第4章 夏、紺青の海へ 11

 忠告は二度目はないのだと言われてクインはきっと目線を据えて相手を睨んだ。きつい視線を投げつけられた方は平然とそれを受け流し、クイン、と低く言う。
「ライアンのものだからそう扱え、というなら理解しよう。もし扱いがお前の思うに足りないと言うならライアンに伝えよう。だが、自分だけが好きに出来ると思うのは間違いだ。あまり我が儘が過ぎるとお前自身が処分の対象になることを覚えておけ。詮議になればお前の味方はこいつだけだと心得ろ、いいな」
 ディーは側に立つチアロを目線で示した。チアロの方は最前の忠告の時と同じ、淡く歪んだ表情をしている。それにわけのない怒りを覚えるのは、ディーの乱暴な言葉をチアロが全く制しないことが大きいだろう。つまり、チアロも同意見なのだ。
 これは恫喝であった。紛れもなく圧力とよべる種類のものだ。けれど、ここに至るまでに自分を追いやってきたのはライアンではなかったろうか。自分は何度も言葉やそれ以外のもので彼にやり場のない胸苦しさを訴えようとし、ライアンはそれを冷淡に退けてきた。冷ややかな彼の態度に癇癪を起こし、知っている限りの罵詈雑言を投げつけ、一瞬の狂熱が過ぎて残るのは、白けた怒りと感情の煤けた灰だけだった。だから彼に頼るのはやめた……その何がいけない。
 クインはじっと二人を睨み据え、ゆっくり、深く呼吸をした。そうでないといつものように怒りにまかせて奔流のようにわめき散らした挙げ句、自分の悲鳴で一層追い込まれていってしまう。
「……ライアンには、そう何度も言った。奴は、俺とは関わりたくないと、言った。ディーが同じ事を言ってもやっぱり同じさ、──なぁ、チアロ?」
 話を振られた友人は曖昧に笑い、クイン、と穏やかな声を出した。これが何であるかは知っていた。この前にも聞いた、彼をどうにか宥め、落ち着かせようと懐柔する声音だ。そうだと感覚が頷いた瞬間、背がざわりと冷えた。紛れもなく怒りの為だ。
「ライアンには俺からももう一度、強く言うから。彼が帰ってきたらもうやめた方がいい。ほんのちょっと遊ぶつもりだったと思えば俺もディーも、黙っていてやるから」
「黙っていてやる? へぇ、ありがたいね」
 言葉尻を捉えて吐き捨てると、チアロは困ったような溜息になった。ディーをちらりと見やっているのは、助力を求めているのだろう。困惑を隠さないという表情で自分をやわらかに制するチアロのやり方だ──いつもと同じ。
 同じ、と思うと尚更胸の中に荒れる音を聞く。お仕着せの服のように慣れて扱われることはひどく誇りを噛んだ。
「ライアンは俺とは関係ないんだと、奴が自分でそう言った。だから俺が何をしてようと、奴は構わないはずだ」
 クインの言葉に二人は顔を見合わせ、小難しい表情で目線を交錯させた。
 クインは舌打ちをして、椅子に投げかけてあった白レースの上着を取る。日光に肌を直接晒さないように日中出る時は羽織るものを持つのが習慣で、今まさに外へ行こうとしていた矢先の二人の訪問であったためにそこへ置き放してあったものだ。
 意図を悟ったチアロが彼を遮ろうとする。先日の彼への些細な暴力が咄嗟に浮かんでクインは柔らかにチアロを押し戻し、ごめん、と彼にだけ聞こえるように囁いた。
「もう少し勝手にさせてよ──ライアンが戻ってきたら、もっと上手い方法を考える。お前に迷惑はかけないから」
 チアロは痛ましそうに眉を寄せ、首を振った。何を言いたいかはこれまで散々聞いてきたはずであった。クインはごめん、ともう一度を言って振り返らずに部屋の外へと歩き出した。
 背中でディーがクインと呼んでいるのが聞こえる。
「いいか、これは忠告じゃない。警告だ。警告の次はもうない、それを覚えておけ」
 クインはちらと振り返り、出て行きざまに隻腕の男へ嘲けるような笑みを浮かべる。それは自分の突出した美貌に被さると、ひどく相手の神経を逆撫でするものになるのは承知していた。
「──うるさいよ、あんた」
 吐き捨て、クインはアパートの部屋を出た。ふらりと路地へおりて太陽のきつさに目を細め、日陰を選んで歩き出す。外へ行こうとしていたのは飲料水が少なくなりかけていたからだが、最初から彼女のところへ向かうのだと二人とも思いこんでいたようで、それも面白くない。
 クインは熱線にじりつく石畳の白茶の眩しさに、目を細める。ディーにむかってうるさいと言い、チアロには迷惑をかけないと口にしながら次第次第に最後の線が忍び寄ってくるのを感じないではいられなかった。
 ライアンが帰ってくる。そうしたらエミルとは終わりだ。チアロやディーに散々繰り返されるまでもなく、ライアンの所有物だから尊重しろという主張を勝ち得た時から、それを自ら覆してはならないことは知っている。
