夏影4


 数日、大過なく過ぎた。リュードは結局あれから一度もナリアシーアのことには触れてこない。その話を慎重に避けられていることくらいは分かるからエルシアンも知らぬふりでつき合っている。
 ナリアシーアは問題なく皇太后に仕えている……らしい。あれから確信的に避けられているとも分かっている。俺のせいかそれは、とエルシアンは腐る。一緒にいるリュードの顔も見たくないのかもしれないが。
 だから廊下でばったり顔を合わせたときは驚きよりも安堵のほうが強かった。ナリアシーアははっとした顔をしてすぐに俯いてしまったが、エルシアンは本当に良かったと思って笑顔になった。

 この前はリュードがごめんと囁くとナリアシーアは首を振った。謙遜や素振りだけでなく心底からナリアシーアはリュードの言葉に怒っていないのだと雰囲気を掴んでエルシアンは胸をなで下ろす。
 魔女って何、とは聞けなかった。それを聞いてはいけないのだと感覚で掴んでいる。皇太后はエルシアンを軽く睨んで他人の事情に首を入れていいことなんてありませんよと言ったし、リュードはあの話を蒸し返したくないのが判っている。
 あせることはないさ。エルシアンはそう思って強いて考えるのを止めてしまった。そのうちに、聞く機会もあるだろうから。

 そんなことをぼんやり思っていると耳に細く震える吐息が聞こえた。エルシアンは目の前の佳人といって良い少女を見る。ナリアシーアは俯き、口を押さえて肩を震わせていた。……低い嗚咽なのだと気付いてエルシアンは妙な罪悪感にかられる。泣かせるようなことを自分はしてしまったろうか。……よく分からなかった。
 こういう時どうしたらいいんだろうとエルシアンは思う。リュードならどうするだろうか。恋人ならいいのに、とふと思った。ナリアシーアが恋人なら抱きよせて髪を撫でながらどうした、と泣くな、を繰り返して癒してやればいい。涙の味のするキスは時々驚くほど甘いことがある。自分の持てる限りのもので受け止めてやることができる。
 けれど現実エルシアンはナリアシーアの主人に近いものでしかない。年が近いからそれなりに仲良くはしたいと思っているのだが、どうやらそんなことにはなりそうになかった。それと同時に触るなというリュードの言葉も微かに耳を打ち返してきて、エルシアンは緩く頭を振った。
 廊下に立ったまま泣かせているのも何だか心苦しかったので、ナリアシーアにおいで、と手招きして自室の扉を開ける。その扉は開け放したままで露台へ出た。

 迷いながらも主人の意思には相当理不尽でなければ逆らわないと決めているのかナリアシーアはついてきて、やはり俯いたまま固い表情で立ち尽くしていた。彼女は既に涙を流してはいなかったが鬱な気配は変わらなかった。
 エルシアンは軽い溜息をついて王宮の方角を見る。なだらかな丘と森林の緑が濃くて目に痛い。ハルナを失ったのは初夏なのに、もう晩夏だ。
 それからナリアシーアに視線を戻す。少女はまだ少し赤みの残る目でエルシアンの方を見ていたが、視線を合わせまいする、ぎこちない憶病さがあった。

「……辛いことがあったときは泣いたほうがいいよ。楽になるから」
 女なのだからそれは多少許されるはずだ。耐えようとすると中から湧いてくる自己憐憫が混じって手に負えない。エルシアンは泣くよりは飲んでしまうが、それは涙と同じことだ。
 殿下、とナリアシーアが呟いた。エルシアンでいいよと言ってみるが、少女がそうするとは思っていなかった。案の定ナリアシーアは困ったような微かな笑みを浮かべる。そうすると花がこぼれ落ちるような美しさに変わる。心の奥がざわざわとした感触が触れてエルシアンは怯む。……とても、怖い。
 その僅かなすくみを振り払うようにエルシアンは笑って見せた。
「笑ってる方がずっと可愛い」
 女は褒めとけ、というリュードの哲学には頷けるものがあるのだ。今までそれで失敗などしたことがなかった。だがナリアシーアは以前と同じく何かに鞭打たれたように凍りつき、再び緩んだ空気は厳しいものに換わってしまった。

 エルシアンは慌てる。とにかく機嫌を取ろうと思って口にしたことが余計に彼女を追い詰めてしまったのだと思った。数日前に出会ったときもそうだ。警戒されているのだという態度の一貫性にエルシアンは苦笑になる。
「別に、口説いてるわけじゃない」
 多分これが図星なのだろう。口説かれて女が不快になるときは間違いなく他に恋人がいるときだ。これだけ美しく、おとなしく優しげな風情ならいくらでも相手を選べるし大切にもして貰えるだろうから。恋人がいて欲しいと暗に願っているのにエルシアンは気付く。それの足元に広がる深遠に不意に目まいがした。
「他に恋人のいる子にちょっかい出すほど俺も暇じゃないんだ」
 大仰に肩をすくめてみせる。ナリアシーアは首を振った。しまったとエルシアンは顔を歪める。
「あ、いや……俺にもつき合ってる子がいるし……別に本当に口説いてるわけじゃないんだって。本当に誰もいないの? 今まで、一人も?」
 言い訳のような言葉を並べ立てながらエルシアンは間の感覚を掴み損ねて困惑している。ナリアシーアはもう一度首を振って俯いた。泣くのを堪えているのだろう、肩が震えている。自分の迂闊さ加減を散々内心で罵倒しながらエルシアンはごめん、と呟いた。
「俺は君を困らせたり泣かせたりしたいんじゃないんだ。君が気を悪くしたなら謝る。ただ、……俺を避けないでくれないか、なんで警戒されなくちゃいけないのかも分からないし君がどうしてこんなことで泣き出すのかも分からない」
 ナリアシーアは不意に顔を上げた。視線がまっすぐにエルシアンに注がれている。気が遠くなるほどの時間が流れたような気がした。

