蟹と奥様5

 ここしばらくの怠慢な職務のつけを一息に払わされ、エルシアンは夕方近くなってから私邸に戻った。一縷の期待をもって覗いた妻の部屋にはやはり……蟹。
「……どうしたんですか、エル様?」
 落ち着かない様子の彼に妻はいつもの通りの淡く、邪気のない声で話しかける──蟹の姿のまま。
 カーシャ、と呼ぶとこれも全く変わらない声音ではいと返る。いっそこれで声や仕草なども変わっているのなら現実を無視することは可能だろうに、何の嫌味なのか外見が蟹というだけで妻の本質は何一つ変わっていないのだった。……それだけ変容すれば十分なのかも知れないが。

 エルシアンは努めて穏やかに妻を呼んだ。カーシャもええ、と淡く返事をする。昨晩のひっくり返ったかんしゃくの様相などは今は綺麗に消えて、日常のゆるやかさは少なくとも声音には戻ってきている──ゆえに混乱もするのだった。
「昨日は済まなかった」
 ハイフォンの投げやりな言葉にどれだけの信憑性があるのかなど知らないが、謝れ謝り倒せという彼の言葉に頷かない理由など無かった。エルシアンの言葉に、カーシャである蟹は吐息のように声を漏らした。笑っているようであった。
「エル様、むきになるんですもの……私よりも蟹が好きだっておっしゃるから、びっくりしたんです」
「いやあれは言葉のあやというか、勢いというか……謝る、謝るから、頼むから、元に戻ってくれないか……」
 一体自分が何を呟いているのだろうとエルシアンは理性の隅でこっそり呟くが、カーシャとの会話は何故かこれで辻褄が合うらしい。カーシャはそうですねえ、とくすくす笑っているのだ。
 ますます奇妙な気分になるが、ではハイフォンの言葉もあながち的はずれではなかったのだと思えば次に言うべきは決まっている。

「好きだから、頼むから、元の姿に戻ってくれ……なあ、次の子供も欲しいんだろ? き、君が蟹のままだったら、子供だって無理じゃないか」
「潰されちゃいますものね」
 微妙だけどそこじゃない。
 咄嗟にでかかった言葉を飲み込み、エルシアンは頷いた。今カーシャの機嫌を損ねたくはなかったのだ。カーシャは小さく含み笑い、エル様、と言った。
「私、エル様のお好きなものになりたいんです。ね、どうしたらいいですか?」
「元に戻ってください」
 エルシアンは深く頭を下げる。元々王族としての誇りの薄いたちであったから、割合簡単に彼は頭を下げるのだった。
「でも、エル様、私よりも蟹がお好きだって」
「いや、それは謝るから、ごめんなさい。元に戻ってください」
「じゃあ……」
 彼女に向かって頭を下げていると、急に声の焦点がぼやけて聞こえなくなった。エルシアンは顔を上げる。そこにいたはずの蟹の姿はなく、かといって代わりに元のままの素直で愛らしい、少女めいた姿は見つけられない。

 不安になって周囲を見回していると、エル様、という声が突然後ろからかかってエルシアンは咄嗟に振り返り、微かに後ずさった。そこにいた女はカーシャではなかったが、彼の知った女だった。もうずっと前に、初めてつき合った少女。
 何を言っていいのか分からずに呆然としたエルシアンの前で、少女はくすりと笑った。その声は確かにカーシャだった。君、と言いかけた時に少女の姿がふっと変わる。それもまた、以前気持ちを寄せていた少女だ。思い出が切り替わるように、次々と関係してきた女達が現れてくる。
 カーシャ、とエルシアンは呻いた。
「君が好きだ──だから、こんな風に俺をからかわないでくれ」
 何故彼女が自分の記憶の中を知っているのかなど、考える余裕もなかった。

 カーシャ、とエルシアンは首を振った。
「頼む、俺は君と結婚して良かったと思ってる、君を好きだ、君とリーズと、ふたりとも俺の一番近くで一番大切にしてるつもりだ、だから君が心配だから、怒鳴って済まなかった、けど、君を大切に思うから、好きだから言うことだってある、君が好きだ!」
 殆ど叫ぶようにした言葉の最後で、全く違う姿をした妻はふっと淋しく笑った。その顔は一体なんだと言おうとした唇から零れたのは、恐らく悲鳴にもならない吐息だった。
 ふわりと波打ち、優しくひたよせてくるような白金の髪。誰とも比較にならないほどに美しい面差し。殆ど触れることさえ出来ないで、心通じているのを分かっていながら手放さざるを得なかった女。
 エルシアンは喉を鳴らし、また一歩、後ろへ下がった。

