第4章 夏、紺青の海へ 1


 ──それは、深くて暗い色であった。心に潜むの深淵の、その更に奥にあるようなひっそりとした闇。通りを照らす沢山の灯火が夜の沼に映るようにぼんやりと輝いている。
 クインは僅かな時間、呼吸さえ殺して目の前に広がっている美しい闇を見つめていた。自分の目に映っている現象が一体何であるのかさえ考えられない、真っ暗で空白の時間。
 どこかで見た。
 やっとその沼から浮いてきた気泡が割れて、耳の奥で囁いている。
 どこかで知っている。見たことがある。この色を。瞳の深い美しさを。懐かしささえ覚える奇妙な既視感を、だが不思議と違和だとは思わなかった。
 懐かしい? 知っている?
 けれど、確かに初めて見る少女だ。それは間違いがない。就学していた頃も飛び級が多かったクインの身辺には、同年齢程度の少女たちは殆どいなかったはずだ。それとも流れていく先々の、沢山の町ですれ違ったのだろうか。
 けれど、多分出会っていたなら彼女を忘れない。それだけは何故かはっきりと分かる。
 ふっとその瞬間、瞼が動いた。瞬きであることにクインは一瞬置いて気付いた。それでやっと現実の知覚が戻ってきたようになる。
 周囲の雑踏とざわめきは普段と変わらない。
 けれど、ほんの瞬き一つの間の刹那、確かに時間が止まったような永遠があったことを、クインは半ば呆然と掴むように、自分の胸元あたりに手をやった。
 その耳に微かな吐息が聞こえた。少女が喉を僅かにならしたのだ。
 彼女もまた驚愕していた。大きな瞳の中の星々がこぼれおちそうなほど、一杯に見開いた目がじっと自分に当てられている。
 魂を吸われるような感覚を覚えてクインは微かに後ずさった。その下がった分を詰めるように少女が格子にすがりつくようにして、彼に指を伸ばそうとする。
 整えられよく磨かれた爪がそっと自分の袖に触れ、こわごわと撫でてから掴んだ瞬間、クインは淡いしびれのようなものに背をふるわせた。
 身体の末端が痛い。痛くて、──分からない。何かを言おうとしてクインは唇を薄く開き、そしてそこが渇いているのに気付いた。
 長い一瞬、目を閉じてクインは呼吸を深くする。そうすると胸の奥の痛みが僅かに切なく焦れて別の痛みに変わる気がした。
 きゅっと袖が強く引かれた。クインは再び視線を少女へ与える。
 よく見れば飛び抜けて見目の麗しい少女というわけではなかった。吸い込まれそうなほどの大きな瞳と、黒髪に良くはえる白い肌が美しいが、肌の方は年齢ゆえのものもあるだろう。化粧がごく薄いのは肌の元からの良さを全面に出す為の所作なはずだ……自分だってほとんどしないから分かる。
 少女はまだじっと彼を見ている。彼女の湖沼のように鈍く光をはらむ瞳に自分がいるのが見える。
 彼女が何故自分を見つめているのかは、クインにとっては考えるまでもないことであった。彼に出会う者たちはその時間の多少や驚愕の表現こそ違え、みな一様に彼の圧倒的な美貌の前に呆然とする。
 だが、いつものように何を見ているのだと意地悪く微笑むような仕草はどこかへ消えてしまって出てこない。だからそれ以外にどんな反応をしていいのか分からずに、クインもぼんやり相手を見つめ返すしかできていないのだった。
「お前……」
 クインは低く呟いた。とにかく何かを言わなくてはと思ったのだ。少女がゆっくり頷く。視線だけは彼にぴたりと合ったまま動かない。大きな目だ、とそんなことを思った。吸い込まれそうなほど。
 お前、とクインは二度目を言いかけた。だがその後何を続けようかと一瞬迷った彼よりも、気の張った女の声の方が強く、そして早かった。
「リーナ!」
 はっとしたように少女が身を痙攣させ、振り返った。さら、と黒髪が流れて落ちる。片方落ちた髪飾りが押さえていた部分がほどけたせいで、編み込んだ髪が多少甘くほどけてきている。
