第4章 夏、紺青の海へ 15

 エミリアが待っていると言った砂浜は船着き場からほど近い。療養所は市街地からやや北寄りに外れた場所にあったから、畢竟ミシュアの街をよぎる格好になる。
 クインがやっと元の浜へ戻ったのはだから、陽が落ちてからのことだった。まだ残光の気配が濃厚に漂って、空の低い場所は燃えるような色だ。砂浜には既に人影がまばらだった。そろそろ家路を辿る時間であるのだ。
 クインはざっと周辺を見渡し、怪訝に首を傾げた。彼を待っているはずの人の姿はどこにも見えなかった。確かこの辺りに、とエミリアが座り込んでいたような箇所へ歩いていっても、そこには夏の光線のせいでまだぬくい砂があるばかりで、彼女の気配さえない。
「……エミル?」
 口に出して名を呼んでみても、返事はどこからもこない。クインは眉をひそめて辺りを落ち着き無く見回し、腑に落ちないままその辺りの適当な店を目で探したが、やはりエミリアの優しい姿は見つけられなかった。
 エミル、とクインはもう一度呟く。訳が分からない。何度か瞬きしてからやっと、彼女の荷物であった大きめの鞄が消えていることに気付く。
 クインは首を傾げ、唇を結びながらじっと砂へ視線をやった。鞄がない、エミリアがいない。……先に宿でも探しに行ったのだろうか。それはそれで構わないのだが、自分を待ってくれないのがいかにも彼女らしくなくて……奇妙だった。
 戸惑ったままクインは更に近辺を見やり、溜息になって砂に座り込んだ。場所はここで良かったはずだ。宿でも探しに行ったのか、とにかくここを離れたなら必ずここへ戻ってくるだろう。鞄がないのは置き放しておく訳にもいかないからだ。
 自分の中でそう整合をつけて決着すると、クインはまだぬくい砂に指で意味のない線をゆるゆる描き始めた。浜辺とはいえ波打ち際からは遠い場所では砂は乾いてさらさらと指を滑る。他にすることもなくてぼんやりかき回していた無意味な線はいつの間にかエミリアの名をつづっていた。
 エミル。クインはそれに目を落とす。
 彼女の空気もなだらかな優しさも、全てが欲しい。女を知らないわけでは勿論なかったが、いつものような態度で相手を蹂躙する気にはならなかった。そんな事を考えていると、ひどくそぞろで高ぶった気持ちになる。意味のないあやふやな笑みをこぼしては飲み込んでいると、砂をかき回す手にこつんと硬いものが当たった。
 視線をやると、黒い小さな棒のようなものが目に入った。
 クインはそれをつまみ上げる。これは見たことがあった──エミリアの手にある所を何度も目撃しているからすぐにわかる。写生用の練炭だ。エミリアが自分で使いやすいように握る部分を若干えぐってあるため、彼女の持ち物だとすぐに分かった。
 クインは一瞬それに視線を与え、立ち上がった。彼女がこれを捨てていくなどあり得ない。何かがあったのだ。探さなくては、と軽くスカートの砂を払って走り出そうとした時、黄昏の中を歩いてくる人影に気付いた。
 ちらりと視界の端をよぎった影を無視して通り過ぎようとし、クインは足を止めた。一瞬逆光になる影の中に、既知の空気を感じ取ったのだ。クインは影に向き直り、二、三度まばたきをした。……微かに呼吸が上擦ってくる。
 すらりとした上背のある身体が片手を挙げて簡単に彼に合図した時、クインは何かを呻いて後ずさった。
「チアロ……」
 夢うつつに呟いた自分の声に撲たれたようにクインははっと身を強張らせ、近寄ってくる友人から更に同じだけ後ろへ下がった。
 痺れたような塊が腹の底から上がってくる。それが喉を通過した時、喘ぎになって唇からこぼれた。
「……チアロ、お前……」
 何故、という疑問は浮いてこなかった。クインは一瞬強く目を閉じる。最初から尾行られていたのだという確信は少しも動かない。何のためにという疑問さえ、愚かだ。
 急に心臓が早く打ち始め、クインは呻きながら額に手を当てる。
