蟹と奥様1

 鋏がぱちんと殻を割った。先の曲がった鉄串を細い脚の甲羅に突っ込んで、エルシアンはひたすら中の蟹肉を掻き出している。食卓に今は殆ど会話がない。
 カーシャは俯いて自分の前に次第に山になっていく蟹肉をフォークでつつき崩すことしかしていないし、エルシアンは蟹を剥くことに熱中している。
 そもそも蟹を食する時には人は極端に無口になるが、手を伸ばせば届く距離に向かい合いって座りながら、二人の間には重い霧が掛かっているようであった。

 やがて最後の脚を処理し終え、エルシアンが顔を上げた。それに釣られたようにカーシャも同じようにし、視線があって二人はじっとお互いを見る。
 殆どにらみ合うような緊張感が夫婦の間を一瞬流れ、そしてエルシアンの溜息がそれを破った。
「……だから。食べ物の嫌いは駄目だって何度言ったら分かるんだよ。剥き方が分からないっていうのはもう通用しないからな」
 妻のその言い逃れを回避する為だけに小半時もかけて黙々延々蟹を剥いた自分を一瞬馬鹿じゃないだろうかとエルシアンは思うが、それよりもカーシャの偏食のほうが重要な問題だとすぐに思い直した。
 さあ食べろと開き直られて、カーシャは既に涙目に近い。が、エルシアンの方にも言い分はきちんとあって、出産が済んでまだ2ヶ月ほどであるというのに彼女は以前と変わらず絶句するほど食べない。肉と脂の濃いものは頑として口に入れず、魚も白身で背の柔らかい部分をつまむだけだ。

 彼女が難産で苦しみ、命の危険まで告げられたことをエルシアンは決して甘くは考えていない。とにかく体力からであり、体力の為には食べさせることだという周囲の意見に全面服従している。彼女は次は男子が産みたいと言っているが、今の状態では考えるだけでも恐ろしかった。
「私、本当に、蟹は駄目なんです……」
 消え入りそうな細い声にエルシアンは僅かに哀れみを覚えるが、こんなことではいけないと気力を立て直して渋面を作った。

「……蟹、嫌い?」
 声が若干押し殺されているのは、蟹を剥く労力の無駄を思うと気が遠くなりそうだからだ。剥けないと言われて意地になって全部ほぐしてやったのに、それを要らないと言われると流石に脱力が投げやりな怒りになる。
 エルシアンは既に自分の分は口にし終えている。ここのところ殆ど毎日のように費やされる長い夕食の時間の7割は、妻との戦いなのであった。
「蟹、だけじゃなくて、海老とかも……あの、甲羅のあるのは全部……」
 甲殻類は全て嫌だと言われ、エルシアンは長い溜息になって椅子に深く座り直した。
「……君って人は、肉も駄目、卵も駄目、小魚も海草も雑穀も芋類も駄目、駄目、駄目駄目づくしで一体何だったら食べるんだよ」
「や、野菜とかだったら、少し……」
「だーかーら! 少しじゃなく食べられるのは何かって聞いてるんだけど?」
「え? えーと……蜂蜜……?」
 エルシアンはがっくり肩を落とす。栄養という一面において悪くはないのだろうが、それだけ食べさせる訳にもいくまい。それに恐らく蜂の巣などは食べないだろう。

 夫が心底から落胆したことをすまなそうにカーシャは俯いている。叱られてしゅんとしている様子が可愛いことは確かだが、これで甘い顔をするといつもと同じだからエルシアンは尚更苦い顔をして見せた。
 今でなくてもいずれ、娘のしつけも始まる。好き嫌いはなく何でも食べなさいと言う側の母親が極端な偏食というのは良くない。どう考えてもいいはずがない。
 娘より先に妻の躾ということであった。

「君がその蟹を食べ終わるまで、待ってるから」
 若干まだ蟹臭い指を舐めつつ、エルシアンは椅子に座り直す。
 カーシャは硬い表情でじっと下を向いていたが、やがてフォークをおいて微かに泣き始めた。彼女の愁声が、細く空気を震わせている。
 反射的にもういいよと言いかけて、エルシアンはそれをどうにか飲み込んだ。
 今なら分かる。手に取るように分かる。──彼女は実家でもこの手で乗り切ってきたに違いない! まるで光景が目に見えるようだとエルシアンは思った。彼女の実家は軍閥の筆頭格である武門の名家で、兄3人の下に若干年齢の離れた妹として彼女は生まれた。父親と兄たちが総じて甘やかしたに決まっているのだ。

