第4章 夏、紺青の海へ 12

 優しい波だ。ずっと昔に家族で行ったシタルキア東部の海よりも、ずっと透き通るように淡い水がなだらかにうち寄せてくる。潮の匂いはごく僅かで、それよりも南から渡ってくる駘蕩とした風が肌にまろい。
 どさりと砂に旅行鞄を置いて、クインが大きく伸びをする。時々はっとするほど粗野な仕草がなければ、完璧な少女に見えるだろう。
 ミシュアへ下る船の中でも彼は一際の美少女として耳目を集めていて、彼はそのあしらいに慣れた微笑みで周囲を圧倒するばかりだった。着替えがないから服を融通したが、実際エミリアよりも数段映えるのが苦笑になる。
 クインは海風に乱れる髪をうるさそうに手で制しながら、エミル、と言った。
「あとで、その……どっか泊まるところを探さないと……」
 最後にふわっと赤くなるあたりが、商売に関わらず妙にすれていないようで、エミリアはついくすりと笑った。時々彼は、こちらが面食らうほど幼く初心い。無論、泊まるところを探そうという彼の言葉が何を含んでいるかを察しないことはない。船の中は一番安価な他の旅客と共同の大部屋で、広い空間に一応の仕切線がひいてあるだけの場所だ。
 ──それでも夜は二人で一枚の毛布をかぶり、額を寄せ合い、手を繋ぎあって眠った。彼が主人にはぐれた獣のようにおずおずと身を寄せてきた時、胸にゆるく湧いてきた気持ちは一体何に例えたらいいだろう。それはぬるい湯のようなもので、全身をひたして柔らかく、温かくしてくれるものだ。
 彼の身体はぬくやかで、身を寄せていると小さく心臓の音が聞こえた。彼の皮膚も血も冷たいとどこかで思っていたのだろうか、それがひたすら胸に迫ってエミリアは最初の夜を殆ど眠ることが出来なかった。
 伏せた瞼の半月のように魅惑的な曲線。薄く開いた唇の蓮桃色。頬に優美な影をうつす長い睫毛。そのどれもが美しいのは、それら全てが不安定で強く儚い魂の上に乗っているからなのだ。
 横になったままで眠り込んでいるクインの頬を撫でると喉を鳴らしてエミリアの鎖骨あたりに額を寄せてきたから、腕を回して彼の頭をかかえるように抱いた。僅かに髪の匂いがして、それはとても愛しく切なく自分を取り込んでいくようだった。
 出会った時の顔を、思い出せない。あの時の彼はひどく歪んでくすんだ印象だけが全てで、他に記憶から探すとしたら何かに傷ついてひび割れたままの声でしかない。一目見て可哀想な子だと思った。それは理屈ではなかった。ただ感じる、彼の背負った何かの影が目に痛いほどだったから。
 辛さが頬の歪みに淋しげな色になるまでに滲んでいたのに、不満を口にしない。何よりもそれが胸を刺した。辛さや苦しさを訴える相手がいないのだ、この子は──……
 そう悟ったから妹の為の絵を彼に見せた。人は何にでも救われるし希望を持てるのだということを知ってほしいとそれだけの願いだった──彼は泣いた。ぽろぽろと涙をこぼして、無言のまま泣いていた。希望、と一言呟いた声音の震える重みがまだ耳の奥に残っている。
 そして自分は彼に見惚れていた。あっけに取られるほど、彼は綺麗だった。誰かを困惑させる為とか引き寄せる為の罠ではなく、純粋に胸の中の痛みをこぼす涙。それを見た瞬間に息苦しいほどの感情が降りてきたようで、彼を描いても表情がうまくまとめきれない。自然に背中ばかりが多くなってしまう。
 だから船の中でクインが見せた沢山の表情が尚更眩しい。彼はとにかく良く喋ったし、笑いもしたし、なるほど成長期なのだと感心するほど食欲もあった。これが素地なのだ。
 だとしたら、あれほどまでに追いつめられていた理由は彼が自分で言い出すまでは絶対に聞くことは出来ない。自分で言い出すまではまだ少しかかりそうだったが、ともかく明るい彼を見ていれば安堵になる。
 船がミシュアに到着したのは昼過ぎのことだが、宿よりも先にエミリアは海を見たかった。
 そう言うとクインは何度かミシュアへ来たことがあるらしく、この浜へ案内してくれたのだ。遠く霞む岬の遠景が、海の青さに色濃い緑をまぶして目に優しい。波の音も、光の影も、このミシュアを基点にやがて南海と言われる美しい島々へ到達することを信じさせてくれる。
 エミリアが黙って遠くを見ていると、その袖が軽く引かれた。クインの方は少し怒ったような、困惑したような表情で佇んでいた。
「……あの、あのさ、部屋なんだけど……一緒でいい……かな」
