蟹と奥様4

 私邸から公邸に戻る道すがらには、回廊が造られている。ミシュアルは温暖で雪は滅多に見ない土地であるが、霜は降りるために冬はぬかるみが出来やすい。そのためにも、この回廊は便利であった。
 公邸の通用門が視界にもどってきて、エルシアンはちらりと背後の友人を見やる。私邸を出た頃から彼は殆ど口をきかない。黙って視線を下に流したまま、じっと何かを考えているような表情であった。
「ハイフォン」
 エルシアンが呼ぶと、それではっとしたように漢氏の友人は顔を上げた。僅かな瞬間、めまぐるしくお互いの思惑の光が瞳を往復する。
「あのさぁ……」
 友人の唇が重たげに、しかし言わねばならないという決然とした調子で開く── が、その先の切り出しが出てこない。彼が何を迷っているのかをエルシアンは目線の交感で既に知り得ていたような気持ちになっていたから、ハイフォンから目を逸らさずになあ、と呟いた。

「……蟹……」
 その言葉にハイフォンがすっと視線をきつくした。自分の呟きが彼の中に完全に落ち着くまでエルシアンはじっと時間を待つ。あるいはそれは、長い一瞬であった。
「そう、蟹、蟹だよ……な?」
 ハイフォンはひどく安堵したような顔で吐き出すように言い、どっと疲れたように溜息を長々と吐いた。エルシアンは何度も無言で頷いた。
 自分の見たものが信じられないと言うようにハイフォンは今度はひたすら首を傾げては振り、傾げては振り、壊れた人形のような仕草を繰り返している。それに無限に頷き続ける自分が加わって、へたくそな芝居のようだ。
「そうなんだよ、蟹なんだよ、朝からあんななんだよ」
 やっと訴えることの出来る相手を見つけた安堵と依存で、自分の声は普段よりも甘たるい。だが、朝起きたら妻が蟹になっていたという異様な事態を他人が認知したことで、ようやく自分がおかしいわけではないのだという確信を得、エルシアンはほっとしているのだった。ハイフォンはまだ首をひねり続けている。

「おかしいとは思ったんだけどさ、お前もファイエも他の召使いも普通にしてるだろ? 奥様が蟹に見えるのは俺だけかと思った」
 ハイフォンも彼と同じ事を思ったようであった。エルシアンは苦笑する。どうしよう、と呟くとハイフォンは大きく首を振った。
「知らない。分からない。大体、こんなことってあるのか……いやあるんだよな、そうなんだけど……何で蟹になったか心当たりはないのか?」
 これも通常であれば実に微妙な質問であったろうが、ハイフォンの混乱もエルシアンにはよく分かる。いや、と生真面目に返答すると、だろうねと友人は溜息になった。
「今夜の招待はどうするんだ奥様は急病でご欠席、にするのか? 本人はいくつもりでいるみたいじゃないか、どうすんだよ」
 先ほどの昼食の席でハイフォンが今夜の結婚式の衣装の話をしていたのはそのせいだったのだとエルシアンは思い至る。
 カーシャは確か、エルシアンの分家についてきた天国鳥の紋章を裾に刺繍したドレスを新調したのだ。びろうどのなめらかな光沢がやっと18になる妻の若い可愛らしさを適度に大人びさせていて、仮縫いの時からエルシアンに見せに来るほど彼女は楽しみにしていたのだが……あれを着るつもりでいるのだろうか。
 但し、どうすんだよと誰かに詰め寄りたいのは自分であった。

「ど、どうしたらいいと思う?」
 エルシアンが聞き返すとハイフォンはじっと考えこんでいたが、やがてうなりながらも口を開いた。
「奥様はご欠席にするか……しかしアマトア公はシエルナとは遠縁だから奥様からも花と祝辞をいただいてるんだし、欠席はまずいよな。いっそ誰か代役でも立てて適当に誤魔化したらどうだ──ファイエでもいいとは思うが」
 エルシアンはそれには首を振る。何故と聞かれて微かに笑い、ファイエは駄目だと強く言った。
「彼女は駄目だ。他に心当たりがあれば探したい」
 何故、とハイフォンが聞き返す。それに返答せず、エルシアンはもう一度彼女は駄目だと繰り返した。北風が二人の間を早足で駆け抜けていく。一瞬頬に散った後れ毛を耳にかけ直して、ハイフォンは哀しげな顔で目を伏せた。
「……気付いてたのか、お前……」
 エルシアンは唇で笑って直接の返答はしない。ただ、彼女はカーシャの友人だ、と低く言った。
「彼女が妻の友人であるなら、俺は知らないほうがいいこともある。結局、俺にとって一番大事なのはカーシャだから──……」

