蟹と奥様3

 執務室の方には既にハイフォンがいた。彼は他の漢氏が頑なに着込んでいる漢氏服や結い上げる髪型にはさほど頓着しない。エルシアンたちと同じようにお仕着せの秘書の制服に合わせて髪もこちらの風俗様に適当にひっつめている。
 学生時代から馴染んでいる相手が全く普段と変わらない様子であったことで、エルシアンは多少落ち着きを取り戻した。あれは夢だ、と断じてしまうのにはためらいが残るものの、自分の適当な執務ぶりに小言をくれる彼の表情を見ているとやっと現実へ戻ってきたような気分になる。

 エルシアンは知らず、微笑んでいたらしい。ハイフォンが怪訝な面もちで説教を途中で切り上げた。
「何だよ、今日は素直に聞くんだな……顔色良くないな、大丈夫か?」
「平気だよ、ちょっと出がけに……」
 言いかけてエルシアンは言葉を一度飲み込んだ。自分でも処理できていないことを上手く彼に伝えられる気はしなかった。
「……出がけに夫婦喧嘩しただけだから」
 本当に相談したいのはそれとは全く別の部分なのだが、なんと言っていいのかもよく分からない。朝起きたら妻が蟹になってました? ゆうべ君より蟹が好きだと言ったから? 一体何の妄想なのだと自分なら笑い飛ばすだろう。
 ハイフォンは肩をすくめた。余所の夫婦喧嘩などは猫もまたぐ、ということを彼はよく知っているのだった。
「ご家庭のことはご家庭で処理してくださいな。とにかく、領地の人民に慈悲と恩恵を施すべきお立場、ゆめお忘れ無く、ミシュアル公閣下」
 わざわざ役名で呼ぶところは嫌味であろう。昨日既済書類の署名を彼に押しつけて、フィリルと共に新設した貿易交換取引所へ視察に行ったのを根に持っているのだ。

「今日は朝から会議だったっけな」
 ハイフォンの苦い釘には気付かないふりで、エルシアンは毎度自分で書き留めている会議の記録を取り出す。書記官が残す正式な議事録もあるが、こちらのほうが自分で書くせいなのだろうがわかりやすかった。
 議事録をめくり、前回の流れと自分の発言などを簡単に頭に入れてエルシアンは会議室に向かう。ミシュアルの治領に関してエルシアンは、決して怠慢な領主ではない。ただ、署名だけの書類などに代表される事務と計算尺の無い状態での経済学の巨大な計算には尻込みしがちなだけなのだ。
 ──だが、この日の会議にはあまり身が入らない。一体どこからが夢なのか現実なのか、気付けば海産物取引品目の「蟹」だけに反応する始末だ。エルシアンの様子がおかしいと参議官にも伝わったらしく、途中で一度はさんだ休憩にハイフォンがそっと彼の耳に口を寄せた。
「……大丈夫か、お前、本当に? 熱は……ないみたいだけど、少し気分が悪いなら会議は明後日に繰り越して、休んでもいいぞ」
 今夜は領内の貴族の結婚式に主賓として招待を受けている。酒が入るのは必至であったし冬という季節のこと、彼が気遣ってくれたのは分かった──が。エルシアンはここでやっと重要なことを思い出した。あ、と声を上げて会議机に突っ伏し頭を抱える。

「そうだ、結婚式……」
 この言葉にハイフォンも少し慌てたようだった。
「え、何だよ、衣装とか下賜品とか準備したよな? いやそれ俺が手配したんだよな? 祝辞も昨日書かせたよな? え、え、他に何か段取り忘れてるっけ?」
「ああ、いや、それは大丈夫なんだけど」
 エルシアンはハイフォンの動転には首を振り、そしてもう一度頭を抱えた。そうするしかない。
 主賓としての招待は妻同伴なのだ。
「参ったなあ……カーシャどうしよう……」
 よりによって蟹。
 この季節毛蟹はどこでも食卓の豪勢な献立の一つに必ず上る。席について目の前に毛蟹が出てきたら、俺は一体どうしたらいいんだろう……いや待て、大体彼女を連れて行くのだろうか。今日は体調が不良ということでカーシャは連れて行かないほうがいいかも知れない。大体、材料だと思われてどこかへ連れ去られてしまう危険がないわけではな……

 エルシアンはふと自分の思考に気付いて苦い顔になった。一体何を真剣に考えているのだろう、自分は。だが彼の言葉にハイフォンの方は余裕を取り戻したようだった。何だ、という声には明るい安堵が浮かんでいる。
「昼食は今日も私邸だろう? その時に謝り倒してどうにかしたらいいさ」
 エルシアンは曖昧に頷き、そしてハイフォンをじっと見た。自分一人では解決できない気もするし、彼に事実を見せて相談したい気もする。
 そもそも言葉で何かを説明するよりも、現実をありのままに提示しなくては信じてもらうところから、の話だ。