「婚約者は、おりました……」
 ナリアシーアはほとんど囁くような小さな声で言った。それはエルシアンに対して自分の過去を話すことで近付いた証拠だと思ったから、エルシアンはほっとしながら頷き、それが過去形で語られたことに気付いた。
「いた?」
 そう聞いてからエルシアンは失敗したと思った。こんなことを根掘り葉掘り聞いているからいつまでたっても警戒心を解いてもらえないのだ。
 だがナリアシーアは遠い目をした。
「もう、亡くなりましたけれど」
 滑り出た言葉にナリアシーアははっとして口を押さえた。それを喋るつもりがなかったかのように。それから押さえていたものをこぼすように、顔を覆って静かに泣き始めた。

 すまない、とエルシアンは言った。いたたまれないと思った。ナリアシーアは首を振って申しわけありません、と呟いた。
「いいんだ……泣きたいだけ泣けばいいんだから……」
 言葉で宥めながらエルシアンはなんて哀しげに泣くんだろうと思った。それが唯一絶対の全てであるように、婚約者の死を泣いている。
 癒されていない傷を、泣いてもそれが埋めてくれない空洞を嘆いている。震える花、雨にしだれる草の悲しみに似ている。今この瞬間にナリアシーアを抱きしめたいと思った。彼女の全てを。

 ざわりと風が梢を鳴らした。エルシアンははっとして我に返る。泣くな、と震える声で言った。
 ナリアシーアは顔を上げて大丈夫だとでも言うように薄く笑って見せた。その瞬間、鳥肌がたった。ぞっとするほど美しく可憐だった。エルシアンは目を閉じる。戻れない。
 時間は戻らない。この少女の嘆く過去を自分の手でかえてやりたいと願い始めているのにエルシアンはとうに気付いている。どうしようもないほどに彼女の哀しみを引き受け癒してやりたがっている。
 抱きよせてその首筋に唇を落としながら俺のことだけを考えろと言ってやりたがっている。
 それは嫉妬ではない。恋だ。

 捕まったと思った。最初の予感は踏み込んで戻れない未来をぼんやりと提示している。あのおそれは、怯みは、のめり込んでいく心を自制するものだったのだろうか。
 関わるといつかこの心が自分を焼き滅ぼすとでも言うような、激しい想いが手の届くところに見えている。

 エルシアンは黙っている。ナリアシーアもまた黙って涙の残滓にたゆっている。だが、この瞬間のことをエルシアンは忘れられないだろうと思う。この女のことしか考えられなくなるだろうと思う。その始まりの予徴を感じて彼もまた、震えている。
風の音がうるさく鳴っている。ざわめきがひどく耳に入ってくる。その雑音が遠くなっていく。目の前が霞む。白い無へと戻っていく気がする……

 目覚めは唐突に来た。エルシアンは長い溜息を吐き出してゆっくりと起き上がり、寝台の脇の酒の瓶を取った。隣ではランファが健やかな寝息を立てている。
 彼女を起こさないようにとゆったり体を動かして酒の栓を抜き、口の中で液体を転がしているとランファがあ、と声を立てた。彼女の黒い瞳が少しぼんやりとして覗いている。起こしてしまった、と囁くと、それで我に返ったように首を振った。

 眠っていていいよと言ってやるとランファは微笑みながらこくりと頷く。ランファは溌剌とした生気に満ちた女だが、こんなときは少し甘えたような子供のような顔になる。それを知っているのは自分くらいだろうかと思うとたまらなく愛おしくなる。
 酒をやめて隣へ潜り込みながらエルシアンはランファを抱き寄せる。体の温度が確かな存在と心を教えてくれる気がする。ランファの顔が少し茫洋と幸福そうだったから、いい夢だったのだろうか。そんなことを聞くと、ランファは少し遠い目付きをした。
「十六の頃……」
 不意にその年齢のことがランファの口から漏れてエルシアンは少し驚く。自分も今まで十六だった頃の夢を見ていたのだから。
 ナリアシーア、過去の……過ぎてしまった夢のようなあの時代を。

「ラストレアで、好きな人がいたの。何だか思い出したみたいで……夢に見たわ」
 ランファもまた、恋をくぐり抜けている。そう、と笑うとエルシアンは唇をランファの瞼に押し当てる。唇を重ねるとランファが甘い喘ぎを漏らした。こみ上げてくるランファへの気持ちと、彼女の過去に対する微かな嫉妬と、……そして恐らくは自分の過去という物への僅かな羨望、それに対する後ろめたさ。
「俺にも……そんな頃があったよ」
 口にしたのは、過去への憧憬なのかランファへの密かな贖罪なのか、自分でもよく分からなかった。隣で眠りに落ちていくランファの肩に口付けしながらエルシアンも目を閉じる。落ちていく夢がどうか十六の頃の真摯な恋ではないように、あの夏の行方を追うものではないようにと、祈りながら。

《夏影 エルシアン16歳 了》