 喉が干上がったように痛い。全身から水が抜けてしまったようにかあっと頭の中までが熱いのに、血の流れだけが速くどくどくと脈を打って止まらない。
 クインは喘ぎ、首を振った。
「大丈夫か、クイン?」
 いつもと変わらないチアロの声が、その瞬間、混乱の為に濁った脳裏にきりっと一本の正気を与える。それは重要で重大なことを聞く理性だ。
「俺に触るな」
 差しのばされたチアロの指先を叩き返し、クインはその腕で友人の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「エミル──は、エミリアは、彼女は、」
「大丈夫。無事に帝都行きの船に乗せたから」
 クインは持てるだけの力を視線に込めて友人を睨み据えた。チアロは少し困ったように笑い、本当だよ、と穏やかに言った。
「5日後に帝都に着く便だから、心配なら見に行けばいい。但し、遠くから見るだけだ。二度と会うな……次があればライアンは俺に命じなくてはいけない」
 その名前にクインははっと手を離した。
 チアロがこの瞬間にこの場所にいること、ザクリアから尾行されてきたこと、いや違う──ミシュア行きはクインにとっても唐突で衝動的な行動だった。
 次があればというチアロの言葉がするすると全ての解答を掴み出す。
「ライアンは……もうタリアにいるんだな」
 クインは呻き、更に導き出した答えに全身が逆巻くような眩暈を覚えた。
「俺を……試した、な……」
 最後の忠告とやらをチアロやディーを通じてクインに与え、その上でクインがどう判断するのかを待っていたのだ。チアロが僅かに時間を迷った後で頷いた。
 クインは目を閉じる。
 憎悪や怒りさえ、唖然というべき自失の前に崩れ落ちていきそうだ。試した、と繰り返して呟いて、ようやくそれを飲み込むことだけに成功する。無事だとチアロが言うならそれは信じてもいい。二度と会うなという通告も、これは最前から自分でも覚悟していたことだ。
 けれど、こんな形でこんなに唐突に、呆気なく終わってしまうものだということは予想していなかった。覚悟などというものは追い付かない。何もかもが不意に消えて、残されてどうしていいのかさえ分からないのだ。
 いや、たった一つだけすべきことがある。クインは小さくエミリアの名を呟きながらチアロを軽く突き放し、その反動で後ろへ下がった。
「俺は、許さない」
 エミリア。エミリア。俺の希望。
 優しい声で俺を抱き寄せて大丈夫よと笑ってくれた──クインは喘ぐ。
 涙も枯れてしまったように、ただ、駆け上がってくるものに揺すぶられるように呼吸を荒げるしか出来ない。
 チアロが何かを言いかける前に、クインは背を返した。
 待て、と叫んだ声と同時に腕がぴんと引っ張られ、その場にたたらを踏む。離せ、と怒鳴ってクインは身をもぎはなす間際にチアロの爪が引っかかったのだろう、腕の内側をすっと細い痛みが走った。僅かな間を置いて、そこがうっすら滲むように痺れてくる。
「ああ悪い、傷が……」
 そんなことを言いかけたチアロの声が宥めるように優しげで、クインはやめろとひきつった笑みになった。
「やめろ、今更──そんな偽善、違うか」
「そんな言い方こそやめろ、クイン。俺はお前に傷を付けたくないだけで……」
「へぇ? ああ、大事な商品だもんな!」
 首筋ががくがく震えている。俯いていることさえ頭が重くてままならず、クインは振りかぶるように顔を上げ、そのままの勢いで喉をのけぞらせて笑い出した。やめろ、というチアロの声が淡い恐怖に変わっている。
 クインは甲高く音を外した声で笑い続けながら、右手を左の耳の付け根へ持っていく。何をしようとしているのかを悟ったチアロが飛びかかろうとするより早く、思い切り爪を立てて唇の方へ引き下ろした。チアロの呻きが聞こえた次の瞬間、左の頬を何条にも細く強い痛みがはしった。
「顔だろ? なぁ、顔だろう、チアロ? だったら、ほら、こんな、」
「よせ──やめてくれ、頼むやめてくれ……」