 18年をかけて熟成された天然で悪気の欠片もない、それ故に厄介な我が儘をどうしていくべきか、エルシアンも困惑気味だ。
 だが、ここで彼女の涙に負けてしまったら自分も彼女の家族と同じようになってしまうと言い聞かせ、エルシアンは殊更表情を厳しくした。そうして暫く、元のような重い無言が続く。しかつめらしい顔でそれに向き合うのに疲れた頃、エルシアンは長い溜息になった。
「……俺は別に君に今の2倍食べろって言ってるんじゃないんだよ。そんなことじゃ体にも良くないだろう?」
「それは、そうなんですけど……でも、蟹とか海老とかは駄目なんです……」
「君は大体なんだって駄目なんじゃないか」
 カーシャは反論に唇を尖らせる。嫌いなものは絶対にイヤ、という頑なさは啜り泣いていた時と殆ど変わらない。強情というなら確かだし、頑固というなら当たっているだろう。エルシアンは次第に疲労が苛立ちに変わっていくと感じながらゆるく首を振った。

「俺は君の身体のことを心配してるんだ。そんなんじゃいつまで経っても全然回復しないんだからな」
 自覚する程度にきつく、投げやりな言葉に妻はすっと青ざめた。エルシアンは自分の語調の荒さを一瞬悔やみ、慌てて宥めるような声を出そうとした。が、それよりも妻が口を開く方が早い。
「そうですよね、だって、そうしないと浮気されますから!」
「うッ」
 全く虚をつかれた格好でエルシアンは返答に詰まった。

 それは彼女の出産が近くなってきた夏過ぎのことで、欲求に耐えかねてこっそり遊女を呼んだのが何故かすぐに彼女に知れ、その後は絵に描いたような夫婦喧嘩になった事件の当てこすりである。
 産後の様子を見るためだからと未だに寝室が別である現実、彼女の口からそんな非難が出るのだった。その下心が全くないとは言わないが、それだけでは勿論ない。エルシアンは怯みからすぐに回復すると、カーシャ、と厳しい声を出した。
「それは散々謝っただろ。あんなに謝って謝って、まだ足りないのかよ」
「足りるとか足りないとか、そんなことを言ってるんじゃなくて、エル様の誠意の問題だって申し上げてるんですっ」
 誠意という言葉は実にこの場合耳に痛い。エルシアンは先ほどよりも強く気圧される。平謝りでどうにか王都の皇太后やら妻の実家やらへのご注進だけは勘弁して貰ったのだが、今でもこれはどうにも分が悪いことの一つであった。

「そ、それとこれとは今は全然別の話だろ!」
 蒸し返されて思わず怒鳴ってしまってから、エルシアンは自分で首を縮めた。彼女に声を荒げることは自分でも滅多にないことだった。
 カーシャは一瞬目を大きく見開き、そしてぱっと赤くなった。泣き出すのだろうかとエルシアンは慌てるが、涙はない。怒っているのだ。
「食べられないものは、食べられないんです。蟹はいや。嫌い。絶対にイヤです」
 彼女にしては低い声で、重く語られた言葉にエルシアンは長い吐息を落としてカーシャ、と言った。
「蟹、美味しいから、一口だけでも……」
「じゃあエル様にそれ、差し上げますわ」
 自分の労力という点を全く無視されて、エルシアンは腐りながら怒鳴る。
「これは君の為に剥いたものだから絶対に俺は食べないからな!」
「だって本当に嫌いなんだもの!」
「嫌いなものが多すぎて本当に嫌いかどうか俺には全っ然分かりません!」
「蟹は本当にイヤなの!」
「蟹、美味いね最高だね!」
「──エル様は私と、蟹と、どっちがお好きなんですか!」
 一瞬エルシアンはぽかんとした。その訳の分からない質問はなんだろう。ただし、それが彼の言葉に従順に頷くものでないことは明白である。と、いうことが分かった瞬間、かあっとなった自覚はあった。

「──蟹!」
 怒り半分苛立ち半分にエルシアンは怒鳴り、席を立った。大っ嫌い、と叫ぶ妻のかんしゃくを背後に聞き流し、足早に自室に帰る。昨晩飲みかけておいてあった酒瓶を掴んで中味を口に放り込み、早々に毛布を被って目を閉じた。腹が立つ時は、これに限る。