蟹と奥様2

 寝室の扉が閉まった音でエルシアンは目を覚ました。ぼんやりしながら体を起こすと小間使いがおはようございますと頭を下げる。
 ちらっと窓を見れば、外はもう明るい。昨晩はそのまま眠ってしまったようだった。差し出される湯で顔を洗ってひげをあたり、身支度を整える間、エルシアンは多少の気の重さを溜息にして流した。
 昨夜の夕食の時、流石に言い過ぎた部分もあったことを理解しない訳ではない。ただ、カーシャの身体のことはやはり心配でもあるし、彼女の偏食について考えを改める気は全くない。
 甲殻類は全部駄目だといっていたからそれには今後配慮するとしても、やはり野菜と蜂蜜だけという食卓には怖気を覚えるのだった。
 感情的になりすぎた部分はやはり、謝らねばなるまい。あちらだって悪くない訳ではないが、こんな時は最初に謝った方がいいのだとエルシアンは既に知っている。

 食堂の扉を押すと、まずファイエが微笑んで会釈した。ファイエは妻の侍女だ。実家にいた頃から親しかったらしく、結婚する際にもカーシャが連れてきたのである。
「おはようございます、公」
 いつものような挨拶にいつものように頷いて、エルシアンは彼の席に着いた。カーシャはまだ来ていないようだ。彼女が朝に遅れることは滅多にないことで、昨晩の喧嘩のことをまだ怒っているのだろうかとエルシアンはやや不安になり、側のファイエになあ、と話しかけた。
「カーシャはまだ、寝室に?」
 だがファイエは怪訝な顔をした。何か変なことでも言ったのだろうかとエルシアンは首を傾げ、そしていや、と思い直した。自分はただ妻の所在を聞いただけだ。
 朝食など要らないという意思表示であるならこれは長期戦の構えといえよう。いけないと思いながらも次第に不機嫌になってくる胸の作用をエルシアンは押し殺そうとした。

 妻の偏食は確かに今に始まったことではない。結婚する前にシエルナ本邸に挨拶に行ったとき、今から考えるならば確かにカーシャだけが家族とは別のものを食べていた……気がする。それを自分が直してやるのだという自負があるならば、やはりここは退く気がないことを教えるべきだろうとエルシアンは妻の侍女に向き直った。
「ちゃんと出てくるようにカーシャに言っておいで。君が来るまでずっとここで待ってるから、と」
「あのぅ……」
 エルシアンの言葉にファイエはひどく言い辛そうに目を伏せ、おずおずと切り出した。
「奥様はそこに……あの、さっきから……」
 ファイエが滑らせる視線をそのまま追って、エルシアンは食卓の上にそれを見つけた。
 先ほどから何故そんなものがぽつんと食卓に置いてあるのか、目には入っていたものの、気にもなってはいたものの、怪訝に無視してきた……それ。
 エルシアンの両手にすくいあげるほどの大きさの毛蟹。

「カーシャ……いや、蟹……」
 エルシアンは呟き、そしてファイエを見上げ、蟹を見た。ファイエの方は当然であるというような、もっともらしい顔で頷いている。
 何の冗談なのだろうかと思わず失笑しかけた瞬間、その声はした。
「エル様、お早うございます」
 エルシアンは一瞬ごくりと生唾を飲み、僅かに腰を浮かせて周囲を見回すが、誰もがさして疑問を持たないような顔つきでいる。というよりも今この瞬間に挙動が怪しいのは自分だけだ──という事実に遠い眩暈を覚え、エルシアンはどさりと椅子に座った。
「ご気分でも悪いんですか……?」
 普段聞き慣れたカーシャの声が、やはり耳馴染んだ優しさのままでエルシアンを気遣っている。ごく普通の朝、ごく普通の会話、ごく普通の夫婦。たった一つ普通でないことは。 
 エルシアンは混乱しそうになる思考をとどめるようにこめかみを指で強く押しながら、毛蟹と真向かい合った。
「……カ、カーシャ?」
「はい?」
 返事はやはり、蟹から聞こえた。

 エルシアンはじっと毛蟹を見つめ、曖昧に笑った後でおもむろにテーブルクロスを持ち上げて中を見る。が、そこには椅子の足ばかりが並んでいて、他には何もない。
「公、あの……どうかなさいまして?」
 ファイエが眉根をよせる。エルシアンはいや、と首を振り、それからもう一度食卓の下を覗き、そして椅子に座り直した。
 事態は全く飲み込めていないのだが、目の前の毛蟹はカーシャらしい。らしい、というのはエルシアンがそれを認めたくないからだ。何がなんだか分からない。自分が全く事態を飲み込んでいないことだけが分かる。