「……カーシャ」
 絞り出したような声が、泣きそうに震えている。
 エル様、と呼ぶ声は妻そのもののあどけなさなのに、何故こんなことをするのだろうと息苦しさにあえぎ、エルシアンはカーシャともう一度怒鳴り、──
「きゃっ」

 ──怒鳴ったことで、跳ね起きた。
 視界が暗い。それまで黄昏の淡い光の中にいたはずなのに、急に光を見失ってエルシアンは少しの時間呆然とする。
 目の端に、けれど暖かな色をした光が蛍のように紛れ込んできて、エルシアンはゆっくりそちらを見た。
「……エル様、大丈夫ですか……?」
 蝋燭台を手に彼をのぞき込んでいるのは、彼の妻だった。金茶色の髪がふわふわと頬を縁取って流れ落ちている。心配そうな面もちで微かに目を見開くようにしてこちらを見つめる姿にエルシアンはやがて心底からこぼれてきた笑みになった。
「カーシャ……」
 妻はこくんと頷き、彼の側によると寝台脇の小卓に蝋燭台を置いた。エルシアンはもう一度妻を呼んだ。カーシャははい、と彼女らしい素直な返事をしてエルシアンの横に腰を落とした。

 その頬にそっと触れる。ぬくもりも肌のなめらかさも、まったく同じだ。戻ったのだという感慨がその頃になってやっと湧いてきて、エルシアンはカーシャを抱き寄せた。
 そっと彼女が自分の胸に頬をすり押し当てる。
 軽く何度か唇をあわせていると、蝋燭の炎がじりっと音を立てた。それで今自分が寝室にいることにエルシアンはようやく思い至り───

 そして部屋の暗さに今度こそ仰天して、慌ててカーテンの隙間から外を覗いた。月はやがて真中天に達しようとしている。やがて夜中というべき時刻だ。エルシアンは頭を抱えた。
「……結婚式……」
 エルシアンは呻く。主賓だったのに。何故誰も来なかったのだろう。ハイフォンだって一緒に行くことになっていたはずが、どうしてこんな……
 エルシアンの呟きに、カーシャがどうしたんですか、と言った。
「どうしたも何も、結婚式、すっぽかしただろう……」
 さてどんな風にして今後を取り繕うかを算段しながらエルシアンは次第に自分が青ざめていくのがわかった。主賓であったはずなのだ。

 と、カーシャが不思議そうな声を出した。
「結婚式、明日ですけど……?」
「……明日? だ、だって君が蟹になって……」
 エルシアンが言いかけると、カーシャは一瞬奇妙な顔をして、それからくすくすと小さく笑い出した。
「やだ、エル様まだ夢の続きですか? どんな夢を? 蟹がどうとかって言ってるの、聞こえましたけど」
 しばらくの、沈黙。
 エルシアンはじっと妻の顔を見つめる。まだ幼さの片鱗を残しながら、それでも淡い眼差しと暖かなほほえみで彼を包み癒してくれる、愛しい人を。その笑顔にやっと、エルシアンの全身に現実感が戻ってくる。薄い笑みをこぼしてエルシアンはカーシャを見つめた。彼の視線にはにかむようにカーシャは唇をほころばせ、あの、と彼の袖を引いた。
「あの、蟹、とそれと……私のこと、好きだって……」
 エルシアンは淡く笑う。そうだね、と頷いて彼女の頬に触れ、唇で触れる。カーシャがごめんなさい、と小さく言ったのが聞こえた。

「エル様が私のこと、心配してくださってるのは分かってるのに、ごめんなさい……蟹と海老は本当に昔から、絶対食べられなくて……でも他のものはちゃんと食べるようにしますから……」
 エルシアンは頷いた。さっきは俺も言いすぎたなと呟くと、カーシャが甘えているのか遠慮なのか、緩く首を振ったのが分かった。それをゆっくり抱き留めていると、耳元でそれと、と妻が囁くのが聞こえた。
「さっきあんな風だったから言えなかったんですけど、あの、今日からまたここで眠ることになりました……そのぅ……産婆さんが、もう、その、いいって」
 エルシアンは黙って彼女を抱く腕に力を込める。カーシャの細い腕が自分の背中をまさぐるように抱き返すのを待って、乱暴にしないように気をつかいながら寝台の中へ引き込んだ。
 好きだよと囁くと、彼の肩に顔を埋めるようにして妻がひとつ、頷いた。
 ところで翌日の晩餐の主菜が毛蟹で、夫婦揃って全く別の理由で顔をしかめたことは、この際は蛇足である。

《蟹と奥様 了》