第4章 夏、紺青の海へ 13

 夢中で描き上げた最後の一枚に日付を入れると、エミリアは画帳ごと鞄にくくりつけた。これは彼にはまだ見せたくない絵だ。筆致も感情も、全てが乱れていてとても絵になっていない。
 けれどその惑乱は決して悪いものにはならなかった。自分の印象に刻まれたままに先ほどのクインの破顔した笑みを描き写したが、自分でも制御できない何かが指先から溢れてきて止まらない。まるで自分の意志とは関係ないかのような早さで手が彼を描き出す。
 止まらない、止まる気配さえない。今までザクリアのアパートで見た彼の微笑みや不満な表情や、虚をつかれたまばたき、歪めた唇、淋しげな横顔、皮肉な影の落ちる頬、何もかもが一度に降りてくる。
 何故今までこれを描けなかったのか、忘れていられたのか、そんな疑問さえ浮いてくるほどだ。
 そんな狂騒の熱に浮かされるように1冊画帳を使い切って、はっと気付けば既に日は和らいで優しくなりつつあった。
 クインが戻ってくると言った時刻までにはまだ少しありそうだった。エミリアは苦笑してはいていたサンダルを脱ぎ、海へ足を入れた。練炭で汚れた利き腕を軽く洗う。
 それが済むと旅行鞄の中に入れておいた小さめの画帳を取り出し、絵の具で直接浜で遊ぶ子供たちを写し始めた。
 幻想画が画題の中心のように言われているエミリアであったが、実題のうち家族の絵は好んで描いた。
 温かで柔らかい一つの箱のような、ぼんやりと優しい印象をエミリアは持っている。表現したいものがどうやら自分の場合は美しい光景ではなくて、優しく普遍な愛と祈りなのだと確信するのはこんな時だ。
 妹を描くのもその為なのかもしれない。エミリアは少し息をついて、遊ぶ子供たちを眺めやった。
 アスナの黒々とした目には深淵の闇が棲んでいる。それは月のない夜の星空と似た暗闇で、だからこそ美しかった。
 失ってみて初めて気付くものもあり、気付いた故に一層愛しくなるものもある。アスナの幸福が何であるかを自分が決めることは出来ないが、あの子にはどんなことでもしてやりたい──それが喩え罪であったとしても手をつけるだろうという確信が、どこかに眠っているのがわかる。
 エミリアはそっと笑った。この旅行が終わったら故郷のステリオへ寄って妹の顔を見て帰るつもりが最初からあった。
 出来れば彼を連れて行ってやりたいが、クインはどれくらい一緒にいられるのだろう……仕事、ということは帝都を出た日からついぞ口にしないが、彼の仕事が決して暇であるとは思っていなかった。
 今クインに必要なのは戻る巣であり、温かな寝床であるようにエミリアは思えてならない。
 自分に縋り付いてくる目が必死で、切羽詰まっているから分かる。
 その為に彼が求めているものを自分が持っているなら差し出してやりたい。去り際にクインの浮かべた安堵の笑顔が瞼の裏に強くまざまざしく蘇ってきて、エミリアは感歎の吐息を漏らす。
 あれが彼の最も明るい笑みだ。そして、一番幼い。
 彼はまだ子供だ、どんな意味においても。だから守りたいと思うのだろう。無垢であることが子供の証明ならば彼はまさしく無垢のままであり、自分が汚れていると感じつづけることで尚更頑なに美しく孤高にあり続けている。それがとても綺羅しく感じると同時に、痛々しさを覚える要因だったはずだ。
 彼のことを、好きになるだろうか。
 エミリアは手を止めて子供たちを見やる。いつか自分にも、きっと愛し合って結ばれる相手が出来るはずだ。クイン以前につき合っていた男は故郷のステリオでの絵画鑑賞の同好会で知り合ったが、最後にはエミリアをなじって離れていった。
 ──君は絵が描ければいいんだろう? 俺のこともきっと絵のついでかその肥やし程度にしか出来ないんだ……
 彼は絵を愛していたが描く男ではなかった。自分では描けないから一線で描く人を尊敬できると言ったのは同じ口唇だったのに、エミリアの描く世界に彼の印象の色であった白が混ざり始めたのを喜んでくれたはずなのに、結局自分を踏み台にされたのだと言って離れていった。
