Sleeping Beauty

 あたしの兄は35才、独身である。兄は両親に結婚を無言でせまった子供、そしてあたしはいわゆる「恥かきっ子」というやつで父53才母51才の時の子供だから、兄とは17才、離れている。
 兄は身長が156cmと低いことと、30前後からじりじり後退していった前髪のせいで老けて見えることを除けばまぁ性格や収入などの条件は悪くないのだが、多分、その2つのハンデが大きすぎるのだろう。彼女もいないみたいだった。クリスマスにもバレンタインにもいつもと同じ時間に帰ってくる。バレンタインは毎年3〜40個のチョコをもらってくるが、全てが兄の教え子たちからの義理である。妹からみても男臭くないというか、いい人ではあるので(もっともこういう場合のいい人っていうのはどうでもいい人、の略であることが多いが)生徒たちも渡しやすいのだろう。
「こりゃもう、教え子に手をだすしかないね」
そう言うと兄は決まってぶりぶり怒り出す。不謹慎だというのだ。こんな所、妙に律儀で妹としては複雑である。かといって兄は見合いをしない。
「俺は、絶対に恋愛結婚するんだ! 恋愛じゃなきゃやだ!やだ、絶対にやだ!!」
と向きになって言い張る。でも兄の最大の難関はぱっと見で解ってしまうので、恋愛はちょっと難しいのも事実だ。
 その年の暮れ、兄はまたしても家族と共にこたつで年末の歌番組を見ていた。チャイムがなったので兄は気軽にでていき、発砲スチロールの箱を抱えて戻ってきた。
「北海道の叔父さんからだよ、なんだろうなぁ」
 兄はべりべりとガムテープをはがしている。あたしは兄の手元をのぞき込み、そして歓声をあげた。
「あっ、カニ! まだ生きてる!」
氷づけにされたカニが中で微かに泡をふいている。やった、明日はカニだとあたしはほくそ笑んだ。母もやって来て、にんまりとして明日はカニすきね、と言った。兄がよいしょ、と言いながらカニを箱からだすと、カニはようやく目覚めたらしく、ゆっくりとはさみと足を動かした。
「お、目ぇ覚ましたな、こいつ」
兄も嬉しそうだった。だが、次の瞬間、家族全員は驚愕にたたきこまれたのである。
「ああ……よく寝た……あら、ここ、どこですの?」
 カ、カニが喋った!しかも細くて上品な女の声! あたしも母も、兄もぎょっとして立ちすくみ、兄は慌てて何か仕掛があると思ったのかカニをひっくり返して見た。すると、そのカニは消え入りそうな声で
「いやだ、そんな所見ないで下さい、恥ずかしい……」
と囁いた。
 あたしと母は呆然と口を開けていたが、我に返った母は台所から包丁を持ち出してきた。とにかくやっちまえという訳だろう。カニはきゃあ、と細い悲鳴を上げて兄にしがみついた。母はいざとなるとくそ度胸が座るタイプで、カニの甲羅をむずっと掴み、兄から引きはがそうとした。
「よしてよ母さん、可哀相じゃないか」
兄が言った。それこそ、母があえて無視しようとした現実だったから、母は虚をつかれたように黙り、あたしはどちらにも賛同出来ずに沈黙した。冷静に考えるとこれはカニで、北海道の叔父さんが正月のご馳走にと送ってくれた食材である。だが、喋り、命ごいをされるとゆらぐ。だが、食材である。でも、食べるのは、なぁ……けど、おいしいんだよなぁ……兄の呟きを聞いたのはその時だった。
「か、かわい、い……」
 あたしは意味をつかみかねて兄をみる。兄はぽやーっとした顔をしていた。 かわいい? このカニが? そんなこと、一度でいいから実の妹にいったことがあるのか!兄はそんなことは構わず母から庇うようにカニを連れ、バケツを取って来ると水をはって部屋へ篭ってしまった。
 次の日の朝、兄は妙に機嫌良く部屋から出てきた。そして朝食の席にあのカニを置き、いきなりこう言ったのである。
「俺、ミキコさんと結婚するから!」
一瞬食卓はしんとした。ミキコさんって誰だ、と父も母もあたしも思っていた。すると、兄は得意満面でミキコさん、とそのカニを紹介した。次の瞬間、母の絶叫がした。
「いけませんっ!!」
 母は蒼白になっていた。35年大事に育てた息子が訳のわからない女にひっかかったというよりもきっとショックが大きいに違いなかった。女なら分かるがよりによって、相手は人間ですらないのである。