 あまりに弱々しい友人の声をクインは初めて聞いた。軽く鼻で笑い、やめてやるよ、と吐き捨てて今度こそ走り出した。クイン、と叫ぶチアロの声がみるみる遠くなる。
 エミリアと過ごすはずの夜に浮かれ飛んできた道を、クインは全速力で戻りだした。
 療養所の近くに空間移転の為の移転座標を置いている。魔導での移転には正確な相対座標を示す必要があるから、それをザクリアの自室とこの場所において誤差をごく僅かに抑えているのだ。
 月が次第に辺りを照らし始めていた。いつもの街道の目印から脇へ降り、まっすぐに座標まで駆け寄っていく。自分で書いた石盤の赤い塗料文字が目の奥でちかちか瞬いている。
 この場所と自室をつなげる空間の魔導の数値を確かめ、クインは一息を置いてすぐに詠唱を始めた。途端、ふっと身体が浮くような感覚がして、すぐにたたき落とされる。失敗したのだ。あまりに呼吸が乱れていて上手く行かない。地に落ちた瞬間に足を少しひねったらしく、足首の辺りから軽い痺れと痛みで力が入らなかった。
 クインはぎゅっと唇を噛んだ。ほんの僅か、血の味がする。落ち着かなきゃと深く呼吸をした時、まるで凍えた時のように唇が震えているのに気付いた。これを止めなくては詠唱どころではないと口元へ手をやると、かちかちと歯が鳴っている。
 クインは呻きながら石版に額を押しつけた。脳幹から発熱する、とぐろを巻く熱さが僅かに冷える気がした。
「エミル、エミル、エミル」
 呟いているとそれはやはり目のくらむような怒りへ変わった。それが逆に激しく荒れる胸を一瞬だけ宥めてくれる。
 クインはきっと顔を上げた。月は自然にあわあわと世界を照らし、星が次第に姿を現し始めている。紫紺の空を睨み、クインは激しく首を振ると始めから詠唱を始めた。
 ──ライアン。
 目を閉じたまま、その名を胸に呼び起こす。瞬間全身が沸騰しそうになる。
 許さない。許さない。
 エミリアは本当にただの女だ。巻き込んだな──俺が勝手をするからという理由をつけて彼女を巻き込んだ。エミリアには手出しをしていないとチアロがいうなら、もっと身近な、おそらくは妹あたりを脅迫に使ったはずだ。
 それが簡単で何の負担も要らない方法だから。
 エミルに俺と妹を選ばせた。
 それを思うと目の前が血に染まるような怒りを覚える。あの子は私の希望だとエミリアは言った。あの子のために描き続けるとも。エミリアから絵を取り上げてはいけない。彼女から彼女自身の翼をむしりとってはならない──分かっていた、そんなことは!
 クインはようやくいつもの落ち着きを取り戻したように慣れた詠唱を続けながら薄目を開けて月を見上げた。ぼんやりと滲んでいるのは淡い雲か、涙だろうか。分からない。
 喉の奥に悲しみがこみ上げてくるのをぐっと殺した時、詠唱が終わった。身体があり得ない形にぐにゃりと歪み、すっと足下が消えたような感覚が降りた。数度の失敗の後にやっと成功したらしい。
 空間を渡る時間はほんの十を数える間だが、水中を無理矢理連れ回されているような浮遊感と体の重さは何度経験しても慣れるものではなかった。
 いつもの寝台の上にどさりと身体が落ちた瞬間、ミシュアの浜から疾走してすぐに転移を始めた呼吸の合わなさが強烈な吐き気に変わる。
 それを目を閉じて飲み込んでいると、寝室の扉が開いた。ザクリアの方がミシュアよりも若干東にあるからこちらは既に夜の中に世界がある。居間はそのせいで明々とランプが灯され、一瞬目を焼くほど眩しかった。
 思わず手をかざしたクインの耳に、低い声がした。
「……戻ってきました、ライアン」
 ああ、と返答する重い声。かつんという硬い音は灰切りだろうか。
 それを耳にした瞬間に凄まじい怒りが跳ね上がってきて、クインは出来うる限り素早く身を起こし、そちらへ向かって駆け出そうとした。途端、かくんと膝が落ちる。足をひねったことを忘れていたせいか、勢いで床へ身を打ち、喉で呻いた。