 その不揃いさがかえって目に焼き付くようだった。
 リーナというのがこの少女の源氏名であるようだった。リーナとは矢車草の薄紫の品種を意味する。なるほど、彼女の赤い衣装の裾には淡く光る金の糸で矢車草の刺繍があった。
 おいで、と女の声が続けている。その声の方向を見やれば、恐らく遊女たちの部屋へ続く回廊の入り口にあつらえた帳面台に陣取る中年の女が見えた。
 この女だけは遊女の赤や見習いの白といった符丁のある服を着ていない。通常町中で見かけるような、きちんとした仕立ての灰色の長衣に黒い編み糸のショールを羽織っている。つまりは女将であろう。
 女将の隣には中年の男が帳面台によりかかるようにしてリーナを見ている。彼女を指名した客なのか、少女に向かって軽く手を振った。
 少女は頷き、クインを振り返った。そして三度かち合う視線の中にお互いを見つけて、少女は困惑したように首を傾げる。
 何だよ、とクインは囁いた。少女は首を振った。その曖昧さに焦れたようになって、クインは思わず顔をしかめた。
「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ」
 つい乱暴な早口で言ってしまってから、クインはそのために更に渋い顔になる。些細なことですぐ苛立って噛みつく癖がこんな時には自分で舌打ちしたくなるほど疎ましい。
 少女は驚いたようにぱちぱちと目をしばたかせ、それからまた首を振った。
 彼女の視線がするりと自分の顔から落ちて、格子の下の方へ流れていく。つられるように目線を追って、クインはやっと少女の迷いが何であったのかを分かった。
 自分の足下に転がっている百合の造花を拾い上げる。そうだ、自分はこれを拾ってやろうとしたんだっけ──ほんの僅かな時間の中に濃く深く凝縮された深奥を感じていたせいなのか、ひどく長い時が過ぎた気がするがそれは錯覚だ。
 何故なら、妓楼を探して彷徨っていた頃と同じ声がまだ同じ歌を歌っている。
 クインは造花をつまんで格子越しに放り投げた。明るい灯火に踊るように百合花がふわんと宙を飛んで彼女の足下に落ちる。
 少女は造花を大切に拾い上げ、彼に向かってやっと笑った。
 その途端、目を引くような何もない、ごく平凡な面差しが急に様変わりしたようだった。含羞のような仄かな恥じらいを含んだ微笑みは、確かに何かが違う。大仰な美少女ということでは決してなかったが、その笑みには何かの強い力があった。
 ──ほんの僅か、ぽかんと見つめてしまうほど。
 その一瞬が通り過ぎた時、クインはぶるっと一つ震えた。背中の皮膚が粟立っている。
 胸に急に噴出してくるぬるい感情が何であるのか、その瞬間にクインには分からなかった。ただやわらかな湯のようなものが胸の一番奥深い部分にたゆっている。何かがそこにぽつりと灯る──ような、ぼんやりした、曖昧な、感覚。
 それをこわごわ確かめるようにクインは自分の喉元辺りを指で押さえた。かすかに脈打つ血管がやけに敏に伝わってくる。
 何か言おう。そんなことをふと思ったのに唇が動かない。真冬の雪に凍えた時と同じように重く堅く、ぴくりともしなかった。
「……リーナ!」
 先ほどよりは焦れた声が再び促した。少女はさっと振り返り、こくりと頷く。そしてクインの方へ向き直って百合の花を胸に当てるような仕草をした。
「あの……」
 少女の唇が動いて、やっとそれが彼女の声だと気付く。
 声は細く、弱い。消え入りそうな小さな声だが、面差しや表情ほどは幼くはなかった。
 けれど、やはり懐かしい。理性の部分ではこれが全くの錯覚だとわかっていても、ひどく遠い匂いがした。
 クインが彼女を見ると、僅かに頬を赤らめる。その頬のふわりとした明るさを見た瞬間に、血の気がかあっと自分の方にあがってきた気がした。クインは慌ててつんと顔を逸らす。反射的に怯んだのだ。