 そういえば、彼にきちんとした許しの証拠を与えていなかったとエミリアは気付いた。縋るような目をしている。心細くて不安な瞳の青が、この海の穏やかな色にゆったりとほぐれていくなら、それもいいかも知れない。
 エミリアは自分の心をまさぐって曖昧に笑った。クインのことを一人の男として好きか、という問いにはまだ自信を持って頷くに足る確信がない。彼を見れば美しいと思い、その美しさが脆く繊細で不安定な魂の産物だと知り、知れば憐憫に変わる。
 実のところ自分のこの締め付けられるような胸の痛みが、一体同情なのか恋なのか判然としないのだ。恋愛は慈善事業ではないし、これが彼の不幸への共鳴なのかそれとも庇護欲なのか、そしていずれもっと昂る気持ちへ変わる前哨なのか、どれに結論つけて良いのか分からない。
「エミル……」
 クインは返答がないことを焦れたように彼女を呼んだ。それから一瞬迷ったように目線を彷徨わせてエミリアの肩に手を伸ばし、ためらいながら抱きしめる。他にどうして良いのか分からないようだ。
 ──可哀想だ。
 エミリアは目を閉じて、クインの背中をそっと撫でてやる。彼への気持ちの中核にあるのは同情なのだろう。けれど、この気持ちはいずれもっと激しく強い何かに変わっていく。そんな予感がする。描きたいという思いはその指針であったし、それがある限り彼をきっと愛するようになるだろうという確信はいずれ見つけられるはずだ。鏡の中の自分の瞳に。
 エミリアはいいわ、とクインの耳元に囁いた。
「今日は一緒に……ずっと一緒にいるわ……」
 クインが頷いたのが分かった。
 やがて体を離したクインは照れくさそうにありがとうと言うと、腰の時計をちらりと見た。これは彼が最初から身につけていた物だ。
「俺、ちょっと行かなくちゃいけないところがあるんだ。……あの、そんなに長くはしないから、1刻かあと半分くらい、待ってて欲しいんだけど」
 エミリアはそうね、と時計を覗き込んで頷いた。夕方には戻ってくるという意味であろう。分かった、とエミリアは頷き、砂に置かれたままの旅行鞄にくくりつけてあった画帳を引っ張り出した。
「いいわ、私ここで描いてるから気にしないでいってきて」
「ん……ごめん」
 すまなそうに目線を下げる彼にエミリアは微笑み、いいわよと強く言った。鞄を開けて固形絵の具の箱を取り出す。それくらいの時間があるなら、色絵の一枚は写生できそうだった。どんな時でも一人で時間を潰すことが苦になったことはない。あいた一人の時間はエミリアにとって大切で貴重な時間でもあったのだ。
 クインはここで待っていて欲しいと繰り返して、最後にもう一度ごめんと付け加えた。繰り返すのは不安だからだ。
 ──エミリアが自分を置いてどこかへ去ってしまう、という怖れにただ震えている。
 行かないで。置いていかないで。クインの切羽詰まった目の色が訴えていて、深い青をしたそれを見つめれば切ない。信じていないのではなくて、ただ失うことが怖いのだ。何かを失うことしか知らなかったと泣きながら彼がこぼした夜の記憶がたった今、その淡い恐怖を気付かせて、エミリアを絡めてしまう。
 彼を見捨てられない。彼が求めるのなら、一杯の水にでも頼りない糸にでもなろう。それが愛であれば、いつか必ず答えが出る。
「待ってるわ……ずっと、待ってるから」
 エミリアは子供を諭すように、ゆっくり優しく言った。クインは頷いて、ごめんと同じ事を言った。目の中の切なく求める光はやはり変わらない。こんなにまで必死でクインが自分を恋していたことなど、今、初めて見る気がする。
 愛おしい。
「どこにも行かないわ」
 ただひたすらに、切なく悲しいほど愛おしい。
「あなたを待ってる、ずっとずっと」
 うん、と頷く仕草が素直で普段よりもずっと幼くいとけなかった。クインはエミリアにそっと唇をよせようとし、何かに気付いたように離れた。人の声もするし、第一彼は今、少女の格好をしている。女二人でひたすら触れ合っているのは人目に奇妙に映るだろう。
 クインはやっとぬるい笑みになった。それがようやくごく普通の笑顔に戻ったようで、エミリアはほっと息を付いた。
「じゃあ、また。その……後で」
 クインの気安い笑みにつられてエミリアは頷き、後でね、と繰り返した。クインは嬉しそうに笑った。
 花開く笑み。やっと見つけた。この表情だ──多分。
 エミリアは彼の面差しをじっと見つめて深く頷く。自分は今、圧倒的な者の前に仕える敬虔な巫女であるような気がした。