第4章 夏、紺青の海へ 14

 窓の外には緑の濃い色が、夏の明るさを主張している。途中で母の為に買ってきた花を適当に水に挿しながら、自分は何かを口ずさんでいたらしい。
「今日は何だか嬉しそうね」
 母親の言葉でそれに気付き、クインは照れの為に頬を歪めた。
 エミリアが自分を待っているだろうと思うと足が着かないほど浮かれているのが気恥ずかしい気もしたし、自覚していてさえ胸の奥が柔らかくさざめいているのが分かる。
「何でもない……わ。大丈夫。上手くやってるから、心配しないで」
 いつもと同じ言葉をすらすらと口に乗せ、クインは花の角度を指先でいじった。白い薔薇の大輪がそっと揺れる。
 母は手にしていた刺繍枠を下ろし、クインの横へ立った。こうよ、と言いながらこうしたことに器用でない息子の仕業を直していく。
「……いい薔薇ね」
 肉厚でしっかりした花弁を指で撫でながら、母が呟いた。
「お前、これがなんて花だか知っているの?」
「薔薇……じゃないの?」
 きょとんとしたクインに母親は少し笑い、『麗しきイリーナ姫』よ、と言った。
 ふと細くなった母の瞳が哀しげに淡く微笑んでいる。
 イリーナという名にクインは内心ぎくりとする。その名は現在の皇妃であるイリーナ・ロシェルを指しているのだろう。あの皇子の実母であり、即ち自分のおそらくは真実の母の名であった。
 それを思えばひどく切ない。皇子のことを憎んではいけないと知っているはずなのに、皇子のことを思うたびに焼き切れそうな怒りと憎悪を覚えるのは自分が狭いのだと理解しているはずなのに、それはいっかな弱くなる炎ではなかった。
 自分の胸の中の、荒れる炎の幻影。何もかもを手に入れなくては嫌だと吠えて、自分を捨て去ろうとするもの全てを焼き尽くしたがっている。ライアンのことも、その熱に煽られあぶられて追いつめられていった。自分でさえ焼いてしまいそうな激しさが、時折自分で恐ろしくなる。
 ──いつかこれが自分自身を殺しそうだ。不意に胸に湧いた不吉な言葉にクインは目を伏せ、ゆっくり呼吸をした。
 イリーナの名の由来を自分が知っているとは悟られたくなかった。母の胸の中にある罪をいつか聞かなくてはいけないとしても、それを受け入れることが今の自分に出来るなどとは到底思えなかった。
「そう……イリーナ姫? 綺麗な品種ね。香りがちょっと強いから、窓を開けるわ」
 クインは微笑みながらそんなことを言い、手を伸ばして硝子窓を押した。小さく木枠が軋み、ついで外の風と空気が吹き込んでくる。
「いい風……」
 クインは呟いて、梢の向こうに瞬き見える海へ視線をやった。
 エミリアは今、何をしているだろう──絵を描いているだろうという予測とは別に、今彼女がどんな表情で何を描いているかが知りたい。
 もっと知りたい。彼女のことを。二人で身を寄せ合って眠った船の中、目覚めると彼女の柔らかな腕の中に収まっていたことがあった。指を絡めると、無意識に握り返してきた。
 掌の熱、肌の温度、髪の匂い。決して美しい女でもないし、絵のこと以外にはごく普通の女だ。それは分かっている。
 けれど──でも、彼女しかいない。自分を捕まえ、微笑み、特別だと優しい言葉をくれるのは、彼女しかいないのだ。ライアンが戻ってくれば彼女の為に二度と会わない方がいいとは分かっている。
 ライアンがどう判断するかは分からないが、エミリアを手にかけて全てを短絡に葬る可能性は低くない。奴は人を殺すのが好きだからな……クインは苦く奥歯を噛み合わせる。チアロでさえ眉をひそめているではないか。元々チアロは殺人についてはあまり積極的でないことはあるが、それにしてもよい趣味だとは思えなかった。
「……何かあったの?」
