第4章 夏、紺青の海へ 10

 開け放した窓から誰かの歌が聞こえる。窓にかけられた綿レースの繊細な模様がまだらな影を、背もたれからだらりと下げた腕にゆらめきながら落としている。それをぼんやりと見つめるでもなく視界に入れながら、クインはじっと歌を聴いていた。
(私とうとう見つけたわ あの人は私の運命の人)
 やけに明るい恋の歌だ。歌っているのは子供たちで、歌いながら石蹴りをしているらしい。からからという軽い音が調子に合わせて聞こえる。あ、という声、馬鹿と一斉にはやす笑い声、そして歌はもう一度最初から繰り返されるために撒き戻る。
 クインはゆるく嘆息した。下らない歌だ。子供がはしゃぎながら歌い遊ぶのとよく似合った、調子はずれの明るさと馬鹿馬鹿しさ。
 クインの吐息にやっとエミリアが画帳から顔を上げ、どうしたの、と聞いた。別に、とクインは素っ気ない返事をする。それから突き放したような自分の声の不機嫌に気付き、外、と言った。
「歌、聞いてた……さっきから同じ歌ばっかりだから」
「陣取りでしょう? 最近あの歌でするのが流行ってるみたいね」
 簡単に応え、エミリアは画帳の下に小さく何かを書き込んだ。それは一枚の素描が出来上がった時の彼女の覚え書きだ。日付と場所とモデルの名前は最低でも書き留めておくらしい。クインが最初それをひどく警戒した為に、そこには最初の夜の画帳と同じく少年としか書かれていない。
 クインは長椅子から立ち上がってエミリアの背後へ回る。練炭特有の濃淡で描き出されているのは背中を向けて椅子にもたれ、項垂れるような仕草をしている彼自身だった。身につけているものというよりは、肩の線や微かに傾げられたうなじの角度が確かに自分だと思えるような絵だ。
 画面の中の少年はがっくりとうなだれていたが、細い首筋にあるのは力強いたわみであり、それは絶望と呼ぶよりは遙かに祈りのような敬虔さに満ちているように見える。雪崩落ちている髪の向こう側は窓。あるはずのカーテンは描かれておらず、その代わりに窓の高い位置から太陽が啓示のように差し込んで、少年の背中を斜めに一条よぎっている。
 彼女は天使の題材を描くのだと改めて知ったような気持ちになって、クインは何気なくふぅんと言った。エミリアの絵はいつ見ても何かがそこにある気がする。ひどく懐かしかったり、温かだったり、その絵からエミリアの気配が溢れ出て、まっすぐに絡め取られてしまうような淡い畏服。
「最近良くなったわね、背中」
 描き上がった絵をじっと見つめていたエミリアが不意に言った。クインは横に並ぶエミリアを見やる。彼女の方が3才の年長ではあったが、背丈は既にクインの方が若干高い位置に到達していた。
 クインの視線にエミリアは少し笑い、同じ画帳のかなり前の頁をめくりだした。エミリアは素描をとる時背中をよく好んで描いていたから同じようなものは遡れば幾らでも出てくるが、彼女がやっと手を止めたのは、かなり最初の頃に描かれた頁だった。
「ほら、これが最初。すごく……気が張ってて身構えている感じ」
 エミリアと出会った夜だろう。女装のまま宿の一人がけの椅子にもたれ、窓の外を見ている自分だ。表情は見えないが、肩のあたりにまつろう空気は確かに尖って張りつめきった糸のようだった。
 クインは小さく頷いた。エミリアの言葉の意味がほぼ掴めた気になったし、そしてそれは正しいと自分も思う。良くなったという言葉が示す通り、エミリアの部屋で彼女の素描や習作のモデルに登場してくるようになった自分の背中から、きりきりと切羽詰まった空気は消えていて、代わりになだらかな落ち着きと安堵に手足を投げ出しているような無防備な背中が多い。
「次の評価会にはあなたの絵を出そうと思うのよ。ほら、こんな風にして」
 エミリアは先ほど描き終えた素描の頁をめくり、練炭を握る。光が照らすクインの背中にその先端を当てて、さらさらと迷い無く動かし始めた。
 途中まで来ればそれが何であるかは分かる。クインはあやふやに微笑み、そして微かに赤面した。
「俺、こんなんじゃないよ……」
 曖昧な言い訳を口にすると、エミリアは笑って首を振った。
「そう? あなたには違っても、私にはこうなのよ。今は小さいけれど、いつか広げて飛ぶことが出来るわ」
 さらりと言ってエミリアは彼の背に折り畳まれた翼を描き終えた。
 翼ある者、美しい幻想、そして祈り。これは確かに彼女の絵だ。豊かに包む、愛情のまま。
 僅かに心の底が揺らぎ始める。嬉しくてたまらない。自分の中に沢山の闇があってそれに押しつぶされそうだったのはつい最近なのに、闇の中でこそ美しく輝く沢山の星をエミリアが彼の手を取って教えてくれた。闇夜の星、微かに白く淡い光。それを知っただけで胸の中がほんの少しなだらかになったようであった。
 あるいは自分は、絶望したかったのかも知れない。それは息を呑むほど強い力で自分を壊していくはずだった。それで良かった、絶望できるほどの強靱な心があれば破壊の後の再生を支えてくれるはずだったから。