 好きだという気持ちならば、彼とのことにより多く見つけられた。絵の中でしか愛を語れないと言われてエミリアはそれなりに傷つきもしたし、怒りもした。クインに同じ不満を与えたいはずもないが、ではどうしたらいいのかは全く分からない。
 エミリアは軽い溜息をついて、写生を再開した。そろそろ夕刻近い海は淡い灯火色になりはじめた光線を乱反射して、巨大なだんだら模様を描き始めている。それは一瞬の魔法のような風景だったから、描き留めるのを急かされるようで、自然に手が早くなり意識は平板になっていった。集中する時はいつもそうだ。
 ──だから、人の気配が背後にしたのをエミリアは長く気付かなかった。光の幻想を淡い色で写し終えて一息ついた時に、やっと背後に誰かが経っているのに気付いたのだ。絵を描いていると時折後ろから覗き込む者もいるから、それにやや鈍感になっていたのも本当だろう。
「こんにちは」
 ふと振り返ったエミリアが何かを言う前に、少年はにこりと笑った。笑顔が明るく屈託ない。背はすらりと高く、手足が長い印象があった。色素の薄い髪は夕日に今染まり始めていて定かではないが、亜麻色というところだろうか。とにかく体格が細く長い印象が強く、ついで笑顔の人なつこさが胸に残った。
 こんにちは、とエミリアは笑って見せた。相手の明るさに合わせた笑顔であったが、普通の挨拶ではこれで十分だった。
「絵、上手いね……声をかけようと思ってたのに、ずっと見ちゃったよ」
 少年の言葉にエミリアは軽く微笑み、ありがとうと言った。絵は彼女の本業であったから、素人にこうして写生を誉められることには慣れている。少年は頷き、ちらりとエミリアの横を見やった。
「……隣に座っても?」
 聞かれてエミリアは頷いた。少年の持っている空気には敵意を感じさせるものが何一つなく、朗らかな気配の居心地がよかった。少年は嬉しそうにエミリアの隣へ腰を下ろし、もう一度エミリアの絵を誉めた。
「俺、あんまり絵は見ないんだけどあなたの絵は好きだな……何だか優しくて泣ける」
 エミリアは首を傾げ、そう、と曖昧な返答をした。写生は子供たちと夕日の海だけで、それも素描に近いからそんな印象を受け取るには多少材料が足りない気もしたのだ。少年は訝しげなエミリアの表情に気付いたらしく、照れたように笑った。
「ああ、いやほら、この前ザクリアで展示会やってたでしょ?」
 それでエミリアは多少の納得に微笑んだ。この少年のことは記憶にはないがずっと会場にいたわけでもないし、展示会のことは事実だったからだ。
 ほら、と少年は証拠を掲げるように上着のかくしからカードを取り出す。エミリアはそれに破顔した。それは展示会の告知に使った天使の絵だった。水の青を基調に天使と魚群を描いた絵で、これは評価会でもよい評をつけて貰えた一幅だ。何故か巡り巡って今、リュース皇子の元にあると聞いている。絵のモデルを最初皇子に頼もうとして断られたのだから、不思議な縁に思われた。
「この絵が綺麗だったから、俺、ザクリアであなたの画集も探したんだ。結構出てるんだね、色々あって驚いたよ」
 エミリアは曖昧に頷いた。今何冊出ていたろう──画集については本人に権利料が僅かに支払われるだけであまり現金に変わるものではなかったが、何よりも絵の告知になるために厳密に条件を取り決めたことはなかった。少年の言う画集が何であったのかは分からないが、そんなうちの1冊だろう。
「画集はいろんな所から出ているから、気に入ったら見てやって」
「うん、そうする。妹さんの絵があったでしょ、幻想の連作のやつ。あれが入ってるのがいいな。何かある?」
「そう……だったら、そうね……」
 エミリアは少し考え、画集の内で妹を描いたものが多めに入っている本を記憶に探り出し、題名を画帳の隅に書いてちぎった。