「……なあ、昼飯、お前も一緒に来てくれよ」
 エルシアンの言葉にハイフォンは一瞬苦笑したが、エルシアンが存外に真剣なのを知ったのだろう頷いた。
「その代わり、仕事はちゃんとするんだからな」
 念を押されてエルシアンは何度も頷いた。仕事くらいで妻のことがどうにかなるならすがりたい。本当に、一人ではどうしていいのかさえ見当がつかないのだ。エルシアンの顔がぱっと明るくなったのを見て、ハイフォンは苦笑した。夫婦喧嘩なんか見てると結婚なんかまだまだしなくていいなって思うなあと言われてエルシアンは肩をすくめる。ハイフォンは漢氏という世界の王子の一人だ。彼なりの優雅さで独身を楽しんでいるのだろう。
「いやいや、家庭ってのも悪くないよ。まあオコサマには分からないだろうけど」
「俺はせっぱ詰まって慌てて結婚しなくてもいいからな」
 二人は視線を合わせて微笑み合う。学生時代からの気安い馴染みが気楽で良かった。

 会議が終わると丁度昼食の時間になる。先に私邸の方へ従僕をやってハイフォンの分も用意するように伝えたから、忙しくてもそれなりにしているだろう。願わくば朝のアレが自分の夢であって欲しいのだが、これは期待というものであった。
 ミシュアル領主としての執務の場である公邸と彼の生活の場である私邸は長い回廊と広い庭を挟んで隣接している。私邸の敷地に足を入れる時以外にはあまり護衛や警備などの重々しいことをしないエルシアンののどかさにハイフォンは時折忠告をくれるが、さして必要であるとは思えなかった。それに、友人に相談を持ちかけながら歩くときには便利といえる。

「……ま、そんなわけで怒鳴ってしまってさ」
 事の顛末を語ると、ハイフォンはそう、と存外に優しい目をした。
「奥様は相変わらず、偏食で小食だね」
 ハイフォンの素直な感想に、エルシアンは曖昧に笑った。カーシャの食事に関することは結婚して赴任地であるミシュアルで初めて一緒に暮らし始めた頃から気にかかっていた。それが悩みの一つになったのは、娘の出産のときのことが大きい。体格や体力の問題が折り重なって、妻は子供を産むことが非常に辛い身体なのだと気付かされたのだ。
 あの時の重苦しい恐怖は二度と見たくなかった。エルシアンの穏やかな表情で、ハイフォンも何事かを思ったらしい。心配だね、と付け足してそっと笑った。エルシアンはそれに頷くように微笑んで、ぬるい溜息になった。

 私邸の方はそれなりに準備をしていたようであった。そう長い距離を歩くわけではないが妻の気遣いでいつも玄関に用意されている蒸した布がきちんと二人分揃えられている。奥様はそんなに怒ってないみたいだよと言うハイフォンにエルシアンは返答をせず、いいからと彼の袖を引くようにして朝と同じ食堂へ入っていった。
 頼むから朝のアレが自分の幻覚であって欲しいというエルシアンの希求はやはり叶えられない。彼と向き合うようにして作られている席にはやはり、というべきなのか当然のような風情で毛蟹がたたずんでいる。
「ハイフォン、久しぶりです」
 カーシャの声が普段と変わない、おっとりした口調で言う。
「あ、ええ、お久しぶりです、奥様。……お体の方はもうよろしいんですか?」
 一瞬返答が遅れたものの、ハイフォンはごく普通に会話を交わしている。やはりおかしいのは自分だけなのかとエルシアンはいぶかりながら、自分の席に腰を下ろした。

 昼食は非常に和やかに、穏やかに過ぎていった。相変わらずカーシャ(であるところの蟹)は苛立つほどものを食べない。それをハイフォンからもやんわり叱って貰うことが出来たのは拾いものであったかも知れないが、しかし、それにしても。ハイフォンはしごく穏やかに当然のようにカーシャと話している。妻の方もあまり普段と変わらない。
 何か、蟹であることを気にしているのは自分だけのような焦りがエルシアンの中にぐるぐる渦巻いているが、表面だけは綺麗に二人に合わせてしまう辺りエルシアンの習性と言うべきであった。
 昼食が終わってカーシャが私邸の玄関まで見送りに出てくれる。普段は嬉しいはずなのだが、ハサミをかたかた振られてそれに手を振り返している自分について、ひどく奇妙で微妙な感触を持つのは自分の心が狭いのだろうか。
 エルシアンはふっと溜息になって、公邸へ歩き始めた。ハイフォンの足音がそれに続いた。