「あの、花、ありがとうございました……」
 囁くような声にクインはそっと視線を戻す。少女はクインが自分の方を見たのが嬉しいのかほっとしたように笑い、深く腰を折った。彼女の髪が肩を滑り落ちる。その圧倒的な量と黒い色の輝きは、夜の滝のようにも見えた。
「ん……ああ、別に」
 素っ気なく返事をし、クインは頷いてみせる。少女はもう一度彼に礼を言い、背を返した。ゆっくりと遠ざかっていく。
 クインは彼女の後ろ姿をぼんやりと見つめた。
 少女は振り返らない。女将と客の男が待つ帳面台まで辿り着くと、女将の言葉に首を振ったり頷いたりしている。男が彼女の頬を撫でながら女将に何かを言った。女将がしまりなくしどけない笑みを浮かべたから猥雑な冗談でも言ったのだろうか。
 彼女の方は俯いてしまったが、恥じ入っているのか、男の方は上機嫌だ。やがて少女が男に何かを囁いて二人は回廊の向こうへ消えていく。
 クインはそれを見ながら今から彼女をあの男が抱くのだという現実につきあたり、ふと奇妙な苛立ちにかられた。あの女、一体どんな顔をしてどんな風に啼くだろう? けれどそれが自分の前に他の男が知っていることがたまらなく不愉快だ。
 ぴくりと頬が不機嫌ゆえに引きつったのをクインは感じ、舌打ちした。一瞬の交感にうつけて惚れたのなんだの言い始めたら、まるきり自分が馬鹿に思えてくる。
 多分あの瞳のせいだ。あれが吸い込まれそうなほどに大きくて深い色をしていたから、どこかで見たことがあるような懐かしさだったから。そのせいで心が落ち着かないのだ。
 どこで見たのか、あの少女でなくても類似した者を自分は知っているような気がしてならないが、それが何であるのか見当が付かない。
 苛立ちはそのせいだろう。昔から、自分に理解できないことがあるのが途方もなく気分を悪くする。
 突然こんこんという音がして、クインははっと顔を上げた。この妓楼の女将であろう帳面台にいた女がクインに練れた笑みを向けていた。
「──何か用事かい? それとも気に入った娘でも?」
「え? ……あ、いや、別に、用事じゃ」
 咄嗟のことにクインは相当きょとんとした顔をしたらしい。
 女将は小さく笑った。昔は美女であったろう面立ちは、笑うと意外に深い皺が出る。見かけよりは年齢が上なのだろう。
「用事じゃなければそこをどいて欲しいんだけどね。外からのお客が中を見る為の寄席場所だから」
 言われてクインはやっとその妓楼の中に足を入れた。
 食堂で給仕をしていた女たちや客たちの視線が一瞬、怒濤のように身に流れてくる。それにいつもの薄い笑みを放り投げてやると、やっと自分の余裕が戻ってきたような気分になる。あの少女と目が合ってそれがなんだか懐かしかっただけのことで、ひどく調子を崩していたのだ。
「ここ、一晩いくら」
 クインは帳面台にさきほどの男がしていたようによりかかりながら言った。女将は彼をちらりと見て、少し意地の悪いような微笑みになった。
「うちはただの旅館じゃないけど?」
 からかわれているのだとクインは女将をきっと見据える。彼の視線のきつさに女将は苦笑して悪かったね、と呟いた。
「でもこんな店は初めてだね? 指名があるなら娘の名を、ないなら部屋が空いているかどうかを聞くんだよ。娘たちの格によって値段は全然違うからね。指名がないなら空いている娘の中からあたしが適当に見繕う」
 クインは頷いた。女将の看破したとおり、妓楼に足を入れるのも初めてであったから、妓楼の仕組みなどは知っていても実地のことは何も知らないのだ。勿体ぶりもせずに淡々と教えてくれた女将に安堵し、クインはこれ、と耳から真珠の粒を外した。
「これで大体どの女でも足りる?」
 女将は彼から真珠を受け取り、鑑定用の小さな拡大鏡でしばらく見ていたがやがて大きく頷いた。