 けれどそれはなされなかった。代わりにクインは明るい窓辺にぼんやりともたれる午後や二人で寄り添うようにして囁きあかす夜を手に入れた。
 ──それを捨てろだって? 冗談じゃない。クインは先日のチアロの言葉を不意に思い出し、奥歯をきつく噛み合わせた。
 チアロが自分を心配してくれるのは分かる。あれほど無遠慮にはしゃぎ回っているような印象の実、チアロは細やかで優しい目線で彼を気遣ってくれているのだ。
 それは今も変わらない。あの翌日に訪ねてきてくれたチアロと和解は済んでいる。けれど彼が言ったことを許容できるかどうかは全く違う話だ。
 ライアンの帰還はどうやら半月ほど先で、それまでには何か対策を練っておかなくてはいけない。そもそも奴のせいなのだ、とまっすぐに非難を思うことが出来るようになった分だけ気が楽になったから、ライアンとも多少はまともに話が出来そうだった。
 ……全て、川のように静かにゆるやかに、安息と安堵へと流れていく。何故それを放棄しなくてはいけないのだ。
 それを考え出すと苦い怒りと共に冷たく黒い恐怖を微かに感じる。戸籍の一件で思い知った通り、ライアンもその抱えている連中も短絡に人を手にかける。ライアンなどはむしろそれを楽しんでいるような節があり、どうしてもその部分には怯まずにいられない。チアロは忠告だと言った。このまま突き進んでいけば破滅するという意味であったろう。それはクインのこの生活の終わりであり、畢竟、母の死と直結している。
 母の死、と思うと背中がぞくりと粟だった。当面今の生活を続けていかなくては、金の工面が出来ない。折れてライアンにでも頼ればどうにかなるだろうと分かっていても、自分の中の頑迷は激しく首を振った。
 対等に、という自分の矜持がひどく幼くて崩れやすい虚塔であることは薄々理解しているが、けれど自分を無視して何があるのだろう。今でも十分、客といる時には己を殺し沈めている。それ以上はどうあっても耐えられない。
 だからこそ、エミリアの持っている清潔で素朴な明るさが自分にとって重要なことなのだ。彼女の優しいぬくやかな海に抱かれていると、とてつもなく幼い子供に還ったような不思議な落ち着きが自分を癒してくれるのが分かる。それはクインにとってどんなものにも引き替えられない貴重で、大切で、最も美しく平凡な時間かもしれなかった。
「……お茶でも淹れましょうね」
 エミリアがいつものような朗らかな声で言った。クインはそれで我に返り、側を離れて厨房へ消えていく彼女を見送る。自分にまつわりながらも話せないことは確かに多く、エミリアはそれを追求しなかった。それも多分、気楽さを増幅してくれている。
 クインは軽い溜息になって、先ほどまでもたれかかっていた長椅子へ転がった。うつぶせに体勢を直し、ぱらぱらと画帳をめくる。エミリアは悪く言うなら手当たり次第に目に付いたものを描いていて、統一感のある画題ではなかった。
 自分がいる。次の頁には日だまりの猫に途中で逃げてしまったという悔しそうな注釈、その更に次にはどこかの資料館で写生したらしい展翅蝶の素描、絵の傍に呟くような独白、忘備録替わりの走り書き。
 画帳がエミリアの写生帳であり日記であった。そのために最初は読むのを躊躇ったのだが、エミリア自身が全く頓着無く彼に過去をめくって見せてくれて最近は余り抵抗感がない。眺めるというほど熱心でもなく絵をめくっていると、小さな走り書きが目に付いた。どうやら時刻表らしく、地名と金額から大河ユーエリを下りミシュアへ出る客船であると予測できた。
「どっか行くの?」
 クインは茶のカップを二つ手にして戻ってきたエミリアにその覚え書きをなぞりながら聞いた。エミリアはああ、と軽く頷いた。
「来月にでも、ちょっと南へね。学校も来週から夏期の長期休暇に入るし、海でも描きに行ってみようかなって思って。──ミシュア、行ったことある?」
「うん……まぁ」
「南の海は特別綺麗だものね、写真でしか見たことないんだけど。2週間くらい向こうで色々描いてくるつもりなの。日程が決まったらちゃんと教えるわ、あなたが来たらいけないから」
 クインは何度か瞬きをする。エミリアの不在は僅かな落胆を連れてくる。けれど、ライアンやチェインの連中のことを鑑みるに、多少はそうした空隙をおいた方が良い気もすると胸の中で素早く弾き出して頷いた。
「ん、分かった……」
 お土産買ってくるわよと笑うエミリアの楽しそうな表情に、クインはやっと自分も顔が弛んできたのを自覚する。……あまり考えすぎるのはよそう。今この瞬間が満ちて穏やかならば、それでいいから。悪い方へと考えすぎていつも自分でたてる騒音に苛立っているようなところが、クインにはある。それを自覚しつつある今ならば、どれだけそれが自分をすり減らす無駄な摩擦であるか、知っている気になっていた。
 エミリアは自分で淹れた茶を一口啜り、渋いわ、と思い切り顔をしかめた。クインはつられるように自分も同じ事をして同じ渋面になり、どちらからともなく笑い出す。このごく普通の笑い声を、ひどく愛しく思いながら。