 エルシアンの呆然をよそに、いつもと同じような朝食が始まった。召使いたちの給仕ぶりもエルシアンの好みの問題であまり変わり映えしない献立も、何もかもが普通の朝だ。
 流されるまま朝食のパンをかじりながら、エルシアンはちらちらとカーシャというべきなのか蟹とするべきなのか、彼の眼前で食事をする毛蟹を見つめる。器用にハサミでパンを押さえてちぎって食べているのを半ばぽかんと眺めていると、眼球が不意にせわしなく左右に揺れた。
「エル様、どうなさったんですか? 今日はなんだかちょっと変です」
 言っている内容も声音も元の妻のままであったから、尚更エルシアンは微妙な面もちになり、うんと曖昧な返事をした。
「変かな……変……変だよな、多分。……それとも俺が間違ってるのか?」
 エルシアンの不審とは裏腹に、その場にいる全員がカーシャも含め、彼女が毛蟹の姿をしていることに疑問を抱いていないようであった。その至極当然と言った顔つきを眺めていると、次第におかしいのは自分のほうのような気になってくるのは何故だろう。エルシアンは一つ大きく頭を振る。
 自分だけが見ている白昼夢だと思いたかった。あるいは、昨晩の夢の続きだろうか。そこまできて、エルシアンはやっと昨日の夕食の一件を思い出した。

(エル様は私と、蟹と、どっちがお好きなんですか!)
(──蟹!)
 そうだ、確かにそんなことがあった。けれど、こんなものは言葉のあやだ。それを真に受けて……というよりも、論理的に、ありえない。人が蟹に変わるなどという奇病があると知っていたら大体ミシュアルになんか来なかった、なんで誰も教えてくれなかったんだ──
 エルシアンはふっと素に返った。こんなことを真剣に考えている自分自身がひどく錯乱しているのだと思ったのだ。
「エル様、お熱でもあるんでしたら今日はお仕事お休みになって、部屋でゆっくりなさって下さいね」
 先ほどよりやや心配そうな色味が濃くなってきた妻の声に、エルシアンは必死で笑顔になってみせた。
「いや、今日は大事な会議があるからね。それに体調は悪くないから大丈夫、ちゃんと行くよ」
 尤もおかしいのは自分の目か頭かもしれないが。

 半ば呆然としながら機械的に朝食を口に運んでいるエルシアンの前で、くだんの蟹は平然──という表現が蟹に適応されるなら──とパンをかじり茶を啜り、カボチャと薫製肉の炒めものからいつものように丁寧に肉を抜いている。
 その仕草を見たときに、この毛蟹と妻の像がぴたりとエルシアンの中で重なった。毛蟹が妻だというならそう……なのかもしれない。何故ならカーシャも同じものを出せば同じ事をするからだ。
「……カーシャ、ちゃんと肉も食べろよ」
 普段のような小言を口にして、エルシアンは眩暈の小鳥ようなものがぐるぐると自分の周辺を飛んでいる気分になった。この奇妙で現実的な世界に自分まで違和感なく馴染んでしまったらどうしようという気持ちと、自分以外の誰もが奇異な感覚を持っていないことに対する薄い恐怖が交互に浮いてくる。

 カーシャであるらしい蟹はエルシアンの言葉に一瞬ぴくりと目をあげて、渋々言い訳のような小さな切れ端をかじり始めた。その態度もまさしく妻のものであった。エルシアンはもっと、と言いかけてそれを飲み込んだ。
 ──私と肉とどっちが好きなんですかなどと下らないことを聞かれたら、反射的に肉と怒鳴ってしまいそうだ。それが全体の呪文なのかどうかは知らないが、とにかくこれ以上の異常は勘弁されたい。
 自分の思考がいやに後ろ向きの上に全く論理的でないことを承知しているが、今エルシアンを取り巻く状況も全く論理的でないのだから、多少自分の思案に飛躍や突飛なものが混じっていても仕方がないだろう。
 ……と、無理矢理自分を納得させて、エルシアンは残りの朝食を押し込み席を立った。いずれにしろ、そろそろ公邸の方へ行って執務を開始しなくてはならない時間だ。
「いってらっしゃい、エル様」
 いつものような妻の挨拶にエルシアンは頷き、まだ夢の続きを見ているような気持ちでいってきますと呟いた。