「──十分だね。うちの一番いい娘でも買える、いい真珠だこと。指名は……ないんだったっけ」
 クインは首を振る。彼女のことですっかり飛んでいたが、やっと自分がここに何をしに来たのか思い出したのだ。
「他の奴から聞いて……ライアンっていうチェインの頭がいるだろう? そいつの女がいい」
 女将は長い溜息になった。あのね、と続ける言葉がやけに優しい。だから断られるのだとすぐにわかった。
「どの妓楼も同じだけど、どの遊女にどんな客が付いているかは極秘なんだよ。うちの娘たちにも、娘同士で客の個人情報の話なんかはしないようにしつける。組合に入っている妓楼はどこもそうだ。だから、例えばそのライアンっていう男がいたとして、うちの娘を可愛がってくれてるってことがあったとしても、あたしはそれが誰だかを教えるわけには行かないね」
 客の個人情報は教えるわけには行かないと言われるなら、それも道理であるかも知れなかった。だからクインは別の方向から食い下がる。
「俺がライアンと知り合いだって言っても?」 
「じゃあ源氏名を聞いておいで。聞けないならそれはそういうことなんだよ」
 女将は素っ気なくやり返し、クインの手に真珠を返した。
「で、どうする? あたしに空いている部屋を聞く? それともそっちの食堂で食事でもしていく? 給仕に出ている赤い衣装の子が娘だから、好きな子を選べばいいが。ああ、その場合は指名料は半額つけてもらうからね」
 クインは女将の視線の先にある食堂を振り返った。確かに赤い衣装を着た遊女たちが客の合間を縫っては酌をしたり給仕をしたり、男客は大抵一人だが、一人で黙々と飲み食いしている者は見あたらない。
 そこで女を選ぶという行為がどことなく腑に落ちなくて、クインは首を振った。そう、と女将は自分の提案に拘泥せずに頷いた。
「それで、どうする。あがる? 帰る? ……それともリーナが空くまで待ってるかい?」
 先ほどの邂逅を見られていたのだと気付いてクインはぱっと自分の頬が赤らむのを感じた。女将は少し笑った。
「あの子がいいなら待っていればいい。あんたは綺麗だから放って置いてもうちの娘たちが相手をしたくて焦れてるよ」
 クインは食堂の方を振り返る。と、いくつかの視線が彼の面輪に当たってほころぶように微笑み咲いた。どれも美しく着飾った女たちであったが、やはり誰からもリーナといった少女に感じたような力はなかった。
 クインは曖昧に返答し、リーナ、と聞き返した。女将は頷き、1刻半もすれば相手が出来るはずだと付け加えた。他の男と寝た直後に買うかと聞かれている生々しさにクインは怯み、首を振った。それはとんでもなく悪趣味である気がしてならなかった。
「いいよ、また来る……リーナ、だっけ、彼女、高い?」
「指名料込みで晩酌が50ジル、泊まりが80ジル。他に飲み食いするならその値段だね」
 クインは苦笑した。それは彼の一晩の値段の僅か10分の1だったのだ。女将はその笑みをなんと思ったのか、帳簿をぱたりと開いて明日、と言った。
「明日は指名が入ってないから相手が出来る。もしあんたがその気があるなら今予約入れていってもらえるなら、少しまけるけど」
 クインは首を振った。
 明日の夜は夜間の看護学校の入学試験がある。医療の実践と現場を知る為に、クインは看護学校の試験を受けるのだ。首席で試験に通れば学費もかなり特待で安くなるとそれなりに勉強もしてきたのだから、これを放り出すわけにはいかない。
 それから先のことは仕事の予定をチアロかオルヴィからか聞かなくてはわからなかった。
「いや、先のことは俺にもわからないんだ。……今日は帰る」
 クインはそれだけいって帳面台の前を離れた。またね、と女将の声が追いかけてきたがそれには振り向かず、手を軽く振ることで挨拶に代えた。