「消耗してますが」
 ごく冷静に自分を見つめて呟く声はディーだ。姿は逆光の暗い影とクイン自身の燃えさかるような血熱のためによく焦点を結べないが、好意の欠片もないからすぐ分かる。
 クインが体を起こそうとゆっくり腕に力を込めていると、ディーがまっすぐに歩いてきて腕を取った。立たせるというわけでもなく、床を引きずられて居間へ放り出される。
 軋む肩を押さえながら、クインは半身をやっとあげた。久しぶりに見るライアンは居間の長椅子にもたれ、じっと腕を組んで自分を見つめていた。その目に表情がない。
 ディーがクインの襟首を掴み、ライアンの足下に這いつくばるように押さえ込んだ。微かな失笑。オルヴィが暗い笑みを口元に歪めながら、ゆっくりと腕を伸ばしてライアンの背後から彼の首にまきつけている。挑発だと分かっていても、忍耐など出来なかった。
「離れろ、馬鹿女」
 掠れた声音で呻くと、オルヴィはたまらないといったように背をそらして笑い出した。それは確かに哄笑だった。勝ち誇ったような声にクインは相手を睨み、黙れ、と低く吠えた。
「お前の顔を見るだけで吐き気がするんだよ!」
「そう。私もお前が嫌いだから丁度いいな」
「お前と一緒にするな! 最低の売女のくせに!」
「それがお前とどう違う。お前だって男に足を開いて金を貰ってるだろう」
 クインが何かを言い返そうとした時、不意にライアンが顔、と呟いた。
「その顔はどうした」
 声がいつもよりかなり低い位置に掠れている。クインは別に、と押さえられたままでライアンから顔を背けた。自分の顎にディーが指をかけ、強引に上を向かせる。ひっかいたんでしょうね、と淡々と呟いた声に、ライアンが頷いた。
「顔はどうした。……あの女にされたのか」
 クインは首を振ってディーの捉える顎を無理に振り切り、床にぺたりと額をつける。顔などよりも、どんな表情をつくればライアンの胸に同じような傷を作ることが出来るのか、まるで見当が付かないからだ。
 不意に自分の上から重力が消えた。ディーが押さえていた体を離したのだ。クインは身を楽にするために丸めようとする。呼吸を整えようとしていると首根がおもむろに掴まれ、長椅子へ引きずりあげられた。
「顔はどうした、と聞いたな。自分でやったのか」
 ライアンが身を寄せるようにして呟くように言った。クインは無理矢理笑おうとして頬を歪め、傷の痛みに顔を痙攣させた。今更疼くような痛みが幾らでも湧いてくる。
「それが何だよ」
 脳裏に逆巻く荒波の幻影が、言葉を上手く紡がせない。とどろく音がただ憎い憎いと呻いているのだけが聞こえる。それに耳を傾けていると、ああ本当に自分はこの男が憎いのだと次々に湧いてくるようだ。
 馬鹿な、とライアンが低く言ったのが聞こえた。
「お前の価値は顔だと自分で知っているはずだな。──オルヴィ、しばらくは仕事は休ませろ。使い物にならない……そう、連絡を。チアロが戻ってきたらあれに身の周辺のことをさせておけ」
 オルヴィが簡単に頷いた気配がした。ライアンは視線をクインに戻した。
 彼のまろい緑の瞳が何かにかぎろい、ひどく不安定な明滅を繰り返していることにクインは気付いた。ライアンの感情が何かに揺すぶられているのだ、それもかなり強く。
 クインは唇をめくりあげるようにして、吐息で笑って見せた。ライアンが喉を鳴らしたのが聞こえた。僅かに細められた瞳の奥に、たわめようとしているらしい激しさがある。
 ──怒りだろうか。それとも、自分の胸にあるような憎しみだろうか。
 それをライアンが理性というもので押さえ込んで今までのように冷淡にあしらおうとするなら、それが最も許せなかった。エミリアの優しい温もりを手放して遂に何も得られないとすれば、それは全ての敗北に等しい。それだけは嫌だ、とクインは奥歯を一度きつく噛み合わせ、そして傷のせいでひきつれ痛む頬をぐしゃりと歪めて笑った。