 母親の優しい声が背中を撫でて、はっとクインは顔を上げた。自分は随分難しい顔つきで窓の外の枝を睨んでいたらしい。慌てて顔を弛めるための満面の笑みを作り、何でもない、と言った。
「もうすぐ夏期の中途入学の受験期だから、少し気になるのね。生徒から何人かは受けることになってるから」
 仕事は塾の講師ということにしてある。いつまでこんな風に誤魔化すのだろうという自嘲がそっと胸の奥に囁いたが、クインはそれを無視した。
 いつまで、ならば簡単だ。この嘘が知れてしまうまで──つまり、永遠に。
「そう……あまり無理はしないのよ。昔から、そんなに丈夫な方じゃないんですからね」
 クインは頷く。虚弱というほどでもないが頑丈ではなかった体質は、やはり根の弱い体質だというリュース皇子のそれと重なる。こんな些細な状況証拠を積み上げた末に、血縁はやはり確信というものに変わっているのだった。
「大丈夫、母さん。私は……全部大丈夫だから」
 母を安心させる為に繰り返してきた台詞をまた口にして、クインは笑って見せた。そう、と母は頷きかえし、しばらくクインを愛しげに見つめてから言った。
「ねぇ、お前……好きな人でも出来た?」
 母の声にクインは思わずえ、と聞き返した。それからぱあっと赤くなる。
 慌てて俯いても、尚更頬に血が集まってくるようで止まらない。
「や、ちょっと待って、何でそんな……母さん」
 何か取り繕うようなことを口の中でしきりと呟いていると、母は明るい笑い声をたてた。クインはますます赤面するが、表情に出るものは隠しようがない。
 次第に仕方ない笑みになってクインは照れたまま肩をすくめた。
「別に、そんなことないわ……第一こんな格好でどうしろっていうのよ」
 女装のままの姿であったから、母はそうねと苦く笑う。でも、と付け足された言葉は優しいが苦みに満ちて悲しげであった。
「でもね、お前もどんどん成長するわ。見る度に大きくなる気がする……この格好もあともう少しになってしまうわね」
 クインはやや真面目な表情でそうね、と曖昧に返答した。
 体つきはどんどん男性的になっていく。細身の体格はともかく、肩の広さや腕の関節の大きさは確かに男のものだ。身長がどこまで伸びるかは分からないが、女装では目立ちすぎるようになってしまうまで僅かというところだろう。
 但し、クインは自分の美貌については強烈に自負というものを持っている。まだ少しの間ならば、女装でも通せるのではないかという感触はあった。
 誰もがクインの容貌に目を奪われるため、体型は後から印象に付加されるだけの追加事項に過ぎないのだ。
 美少女という印象さえ与えてしまえば後はどうにでもなる、というのはあまりに適当な仕儀だが、それをまっとうするだけの雰囲気を作る自信はあった。まだしばらくは大丈夫だろうとクインは考えている。
「そのことはどうにか考えるわ。あんまり厳しいと、ここへも来られなくなってしまう……」
 言いながらそれが一番恐ろしいことだとクインは思う。
 やはりあの時ライアンに下手に取りすがって戸籍を貰わなくて良かった。真実母娘の戸籍を用意できていたら、臨機応変というわけにはいかなくなるではないか。
 今更自分の選択を追認してクインは大きく安堵の溜息をはき、母さん、と言った。
「でもしばらくは大丈夫。まだ普通にしていれば誰も気が付かないから」
 クインは笑い、母親の手袋の上から軽く唇を押し当てた。
 この病にかかってから母は接触を極端に怖れるようになった。感染値は下がっているから今はもう遮蔽幕もないし部屋の外へも出ることが出来るが、素肌を触れ合わせることは絶えている。
 だからいつも頬ずりや軽いキスで確認してきた愛情は、いまは薄い手袋越しのこのキス一つであった。