 これがいいわ、と言うと少年はありがとうとくしゃりと顔を潰すようにして笑う。笑顔の心地よさが明るくて、一瞬クインにもこんな顔が出来ればいいのにと、そんなことを思った。
 少年は紙片を服の内側に入れ、エミリアに頷いて立ち上がった。夕日というべき温かな色に照らされて、少年の影が長く伸びる。彼は決して飛び抜けた美形ということではなかったが、人好きのする性質と穏やかで明るい笑顔が人に落ち着きと微笑みを与えるようであった。
 天真爛漫というほどに幼くもないが、それでも明朗な表情が誰であっても悪い印象を受けないだろう。
 エミリアは置きかけていた練炭を取った。表情や仕草の雰囲気を、僅かでも写し取っておきたかったのだ。と、それに気付いたらしい少年がやめてよ、と苦笑になった。
「俺なんか描いてもいいことなんかないよ」
 いいえとエミリアは首を振る。少年の身についている雰囲気は、どこかに描き留めておきたいという欲求を興させた。エミリアはすぐだからと素早く言って、写生を続けようとした。
 待って、と手首が掴まれたのはその時だった。そんなことをされるのは初めてで、エミリアは思わず小さな声を上げる。だが、少年は掴んだ手を放さないままやめてよ、と繰り返した。
「俺なんか描いてもろくな事にならない──無論、彼もだ」
 エミリアはふと表情を引いて少年を見た。
 彼、と少年は言った。それが誰のことであるのかが、一瞬繋がらない。彼、と怪訝に呟いた次の瞬間、それが最前まで自分が呟いていた言葉と重なった。
「彼……」
 エミリアは喘いだ。上手く呼吸が出来ない。
 彼、と繰り返してエミリアはふと冷たい眩暈を感じてこめかみに手をやった。そう、と少年が肯定する為の強い口調で言ったのが聞こえた。エミリアは顔を上げ、側に立つ少年を見上げる。彼はまだ微笑んでいて、それは先ほどまでと変わらない、明るく裏のない笑顔だった。
「そう、彼。あなたに何と名乗っているかは知らないけど、彼だよ。……彼と最初に会うのに俺たちに連絡を取ったのはあなただったね、エミリア=スコルフィーグ? 担当していたのが女だったろう、やけに暗い女──つまり、あなたはあの女を通して彼にまつわる世界のことを感じなくてはいけなかった」
 エミリアはじっと少年を見つめた。夕映えの中で少年は苦笑気味ではあるが、やはり明るく笑っている。何の気負いや凄みも感じない。だからこそ、これが少年にとって特に威圧を加えなくてもよい程度の、ごく普通の通告だと知れた。
 潮風が一瞬強く増し、エミリアの肌を叩いた。それに我に返ったように、背がぞくりと冷えた。
「……でも……あの子は」
 何の当てもないまま反論しようとした時、手首が痛んだ。少年が掴んだままだったそこを、きつく握りしめたのだ。一瞬の圧迫の後で手先が痺れてくる。エミリアは呻き、その瞬間に指先から練炭が砂に落ちた。関節がぎりっと合わさって軋む音がする。ぴくんと反射で自分の指先が撥ねるのにエミリアは喘いだ。息苦しい。
「例えば、あなたが絵を二度と描けないようにする、ということも出来る。どこをどうすれば人の身体が駄目になるかくらいは俺でも知ってるんだ、ご主人にそう教えて貰ったから……あ、ごめんね、痛いでしょ?」
 少年はにこりと笑って手を離す。途端にどっと血が通い始めてエミリアはそこを押さえた。急激な血液の温度がかあっと火照るようで、強く手をさする。感覚は見失ってはならない。
「でも、俺はそんなのはやだな。あなたの絵は本当に好きなんだ……彼のことで色々とこっちで調べた時に見て、本当に好い絵だと思った。だから、これが俺の好意だと信じて欲しいんだ──今すぐ一人で、帝都へ帰ってくれたら二度とあなたの周辺に近付かないと約束する」
 エミリアは反射的に首を振った。
 クインに二度と会うな、と言う意味であることはすぐに分かった。そんなことは出来ない──すべきではない。彼の瞳に自分へのまっすぐな光を見てしまったのに、それを見捨てるなど出来るはずがない。