 ふと胸内に淡い金の髪が揺れた気がして、エルシアンはそこから無理矢理目をそらした。今はもう、関係のないひとのことを思い返す自分がひどく薄情で不埒な男に思えてくる。そのあえかな光感を無視し、エルシアンは友人に向けて苦笑を作って見せた。
「だから今の話もなかったことにして忘れて欲しい。俺は何も知らないし、見ていないし、気付いていないんだ」
 エルシアンは他人の好意と悪意に人一番敏感なたちであった。ファイエの穏やかな微笑みの向こうに隠された何かがあることは何かの劇的な出来事さえなくても、文字通り肌で感じることが出来た。
 けれど、それはカーシャの身辺からゆるやかで穏やかな時間を奪うだろう。どちらを大切にしたいのかと問えば、まるで考える時間もないほど素早く妻であると結論が出た。ああ、とハイフォンはそれで小さく頷いた。
「だから女を呼んだんだな、彼女に手をつけるんじゃなく」
 エルシアンは肩をすくめることで肯定する。実際ファイエと関係を持つ方が楽なのは承知しているが、カーシャのことを大切に思うならば、最初からその選択はなかったのだ。

 いいさ、とエルシアンはハイフォンの袖を引いた。あまり立ち止まって話していては冬の風の厳しさが身体の芯まで入り込んでくるようであった。
 公邸にはいると一息に暖かくなる。ふわっと頬が紅潮していくような感覚にエルシアンは少し笑い、お茶にしようと言って執務室へ戻った。ハイフォンは自他共に認める無類の茶道楽で、彼にして貰うと茶葉が一段高級になったように味が上向く。
 決済の書類に適当に署名を入れながら、エルシアンはで、と言った。
「結婚式、どうしたらいいと思う?」
 うーん、とハイフォンが唸る。シエルナとは遠縁と彼が先ほど表現した関わりで、カーシャの名前で既に花や祝辞などを送ってある。彼女が公式かそれに準じる場所へ出るのは非常に珍しい部類に入るため、楽しみにしていると先方から言われたこともあり、欠席として簡単に処理してしまうには気が引けた。
 ……何よりも、本人は行く気だ。

「大体何で蟹なんだ、もっと違うものでも良かっただろう」
 ハイフォンの主張も非現実的な現実に惑わされておかしくなってきているが、エルシアンはそれを指摘せずに頷いた。ほんとだよ、という溜息が自分の唇から自然と零れてくる。
「蟹じゃなきゃ何でもいいって気持ちになるな、まったく……当て付けだとしても程があるよ」
「当て付け?」
 ハイフォンの問いにエルシアンは大体の経緯をかいつまんで説明する。と、ハイフォンは長々とした溜息になった。
「じゃああれだ、お前が済みませんでしたって謝り倒せば済むんじゃないか。意地張るなよ、馬鹿馬鹿しい……大体こういうときはさ、愛の力とかでどうにか丸く収まるんじゃなかったのか、普通」
 ハイフォンはふてくされたような顔をしている。エルシアンは彼の耳を軽く引っ張って渋面を作って見せた。
「それがおとぎ話ならな……ハイフォン、投げやりに変なこと言うなよ、お前投げてるだろ、人ごとだと思って……」
 既に建設的な話し合いにはなっていないのだが、前提条件からしておかしいのだから仕方がないとエルシアンは見切りをつける。だが、いいやとハイフォンは強く言った。
「違うな、こういう時は王子様の愛のキスで目覚めることになってんだ。これ以上は俺は独身のオコサマだから、夫婦間の微妙なことは全ッ然、分かりません!」
 彼は現実に嫌気が差したに違いなかった。エルシアンは待てよ、と友人の袖を掴んで彼の淹れた茶を褒めちぎるがあまり効果がない。それでもしつこく食い下がると、ハイフォンはだから、と面倒そうに言った。

「それはやっぱり奥様に謝り倒すしかないよ。蟹より好きだとか、蟹でも好きだとか、なんかそんなことでも言ってやれよ……そ、そうだお前だって去年まで現役の王子様だったんだから、資格はある!」
「……は? いや、おとぎ話の王子様と俺が王子だったのは全くどんな関連もな……」
「いーや、多分ある! いや、あるったらある! いいな、それで駄目だったら代役にするのか欠席にするのか……お、奥様を本当に連れて行くのか自分で考えろ! 頼むから俺を変な世界に引き込まないでくれよ」
 ハイフォンはそれだけ早口で言って彼の縋り付く手を振り払い、エルシアンの机にどっさりと書類の束を置いた。
「さ、仕事仕事。今日こそはキリキリ働いて貰うからな」
 ハイフォンの目に『勘弁してくれ』という泣き言を見つけ、エルシアンは口元を歪めた。
 ──勘弁されたいのは、自分であった。