 それでも、黒死の証明とも言える黒ずんだ肌は今のところ指先だけだ。それ以上広げない為にクインは自分を提供することを選んだのだから、手袋をしていても唇の温度を知っていて貰えるならば報いはあるのかもしれなかった。
「またね……母さん」 
 クインは柔らかに笑いながら告げる。陽は次第に傾き始めていて、窓の向こうの遠い海は屈託ない青から夕陽の反射の鈍い灰色になりつつあった。今からミシュアの街へ戻るならば、夕方になってしまうだろう。
 母は頷き、ねぇ、と優しく彼を呼び止めた。クインは首を傾げてみせる。
 窓辺の椅子から母は立ち上がり、愛しくクインの前髪を整えてやりながら言った。
「いつか好きな人が出来たら教えて頂戴ね……お前の為にいつでも祈っているわ。お前の幸せと、お前の愛を」
 クインはじっと母と決めた女を見つめる。マリアは柔らかに笑ってクインの手をぎゅっと握りしめた。うん、と小さくクインは呟き、誰にも聞こえないように母の耳元で小さく囁く。
「分かってる。でもそれはもっと遠い時間だと思う……」
 ライアンとのことがある限り、エミリアは通り過ぎていくだけのことになるだろう。それでもいい。今彼女の持つ愛と癒しが欲しいのは本当だから。
 母は頷き、ごめんねと小さく言った。クインは首を振る。本当は、マリアと名乗り彼の母だというこの女を見捨ててもいいはずだ。けれど、そんなことは出来るはずがない。それは既に自明であり、納得が済んでいることでもあった。
 そして血のつながりがないことをクインが知っている、ことをマリアには悟られてはならなかった。あくまでも優しい子として、ただ母を思い案じている子であると思っていて欲しいのだった。
 クインはまた、と強く言うと背を返した。扉を閉める一瞬に、母の笑みが視界をよぎった。瞳の奥にある、柔らかで温かな表情。
 かちゃりと錠金具が噛む音がした瞬間、クインは既視感に微かな溜息をついた。瞬間母の瞳にあった光と良く似たものがエミリアの目にもある。
 途端、クインは上がってきた羞恥の為に赤くなる。エミリアへ向かう心の中核が何であるかを突然思い知ったような気になったのだ。まるで子供じゃないかと自分を苛立たしく思いながら、クインは溜息になった。
 エミリアが完全に自分を愛しているとは思っていない。どこか彼女は同情的でそれが自分を多少卑屈な気持ちにさせるけれど、いとおしさというものに完全な境界線などないのだから、それも一つの思いなのだろう。
 それでも今夜はずっと一緒にいてくれると言った。
 ──どこか、眺めのいい部屋を探そう。町の向こうに海が見える部屋を。ミシュアの街は大きくて、きっと夜でも明かりを消せば地上の灯火が星のように綺麗なはずだ。一晩だけでも一瞬でも、彼女とのことを一番美しく思い出せるように。
 愛や恋という名前は後から考えればいい。後から振り返れば幻のようなことかもしれない。
 たった一夏で通り過ぎていく、美しい夢のような。
 けれどそれに縋って僅かにでも希望を見ていられたらどれだけ幸せだろう。希望という言葉を教えてくれたのもエミリアだった。彼女の持っているごく普通の当たり前の優しさにずるずると甘えたくなる。陽の降り注ぐ窓辺やぬるい湯に浸かっている時のようなゆったりした心地よさにただひたすら身を沈めたい。エミリアに会う以前ならばそれが真実からの愛ではないと叫んで拒否しただろうか。けれど、それをはねつける気力などもう僅かも残っていない。彼女の微笑みというぬるま湯につかりきってから、ああ自分は本当に傷ついていたのだと感じることが真実なのだ。
 クインは足早に療養所を出てミシュアの街へ向かう。来る時は坂を上るためにやや時間がかかるが、帰りはほとんど駆け下りていくような勢いで下っていった。
 頬を海からの風が撫でて通り過ぎていく。
 エミル、と胸内で彼女を呼んでクインは一人で笑い、慌てて顔を引き締めた。