 だめよ、とエミリアは低く呟いた。
「今私があの子を見捨てたら、あの子には帰る場所がなくなってしまう。それは駄目よ。絶対に駄目。せっかく、良くなってきたのに……」
 描けなかった表情。彼の上全体に落ちていた、重苦しい影。それが次第に薄れていった夜と昼が、言葉につられるように戻ってくる。エミリアはだめ、と繰り返した。
「駄目よ、また元に戻ってしまうわ……」
 言いながらエミリアはその胸痛む想像に顔を歪めた。
 出会った夜のような歪んだ印象へ彼が戻ってしまうとしたら、途方もない罪悪感だけが残るだろう。やっと普通の少年らしい表情が覗くようになったのに、それがまた取り繕って刺々しい殻に引き戻されていくかと思うと胸が裂けそうだ。
 だめ、と繰り返しながらエミリアは何度も首を振った。少年は曖昧に頷き、エミリアに額を寄せて囁いた。
「そのことは俺も反省しているし、後悔してる。奴がずっと淋しくて苦しんでたのを俺は知ってた。知ってたけど、俺はそんなに酷いことじゃないと思ってた……少し我が儘なところがあるんだと。でも、奴がどれだけ追いつめられた気分だったかは良く分かった。奴の渇きを俺は癒してやれないが……」
 少年は頬を歪めて切なく笑う。
「けれど、その方法を知っている。こんなことは二度とさせない。奴をこんな風に飢えさせない。それも約束しよう」
 だから、と言われてエミリアは首を振った。だめよ、と言い募る自分の声が揺らいでいる。
 彼を今この瞬間に愛しているかと言われたら分からない、としか言いようがない。けれど彼の助けを求める声に頷き伸ばした手を、今ここで引いたらあの子は二度と立ち上がれないかもしれない……
 それだけはしてはだめ、とエミリアは強く自分に頷きかける。
 駄目よと更に繰り返した声はそれまでよりもしっかりと強く聞こえた。
「私は、あの子を見捨てたらいけないわ。出来ない、そんなこと……」
 言いながらエミリアは立ち上がる。少年から少しでも離れたいと思ったのだ。少年はその反応に淡い苦笑を浮かべ、エミリアの鞄をさっと奪い取って行こうか、と言った。
「船着き場まで送るよ。帝都まで一人、個室を買っておいたから。さあ、急がないとあまり時間がない」
「返して。私はいかないわ。ここで待っていると約束したもの」
 手を突き出すと少年は仕方なさそうに笑い、エミリアの鞄を砂に置いた。
「……君がどうしても、と言うなら仕方ないね」
 声はあくまでも軽く明るい。それがひどく底知れなく恐ろしくて、エミリアは半歩後じさった。
 逃げないで、と少年が素早くエミリアの腕を掴む。離して、と叫んだ声が途中で裏返り、悲鳴のようになった。
 けれど、誰も近寄ってこない。自分の声が酷く掠れて震え、小さく強張っているのに気付いたのはこの時だ。エミリアは低く呻き、離して、と震える声で言った。
「離して、……私を……どうする、の」
 クインの関わっているのが帝都の闇にほど近いのだと知っていたはずだった。タリアから彼が来ていることも。
 タリアの華やかで猥雑な表面の下にはこの国の暗部を引き受ける深い闇がある。その王たるのがタリア王であり、その幹部たちや部下たちがどれだけ悪辣で残虐かは今更語るほどのことでもないはずだ。沢山の暗い逸話が不意に瞼の奥をよぎった気がしてエミリアは震える。それを何とか悟られないように殺そうとしていると、少年がどうもしない、と返答した。
「あなたのことはどうもしない。でも、今帰らなくてはいけない。そうでなければ、まず5日後にあなたの親しい人がいなくなるよ」
「──何……?」
 エミリアは思わず瞬きをした。彼の言う意味が良く分からない。
 ぽかんとしていると、少年はゆっくりエミリアに近付いて、その頬を軽く撫でた。神経の具合が繋がるように、その瞬間にざあっと背中が粟立つような感覚が走った。