 兄と母はしばらくぎゃあぎゃあと押し問答していた。父は口を出そうとして母にうるさいっ、と一括されてふて腐れて新聞を読んでいた。父に似て万事おとなしかった兄が母にこんなに頑固に抵抗するのをあたしは初めて見た。結論は出なかった。口下手な兄は次第に母に押されてきてむすっとした顔でミキコさんと共に部屋に篭ってしまったのである。
 夕方になってあたしの部屋へ兄はやってきた。ミキコさんは、と聞くと風呂、という答が返ってきた。
「お前は反対なのか」
 聞かれても困る。反対じゃないけど、賛成はできない。対応に困っているというのが正しい。
「ミキコさんは北海道の生れなんだってさ」
あたしを納得させたいのか単に自慢したいのか、兄はミキコさんの話をとつとつと始めた。それによるとミキコさんは網走の出身で、波にさらわれて漂っているうちにカニ漁船団の網にひっかかってしまったのだそうだ。で、鮮度を落とさないために針麻酔を打たれて冷蔵パック郵便でうちにきた、というわけだ。
「いや〜ミキコさんがさ、俺が目覚めさせてくれた王子さまでよかった、な〜んて言ってくれてさぁ」
 兄はぐふふーん、と笑った。あたしはちょうちんブルマに白タイツの王子様は許せても、チビ・デブ・ハゲの揃った王子様は絶対に許せないと思った。兄はしばらくミキコさんの話をしていたが、ふと、時計をみた。
「遅いなぁ、ミキコさん。な、お前ちょっと風呂みてきてくれよ」
「え〜っ、お兄ちゃん自分でいけばいいじゃん」
「馬鹿、結婚前にそんなこと出来ないだろ」
 兄に拝み倒されてあたしは風呂場へ向かう。だいたい、あの甲羅以外になに着てたっていうんだ。ぶつぶついいながら脱衣所からミキコさーん、と呼んでみたが返事はなかった。 あーあ、と思いながら風呂場に入ってみると、ミキコさんはいた。いたにはいたが、ボイルが済んで綺麗な赤色で、浴槽にぶかーっと浮いていた。
 兄は遺骸につっぷして泣いた。部屋でずーっとおいおいと泣いていた。あたしは兄が可哀相なのか変なのか区別ができなくて、ただつったっていた。母はふんっ、と鼻を鳴らしてボイルされたミキコさんをつかもうとした。兄はなにすんだ、とカニを抱えこんだ。
「何言ってんのよ、もう口きかないんだから食べるに決まってるでしょッ」
「母さんは息子の婚約者が亡くなったってのに悲しくないわけ?」
 なじられて母の顔にさーっと血がのぼるのを見た。うひゃあと思った。昔からあの顔を見て無事に済んだためしはない。
「なにが婚約者ですか! カニじゃないのよ、カニ! 食べないでどうするっていうの! ああ分かったわよ、食べなきゃいいんでしょ、食べなきゃあ!」
 いうなり母は兄から強引にカニを奪い取り、窓の下へと叩きつけた。兄のあーっ、という悲壮な叫びがした。あたしは兄に続いてベランダヘ出た。ミキコさんは表の道路へ放り出されてくたっとしていた。兄は表へ走っていった。あたしは兄を追って玄関を出たところで、あわてて兄のジャージを掴んだ。車が一台通り過ぎていき、ばりっという小気味いい音がした。
「ああっ! ああ、ああ……」
 兄はがくっと膝をついた。元ミキコさんだったものは潰れてぐしゃぐしゃになり、甲羅から味噌がはみだしていた。兄はこの世の終りかというほどおいおい泣いていた。母は出てきたものの、白けた顔で兄を見下ろしていた。
「あのう……」
 小さな声に母とあたしは振り返った。カニをひいた車が少し先に止まっていたからドライバーなんだろう。
「本当にすみませんでした。あ、これからカニだったんですか。弁償しますから、ご住所を教えて頂けますか」
 母は急に上機嫌になって心にもない遠慮をしてみせた後、住所を書いて渡した。相手の男の人はすみません、ともう一度謝り、それから言った。
「ボイルじゃなくて、ちゃんと生きてるのを送りますよ」
母はにっこりと微笑んで言った。
「うちはみんなボイルされたカニが大好きですの」
 兄がキッ、と顔を上げた。
「いいえ、僕は絶対に生きているのがいいです。ぴちぴちの、飛び切り新鮮なのを送って下さい」
《終》


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