「……あんた、何か言うことはないの? 浮気された亭主だってよっぽど腑抜けじゃなけりゃ、ひとくさり言うぜ」
「二度とこんな面倒を起こすな」
 ライアンの言葉はいよいよ低い。語尾が微かに震えている。
「いいな、お前は俺の特別だから許されていることが沢山ある。旨い汁だけ吸って身分を逸脱することは許さない」
「特別だって? どこが? あんたの特別はリァンだけで俺のことは付録だろ? チアロだってあんたにはリァンの模造品じゃないか……!」
 ライアンが不意にクインの喉を掴み、黙れと掠れた声で言った。ぼそりと呟くような声音は感情を無理に轢き殺した時特有の抑揚の無さで、クインはそう、と更に笑った。ライアンの内側に爪を立てることは出来たらしい。
 あとは思い切りひっかき下ろすだけであった。
「で、俺はそれ以下って態度なんだろう、はっきり言えばいいじゃないか! ライアンは俺が怖いんだ、俺が消えたら守るべきお可哀想なリァンの幻だって消えちまうんだからな!」
「黙れ!」
 ライアンの叫びがした瞬間、耳元で火花が散ったような衝撃がクインを身体ごと横へはじき飛ばした。椅子の脇の机に体側を強く撲ち、身体が反射で撥ねる。
 クインは薄目を開けてライアンを見た。自分は泣いているのだろうか、視界がぼやけてはっきりとしない。けれどそのもやのかかったような世界の中心でライアンが肩を震わせて、荒い呼吸を宥めすかそうとしているのは見えた。
 クインはしゃくりあげるような呼吸でどうにか笑った。耳の奥で空気の塊がはね回っているようで、自分の声さえあやふやになりそうだ。だから尚更くっきりと発音する。
 ライアンの心に噛み付いて、そのまま引きちぎってやりたい。──エミリアとのことを簡単に裂き壊したように。
「怒ってるんだ、図星なんだな、ライアン! あんたは俺が怖いのさ、リァンの代わりにしたはずの庇護人形が自分にいちいち噛み付くのが気に入らない癖に、リァンの代替品だから殺せないんだもんな! やってみろよ! 案外楽しいぜ!」
 クインの叫びがきんと響いて一瞬世界は静まりかえった。ライアンが物も言わず青ざめていく。それは驚愕や不快のためではなく、血の気の引くような怒りのためだった。
 貴様、とライアンが呻いたのが聞こえた。クインはふんと鼻を鳴らして笑おうとした。それが終わらぬうちに喉が急速に締めあげられ、体重が消えた。次の瞬間、がくんと首の付け根に重量がかかり、足が勝手に空中を蹴る。
 喉元をひっつかまれて吊り上げられているのだと悟った時、ライアンが何かを吠えてクインは壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
 一瞬呼吸が止まり、それを回復するように大きく肩で息をする。全身が軋み痛むのをこらえ、クインはそれでもこらえきれずに笑い出した。
 それは弱々しい吐息のような物でしかなかったが、ライアンをあぶるには最早十分すぎる炎だった。ライアンが喉を鳴らして唸ったのが聞こえた。
 ライアンが足早に自分に近寄って胸ぐらを掴み、宙へ再び吊り上げる。衝撃にそなえてクインは奥歯を噛みしめて息を殺すが、殴打は頬ではなく腹へきた。
 みぞおちに膝が入った瞬間、クインは呼吸を喉で詰まらせた。床に落ちる。咄嗟に頭を庇って丸くなろうとした腕が踏みつけられ、無理な角度で筋がみしりと引き延ばされる激痛がはしった。
 クインは悲鳴を上げた──気がした。後のことははっきりと判別が出来ない。
 嵐のように突き刺さる力が自分を散々なぶり、痛めつけている。朦朧とした意識の中で、クインは確かにライアンの小さく殺した声を聞いた。
 笑っている。ひきつったような声で、しかし確かにライアンは笑っているようだった。何かを言ってやろうと唇を開くと、そこからしまりなく何かが零れ落ちていく。鉄の錆びたような臭い。
「──死んでしまう、殺す気ですか、ライアン!」
 掠れた声が怒鳴っているのを耳に留めたのを最後に、ふっと意識が暗闇へ紛れ込んだ。