 けれど、その冷静な囁きとは全く違う場所からそんなのは嫌だと叫ぶ声が聞こえて、クインはついそちらにふらふらと引き寄せられてしまう。
 声は強く激しく主張する。嫌だ。嫌だ。やっと見つけたのに。やっと会えたのに。優しい人に優しくしてもらえて嬉しいのに。それが今の生活の中にたった一つの温かな色をしたものなのに。
 何故。
 何故。
 何故、何故、何故それを捨てなくてはいけない、──と。
 警告、とディーは言った。忠告と言ったチアロがあくまで善意であるならば、警告と口にしたディーはその次に来るものを既に考え始めている。処分という言い方をしていたが意味するところはなぶり殺しだ。ライアンもチェインの自治を乱した子供に対しては容赦しない、それと同じことをするという示唆であった。
 エミル、とクインは呟いた。彼女の与えてくれる許容と抱擁のなだらかな海に身を委ねていたいという欲求は強く、他の何よりも第一の望みであった。甘えであるかもしれないし、依存であるかもしれない。
 けれど、彼女の優しく温かな視線と手が導き出す絵の中に、クインは満たされて幸福な顔の自分を見つけてしまった。知ってしまえばもう戻れない。それを手放したくない。彼女と共にいることが出来れば、いつか彼女の絵の中にいるような表情が出来るような気がするのだ。
 けれどこのまま進んでいけば破滅するとチアロは忠告し、ディーは更に警告という言い方で威嚇に変えた。クインが拒否し続ければエミルにも危害を加えるとライアンは言うかもしれない。否、それは突然現実になって自分の前に突きつけられるかもしれないのだ。
 クインは僅かに首裏が冷えた気がして身震いした。恐怖と呼ぶには薄い冷気であったが、その可能性が低いと言いきるだけの材料は何もない。
 むしろ、短絡にエミリアの命を奪って決着とすることは十分に考え得る未来であった。失いたくない。けれど今のままではいけない。
 その上手い均衡点を見つけられない苛立ちにクインは秀麗な面差しをぎりっと歪めた。どこかで蝉が鳴いているのまでが気に障る。
 クインは貯まってきた鬱を吐き出す長い溜息になった。エミリアとのことは現実、まさしく袋小路へ向かって走り出している。ライアンはきっと許さないだろう。怒り狂うに決まっている。
 けれど、それは無視されるより遙かにましだ。奴が俺を引き裂いても俺はきっとそれを嗤ってやろうとクインはその予行の為に唇を吊り上げる。
 行き場のなかった苛立ちや不透明な鬱屈をすくい上げてくれたのはエミリアであって、ライアンではなかった。何度もライアンには救済を求めたはずなのに、それを一顧だにしなかった。飼い主だと名乗ったくせに、事実を放り投げている。それが許せない。憎い。彼への怒りと当てつけの為に何でも出来る気がする。
 つまりそれに踏み出すきっかけと勢いの問題なのだ。
 憎い。ただ──憎い。チアロに向けるものが淡い不満でオルヴィやディーに感じるのが嫌悪だとしたら、ライアンへのそれは憎悪と呼んでも良かった。強い思い入れがあるほど憎しみも増すし、苛立ちも募るのだ。
 彼への意趣返し。エミリアの安全と自分の未来。全てを平等で公平な単位には振り分けられない。一つ一つが全く別のものであると同時に、根深いところで堅牢に繋がっている。通算が出来たところで感情の振り幅の予測など出来るはずもなかった。
 クインが軽い舌打ちをした瞬間、あら、という軽い声がした。クインははっと視線を上げる。じっと考え事をしながら足早に歩いているうち、どうやら自分は彼女のアパートまで来ていたらしい。
「エミル……」
 呻くような声音で呟き、クインは唇を引き結んだ。
 エミリアの死のことばかり考えていたせいなのか、ぱあっと胸詰まるものが駆け上がってきて自分でも上手く制御できない。いけない、と面伏せた先の睫毛をぱらぱらと涙が伝い、夏の乾いた石畳に水滴の染みを作った。
「どうしたの? ……泣かなくていいのよ……」
 何の見返りも打算もなく降り注ぐのは、優しい声、そして温もりの気配。
 そっと彼女の指先が頬に触れて、クインは目を閉じる。無条件に自分を受け入れてくれる人の肌に涙が止まらない。気力が抜けていく証左のように、涙だけが溢れてくる。
 クインの肩をそっとエミリアが抱いて、慰撫のためにゆっくりさする。
 うん、と意味なくクインは頷き、頷きながら彼女を見、そしてやっと足下の旅行鞄に気付いた。ここへ歩いてきたことがそも無意識の作為であったから忘却していたが、彼女は今日から南行であった。
「ごめ……いかない……と、船……」