「……そしてそれでも帰らなければまた5日後に、別の人がいなくなる。悪いけど、留守中にあなたの部屋には何度か入らせて貰った。手紙があるね──故郷の恩師、近所に住んでいる親戚、それと初等学校の頃からの友人たち……帝都の同僚、絵の同人会の仲間、あなたにちょっと気のある画廊の若旦那、学院の友人たちに、写生を教えている生徒たち、それに」
 少年は一度言葉を句切り、まっすぐにエミリアを見た。エミリアは口を開けた。悲鳴を上げたいと思ったのだ。けれど、唇からは何もこぼれてこない。上擦った自分の呼吸が不規則に打ち出す音だけがする。
 木枯らしのような音が。
「それに……」
 少年が言いかけた言葉を引き留めるようにエミリアは彼の腕を掴んだ。やめて、と動かした唇が、一体どこまで正確に発音を刻んでくれたか分からない。けれど、彼が何を言おうとしたのか、直感が教えてくれたのだ。
 少年はエミリアの制止には構わず、それに、と強い声を出した。
「あなたの肖像画はよく似せてある。妹の題の絵を見れば、どれがあなたの妹かはすぐに分かるはずだ……あなたの部屋にあった彼の絵も、背中だけなのに確かに奴だったから」
「やめて……あの子は、関係ないわ……」
 エミリアはぎゅっと目を閉じる。黒く冴えた瞳の少女が、脳裏をゆっくり歩いている。姉さんと呼ぶおっとりした、芯の強い声。
 やめてと呻いた声は、今度こそ震えて強張っていた。
「妹は──他の人は、関係ないでしょう? どうして、そんな、……酷いわ」
「うん、そう、酷いよね」
 他人事のように少年は呟き、彼に縋り付くような姿勢のエミリアの背をゆっくりと撫でた。でもね、と呟く声は最初に声をかけてきた時とやはり同じだ。
「あなた、彼と会うのは一度きりだという約束を守らなかったね……それだけでも本当は殺せと言う連中もいる。俺は俺たちのことに本当は関係ないあなたを巻き込むのはいやだから、一度あなたを説得する機会をもらった」
「説得ですって?」
 エミリアは急にかあっと頬に血が上るのを感じて面差しをすくい、相手へ強い視線をあてた。少年はやはり微笑んだままで、それが尚更怒りに変わった。
「これは脅迫でしょう? 私があの子を捨てなければ、私の周りの人を殺すというのに!」
「決めるのはあなただよ、エミリア? それに脅迫っていうのは、最初の一人を殺してからするものさ」
 エミリアはきっと奥歯を噛みしめて相手を睨んだ。睨まれた方はゆるい笑みを浮かべたままでどうする、と何度目かを口にした。
「あなたは帰らなくてもいい。すぐに妹さんにも危害が及ぶわけではないしね。でも、それがいつになるかは教えられない。だからいつ手が伸びるのかをあなたはいつも怯えていなくてはいけなくなる──奴とのことをその他全部と引き替えてもいいというならそれでもいいんだ、ただ、それにどれだけの覚悟と実際の犠牲を伴うか、というだけの話」
 少年は軽く笑い、つとエミリアから離れて大きく伸びをした。
 しなやかな背中。気負いなくまっすぐに伸びて、まるで影さえもない。ひどく惨い脅迫を口にしながらも終始彼は穏やかで、どこか済まなそうな気配さえあった。裏も感じないから、これがこの少年の素地なのだろう。
 クインにあったのが思いの外幼い明るさであったことと同じように。
「で、どうするの? 奴の為に全て失っていいというなら、俺にはもうあなたには何も言うことがない……奴が帰ってくるのを待って奴に同じ事を言うさ」
 エミリアは低く喘いだ。クインに同じ事を言った時、彼はどんな顔をするだろう。あの強く切ない光で自分を見つめて、何を言うのだろう。
 ──それが全てを捨てて欲しいという言葉だったら、どうしたらいいの。それが思いの外強い動揺であったことにエミリアはうろたえ、うろたえたことで目の前が暗くなったような気がした。
 迷っている。いいえ、多分これは迷いでさえない。彼には救いが要る。エミリアはそれを与えてやりたい──でも。
