下、私が叱られてしまいます」
 ナリアシーアは食い下がるが、エルシアンは気楽に首を振って先を歩き始めた。
「いいよ。お祖母さまは俺をこき使うのが好きなんだ」
 でも、と言いかけるのをいいからとエルシアンは強く遮る。一瞬の後、諦めたのか有り難うございますとナリアシーアが小さく言った。頷きながらエルシアンはいつものように近道をしようと池のほうへ出ようとする。ナリアシーアが殿下道が、と声を上げた。
「え? ああ、こっちの方が近いよ。水辺を回って森を抜けるんだ」
 でも、と困ったようにナリアシーアは立ち止まる。エルシアンはその迷いの意味が分からなくて、怪訝に足を止めた。それからナリアシーアがそれを渋る理由に思い至った気がして思わず苦い顔になる。森林は王族が雰囲気を楽しむために作られていてそれほど広さはないが、鬱蒼としていて人通りもあまりない。警戒されているのだとエルシアンは思った。これほどの美少女なのだから今までにいろいろなことがあったろうから、自分の迂闊さに微かに笑みになる。気が利かないと自分で思うこともあるから苦笑になった。
「分かった、君のいい道で行こう」
 他意はなかったから簡単に譲ることができる。ナリアシーアの顔に僅かに安堵が混じるのを見てエルシアンの方こそ安心した。それほど関わりを持ったわけではないが、避けられているという感触はある。それほど酷い言葉だったかなぁとも思うが自分の言葉が他人にどう聞こえるかは他人次第だ。少なくとも、初対面で言う言葉ではなかったかもしれない。
「あのさ、最初のときのこと、俺も少し不用意なことを言ったかもしれないのを謝っておくから……そんなにびくびくしないでくれないか」
 歩きながらエルシアンは口に乗せてそっと少女を盗み見るが、少女は固い表情で俯いている。何故か、再び強い哀しみの気配を感じた。その気配が際立ってくると同時にぞくっとした感覚が背を上ってくる。ひどくナリアシーアの顔立ちや雰囲気につやがかかる。エルシアンはそれをナリアシーアに気付かれないように僅かに背をよじった。
「私……殿下に謝っていただくようなことは何も……」
「そう、なら、いいんだけど」
 けれど現実怯えているじゃないかとエルシアンは叫びたくなる。だがそうするとますますこの少女がエルシアンを怖がってしまうと思ったから、それは無理に飲み込んだ。しばらくの沈黙が続く。エルシアンはそれほど無言の時間が苦手ではなかったが、居心地の悪い空気の中では何か喋っていないと窒息しそうで口を開いた。
「一緒に海にくれば良かったのに。お祖母さまもご機嫌だったし、綺麗でいいところだったよ」
 少女はええ、と微かに顔をほころばせた。笑うと花の開くような愛らしさがあった。先ほどの、悲しげな嫌な空気も一掃されて、エルシアンはほっとする。どんな女でも笑っている顔のほうがずっといいと思った。
「別邸をお祖母さまが買ったから、これからも時々行くんじゃないかな。あの近く、温泉が出るんだよ。今度は君も行ってくればいい」
 再びナリアシーアはうっすらと微笑んでええ、と答えた。その笑顔の優しさに、エルシアンはつられて笑う。どうやら嫌われてはいないようだった。
「お祖母さまからのお土産はちゃんと貰った?」
「はい、いただきました」
 エレイナが屋敷の侍女たちにと真珠の装身具を揃えて注文していたのを見ている。時々こうして散財するのがエレイナの楽しみの一つなのだ。先王の正妃として長く国政を支えた女性なのだから、多少のことは父王も引き受けてくれる。これも、とエルシアンは自分のかついでいる荷物を軽く叩いて見せる。土産のうちの一つだ。ナリアシーアは小さく笑い声をたてた。十六だという年のままに跳ね回るような溢れる生気がある。
 ようやく丘を越えてエレイナの館が見える頃、ナリアシーアは少しづつ口をきくようになっていた。内気なのかとエルシアンは思う。だから初対面でいきなり綺麗だとか言われると萎縮してしまうのだろうと結論をつけた。