 クインは整わない呼吸のせいで途切れがちな言葉を呟き、彼女の旅行鞄を見た。鞄には絵の具の染みがつき、中には入らなかったらしい大きめの画帳が無理矢理くくりつけてある。
  それが目に入った瞬間に、一つの夢が胸底から転がるように目の前に出てきた気がした。
 海に行きたい。広くて自由な海、遠く遙か南の海へ。いつか母と渡った美しい碧緑の彩の海、風駆け上がる坂が繊細レースのように町中をめぐる街、聖都の名をいただく沿海の海泡ミシュア。
 あの海へエミリアと行けたら、それはどんなに美しく凝固するだろうか。ライアンのことも、彼の布く掟のことも、別離、恫喝、反発、混乱、そんなもの、どうでもいい。考えたくない──せめて一瞬、ほんの僅かな時間でも、綺羅めかしくて温かな夢を見たい。
 その何がいけない。考えたくない。ただひたすら、彼女と一緒にいる時間が欲しい。逃避なのだと分かっていても、その淡く甘い夢は魅惑的だった。
「俺も……行く」
 クインは呟いた。エミリアは首を傾げ、いいの?と聞いた。それが自分の仕事や学校や、その他のものを指していたのは分かっていた気もしたが、この瞬間に、それはライアンへの密かな背反を問うように聞こえた。
「いいんだ」
 クインは僅かに動揺した自分を叱りとばすように、しっかりとした声で言った。
「いいんだ、エミル……いいよ、全部いい。一緒に行く……駄目?」
 エミリアは明るい笑みになって首を振った。クインは頷き、エミリアの鞄を取った。
 着替えも何も持っていなかったが、耳にはいつかの真珠がはまったままだったから不安はなかった。いざとなればどうにかなるという楽観もある。
 それに多分、これが最後の機会になるはずだった。ライアンがもうすぐタリアへ戻るだろうことは、チアロやディーのせわしない態度や目線の動きで分かる。はやく自分を納得させて事態を収束させたい目つきだった。
 ならば一層、今を離れてはいけない。時限は近く、その限界線を越えた先には暗い未来しかないのが分かっている。母のことがある故に、結局自分はライアンのものだと誓う羽目になるだろう。
 だから今、尚更今、彼女と離れたくない。どこからが恋で何が依存なのかも知りたくない。彼女といることで得られる安堵も安息も失いたくない。彼女といれば自分が少しはましになれるような気が、彼女がふざけて描いた翼をいつか本当に持てるような、そんな気がする。
 もっとエミリアに近くなりたい、側にいて肌の温度の分かるところで微笑み合って、心の感触が浸透するほど近付きたい。
 これは恋なのだろうか。
 恋というのは存外分かっているようで分からない。けれどこのもの狂おしいような希求と切ない傾倒は何か劇的なものの前触れだと根拠なく信じている。
 だから告げなくてはいけないことはただ一つきりだ。クインは彼女の鞄を持って歩きながら、小さく言った。
「好きだ」
 エミリアはじっとクインを見上げ、それから少し掠れた声をだした。
「私、あなたより3つも年上よ」
「関係ない」
「絵のことで利用してるだけかもしれないのに?」
「そんなこと、関係ない、全然」
 重ねて言葉を返されて、クインはやや不機嫌な声音になった。彼女の方はじっと俯き加減に歩き続けていたが、やがてそっとクインの名を呼んだ。
「私、きっとあなたを好きになるわ──気が狂いそうになるくらい、今、あなたを描きたいと思ってる……」
 エミリアの言葉にクインは頷き、鞄を持ち替えた。軽くあたった肘の下がするりと寄り合い、やがて指を絡めて掌が重なる。
 二人は手を繋いだまま、ゆっくりと南と自由へ歩き続けた。クインはただ幸福だった。あれだけ罵りあい言葉を突き刺しながら一つも理解できなかったライアンとのことが急速に薄れ、遠くなっていく。
 それはきっと、良いことに違いなかった。何よりも自分のために悪いことだとは思えなかった。
 ユーエリ河に接岸する南下船への連絡馬車へ二人は乗り込んだ。時間は差し迫っていたから馬車はすぐに出立する。それが大路を折れて見えなくなってから、チアロはゆっくりと街角から歩み出た。停車場の行き先をみて頷き、流しの馬車を止める為に手を振って合図する。
 乗り込む直前、やはり同行していたショワを振り返り、チアロは言った。
「行く先はどうやらミシュアだ、ライアンにそう伝えろ。3日後の昼過ぎに船がミシュアに着くはずだから、クインは夕方までに奴の部屋へ戻す、と」
 ショワが頷いて駆け去っていく。それを見送ってチアロは御者にたっぷりの金を押しつけ、目的地と急用を告げて馬車の座席に身をうずめた。
 馬鹿だな、と低く呟いた声は誰にも届かない。それはむしろ、クインに何も有効なことを出来なかった自分に向けた声であるかもしれないとチアロはふと思い、こみ上がってきた苦いものに頬を歪めた。