 目を閉じるとこの春に最後に会った時の妹の、あどけない笑みが浮かんでくる。細い首と手足、華奢な肩とほっそりした指。あれを失うことなど考えられない。
 アスナ、私の可愛い妹。たった一人の肉親、私のための希望。アスナ。呟くと、涙が出そうになる。それを飲み込んで堪えた時、おこりのように震えが来た。
「駄目よ、そんなのは駄目」
 叫ぼうとしても声にならない。今頷いたら全てが消えてしまう。紺青の海にしどけなく漂う水泡のようにその淡い夢のように、全てが呆気なく終わってしまう。
 彼のことを愛そうと思ったことも、彼が自分を見て切なく縋り付いたことも、二人で手を繋いで眠った時間も、──彼の背中に垣間見た美しい翼も。
 それは駄目だと思う側から、だが体は動かない。震えているだけで、ぴくりとも出来ない。
 エミリアはたった一つ出来ることをする。目を閉じればやはり浮かぶのは黒髪を風に軽く任せて笑う、妹の無垢な笑顔だった。
 少年がそっと近付いてきて、エミリアの肩を抱いて言った。
「大丈夫。ゆっくり息をして。俺は約束したことは守るよ──彼のことは俺がどうにかするから、心配しなくていい」
 囁くような声音が優しい。エミリアはそれに引かれるように頷いた。
 頷いた瞬間に、体中から力が抜けて座り込んでしまう。
 戻れない。分からない。
 何が正しくて間違った判断なのか、きっと一生答えなんかでないはずだ。
 妹を助ける為にクインを見捨てる、これが正しいはずはないのに。
 けれど怖い。クインの背後にあるはずの組織の全容は知らないが、ある、ということだけでも十分なはずであった。そしてそこからの使者はエミリアの知人と肉親を無差別の人質に取ると宣告した。エミリアが折れなければきっと実行に移す。
「だから先に帝都に戻ってくれるね?」
 念を押すように囁かれた言葉にエミリアはがくりと項垂れ、小さく首肯した。こくりと頭が垂れた瞬間に、堰を切ったように涙がこぼれ落ちてくる。
 彼を哀れんでいたし、彼を愛しんでもいた。青い宝石のような瞳が切なく自分を見つめていることが歓喜と困惑を両方連れてきた。エミリアに縋る目、ためらいがちに伸ばされてきた手、好きだと言った時の切羽詰まって掠れた声。
 そのどれもが淋しげで、だからぬくぬくと甘やかしてやりたかった。湯浴のようにゆったりと普遍の愛と祈りに浸らせて癒してやりたかった。
 ──でも、妹と引き替えには出来ない。
「ごめんね……」
 掠れた呻きに少年がごめんよと付け足し、エミリアの腕を掴んで立ち上がらせた。砂に足を取られて僅かによろめく。
「もう行こう、船の時間がある。荷物はこれだけ?」
 少年が鞄を取ろうとしたのをエミリアは触らないで、と強く言った。クインを失う悲しみよりも、このやり方や唐突さへの怒りがひどく暗い声音にしていた。
「── 一人で行くわ。構わないで……」
 呟いて鞄を自分の方へ抱き寄せる。鞄にくくりつけた画帳ごと一度抱きしめて、エミリアは画帳を外した。
「これをあの子に渡して……あの子を描いてたの、全部この中にあるから」
 うん、と少年が頷き、代わりに船の指定切符を差し出した。エミリアはそれを受け取る。これを少年がお詫びにと言うならそれも良かった。何より、他人に紛れたくない。河を上る便だから帝都まで5日ほどかかるその間を、一人になりたかった。
「あの子にごめんねって、言って」
 少年は肩をすくめてそれは言わない方がいいと思うよ、と言った。エミリアは一瞬を置いて頷く。確かに少年の言うことは正しかった。
「……これは必ず彼に渡しておく。……中を見ても?」
「いいえ」
 エミリアは強く言い捨て、返答を待たずに背を返した。回帰線の間際に太陽が隠れていこうとしている。
 その薄く弱い光を頬に感じながら、エミリアは早足でその場から、そしてクインの未来と運命の中から立ち去るために歩み出した。