 館の手前の木陰に人を見つけてエルシアンは声を上げる。今日はエルシアンは大回りしてしまったから、いつもの近道を通った彼に追い越されてしまったのだろう。リュードのほうもすぐにエルシアンに気付いたらしく、成績表らしい紙をひらひら振りながら近づいてきた。
「はいよ、成績表。ほんと、法律はつき抜けていいのに経済は普通に毛の生えた程度だなぁ」
 エルシアンは荷物を下ろしてリュードの手からその紙を受取る。ほぼ予想していた通りの成績で、どれもこれも中の上と上の下をうろうろしていた。法律科目はそれでも優秀だがその分を(正直なところ自主)欠席や(同じく自主)早退が埋めてしまって総合的に言えば普通である。後半から特にハルナのことがあって学院のことなどどうでもよかったからな、とエルシアンは溜息をつく。この(自主)欠席や早退を公務によるものだとアスファーンが思ってくれたらしいことにエルシアンは安堵した。
 リュードがちらちらとエルシアンの背後へ隠れるように下がってしまったナリアシーアを見ている。ああ、とエルシアンは体をずらしてナリアシーアの姿を見えるようにしてやる。
「ナリアシーアっていうんだ、この前からお祖母さまのところにいて……」
 言いかけて、エルシアンは異変に気付いた。リュードの顔から血の気が引いて蒼白になっていく。それはエルシアンが最初にナリアシーアを見たときと同じような感嘆ではなかった。見てはならないものを見てしまった。そんな驚愕とそして強い怯みに裏打ちされていて、ひどく暗かった。何だよ、と言おうとしてエルシアンは黙り込む。こんなに真剣なリュードの顔を初めて見ると思った。だが、それはこの少女の美しさに心を動かしたのとは全く違う。突き詰めていけば恐怖、だったのかもしれない。
 何かを低くリュードが呟いた。え、とエルシアンは聞き返した。今度ははっきりした声でリュードは魔女、と言った。ナリアシーアの息を飲む気配がした。エルシアンは振り返る。ナリアシーアもまた、蒼白だった。微かに身を震わせると少年たちの横をすり抜けて館の中へ駆け込んでいってしまった。エルシアンは少し茫然とする。魔女という言葉の意味を掴みかねて友人を見ると、それを吐いた方は激しくナリアシーアの消えた先を睨んでいる。
 どうしたんだ、と聞こうとした矢先にリュードの厳しい声が言った。
「エルシ、あの女が好きか」
 思わず、は? と聞き返してしまったのは思いもかけないことを言われて足元をすくわれたからかもしれなかった。何の冗談を言うのだろうと普段なら笑って済むはずなのに、このリュードはひどく真剣で、張り詰めた空気が怖いくらいだった。少なくともリュードが本気で聞いているのを悟って、エルシアンは真面目に答える。
「いや……別に、なんとも」
 綺麗な少女だとは思うが、時折身体を包む得体の知れない空気は僅かに怖い。どこか尋常でない、うすら寒いものを感じる。踏み込んでは帰れないところへ行ってしまう気がする。その恐れがある限り、自分はあの少女を女として見ることができないだろうと薄く思った。
 そうか、とリュードは言った。何の事か良く分からなくてエルシアンは戸惑ってばかりだ。リュードが不意にエルシアンの目を正面から見た。それは激しく希求するきつい目の光さえなければほとんど懇願と言っていいほどの表情に見えた。
「あの女には関わるな……頼むから、関わらないでくれ」
 勢いに押されてエルシアンは曖昧に頷く。リュードはぎこちなく笑みを浮かべたが、それはまだ彼の受けた衝撃的なものから脱出はしていない顔付きだった。
「いいな、エルシ。あの女には絶対に近寄っては駄目だ。それを俺と約束してくれないか」
 リュードがエルシアンに何かしてくれというのは非常に珍しかった。分かったと答えると、リュードは今度こそ安堵そのもののような深い溜息をついた。
「なぁ魔女ってなんだよ」
 エルシアンには何のことだか分からない。リュードは首を振る。それは知らないのではなく、教えたくないという意味だった。リュードが嫌だと言ったことは絶対に覆らないのを経験で知っているからエルシアンは溜息を吐く。それからナリアシーアの、あのすくみ上がった顔を思い出して再び重い溜息をつき、荷物を抱え直してゆっくりと館へ歩き始めた。