第4章 夏、紺青の海へ 16

 ステリオは丘の街だ。シタルキア中北部の丘陵地帯の中に属し、ゆったりした隆没が波濤のように遠くまで続いているのが街外れから見える。夏の草の緑が溢れてくるようで、強い光線の下にあれば一瞬目を細めてしまうほど眩しい。
 エミリアは鞄を肩からかけ直し、振り返った丘の様子が記憶と変わらないことに安堵して歩き出した。まっすぐに街の中央区からやや外れた地区へ入り、やがて背の低い薔薇の木の双柱門を抜ける。夏薔薇の甘く清涼な香りがふっと鼻先をかすめ、やっと自分が元の場所へ戻ってきたような気になる。
 奥から偶然歩いてきた中年の女に軽く会釈すると、女はあら、と明るく笑った。
「まぁ、エミリアさん? 帰省は再来週って聞いてましたけど、早めたのね?」
 女の表情にどんな影も苦悩も遂に見つけられず、エミリアはやっとぬるい笑みになることが出来た。何かがあれば、きっとこんな風に屈託なく話しかけると言うことはしないだろう。
 それが思いの外自分の頬を弛めたらしい。ほっと溜息になると、女はエミリアに満面の笑みを向けた。
「面談室をお使いになる? それとも帰宅するかしら? アスニアったら養家に迷惑だからってなかなか帰らないのよ」
 エミリアは苦笑になった。叔父夫婦には子供がおらず、そのせいでエミリアもアスナも実の子のように愛しまれている。葡萄園も年によって作付けに波があるのは仕方がないが、片手間に仕込んでいる葡萄酒の評判が存外良くて、不足のない暮らしだ。口減らしではなく、自分の世話に手がかかることを気にしているのだろう。
 それはエミリアも同じであった。だからアスナが全寮制のこの盲学校に入りたいと夢想を語った時に絵の新人奨励賞を貰った絵を売って金を作ったのだ。
「連れて帰ります。部屋へ行って荷造りを手伝ってもいいですか?」
 どうぞ、と女が微笑む。エミリアが頻繁に面会に行く部類であることもあって、面談には比較的甘い。盲学校特有の手すりや階段の終わりの鳴き床を通り、妹の部屋の扉を叩く。どうぞ、という声は明るくて、いつもの妹のまま、何も変わらないごく普通の日々のままだ。
 部屋の扉を開けると、妹は窓辺にいた。開け放した窓硝子に耳を当て、じっと目を閉じている。窓に跳ねる風の音を聞いているのだ。
 扉が開くと一瞬通りが良くなった風が強く硝子を震わせて、それが楽しいのだろう、アスナは小さく喉を鳴らして笑っている。ちりんと扉にくくりつけられた合図の鈴が鳴った。
「……だれ?」
 おっとりと口にして妹は窓から身を離す。傾げていた首を直すと長く伸ばしている髪がさらりと肩を滑って落ちた。妹の目と同じ、美しい夜空の色だ。落ち着いて扉の方角へ向けられる目は、それでも見当違いの場所を見ている。というよりは、振り向いた耳に気配を悟ろうとしているからどうしても見えている者とは視線のやり方が違うのだ。
 エミリアは私よ、と小さく言った。妹の無事を目にした瞬間、気が抜けてしまうほどの安堵に襲われて、口を開くのもおっくうなほどだ。
「──姉さん? 姉さんね、その声、すぐに分かる!」
 アスナは朗らかな声を挙げてするりと窓際の椅子から降りた。自室の中は既に未知の世界ではないらしく、歩いてこようとする。
 姉の身体を一瞬でも早く確かめようと伸ばされてきた手の先にエミリアは指を添わせ、絡めて引き寄せた。妹の身体はまだ少女の入り口にある年齢のままに小さく、すっぽりとエミリアの両腕の中へ収まってしまう。この小さな宝石の愛しさにエミリアは破顔し、きつく妹を抱きしめた。腕の中にある身体の温度と質量が、やっと確かな実感に変わる。
「アスナ、アスナ……会いたかったわ」
 エミリアはうわごとのように口走り、何度か再会の軽いキスを頬に交わしあってから長い溜息になった。一つが無事に解決すれば、更に一つが浮いてくる。不安というのは大抵一つの根に連なっていて、全てが消えるという確信に至るまでには一つ一つを丁寧に潰していかなくてはならなかった。
 エミリアは僅かに呼吸を飲み込み、重大なことだと悟られないようなさりげない声音を作り出した。
「ねぇ、何か最近おかしな事はなかった?」
「おかしな? ……例えばどんなこと、姉さん?」
「あぁ、いえ……いいのよ、気にしないで──ちょっと見ない間に大人びた感じがしたからびっくりしただけ」
 妹の反応が余りに無邪気で、エミリアはやっと自分の暗い想像を振り切ろうと決意する。この小鳩のような妹が不幸になることを想像するよりは、幸福に微笑んでいる姿を思い描くことの方が重大で重要で、大切なことだ。叔父さんの所へ帰るわよ、とエミリアは努めて明るく口にして、簡単に荷物をまとめて外へ出た。
 ザクリアのような大都市とは違って流しの馬車などはほとんど無い。二人で田舎道を歩いている途中で捕まえた農馬車に便乗出来たのは運が良かったほうであろう。
 アスナは刈り取った牧草に夏の匂いがすると身を投げて笑っている。朗らかな笑い声が耳に響くたびに少しづつ、エミリアの不安や恐怖を埋めていくようだ。可愛い子。エミリアは草の束に頬を押しつけている妹を見やる。
 草の匂い、風の音、小鳥の声、太陽の熱。視覚を失ってしまった代わりにアスナは全てを肌と心の感触で捉えている。悲壮でもなく、自棄ばちな明るさでもない。これがこの子の芯なのだとエミリアは不意に妹を頬ずりしてやりたくなる。両親がいなくなってからは唯一残された最も濃い血の相手であったし、何よりも幼く守るべき者なのだ。
 叔父夫婦の家に着いたのは夕方近くになってからだった。馬車を降りてから少し歩いたが、しっかりと手を繋いでいるせいなのか、アスナの足取りにあまり不安はない。最近の寄宿舎での生活や、習いだした点字のタイプのことなどを嬉しそうに語っている。
 やはりあの少年の口にしたのは単なる恐喝なのだとエミリアは次第に心がぬるく解けていくのを感じてそっと笑った。黄昏に埋没する農園はいつもの色で、何も変わらない光景を見る度にほっと長い溜息になる。忘れようと努めても、一度刷り込まれた恐怖を捨ててしまうことは難しい。それが検証によって少しづつ安堵にすり替わっていっても同じだ。
 姉さん、と妹が強くエミリアの手を握った。どうしたの、と優しい声を出すと、見えないはずの黒々した瞳をまっすぐに向け、アスナは微かに憂えたような表情で言った。
「姉さん、何だか怖いことがあったのね? 震えてるもの、ずっと」
 エミリアは一瞬返答が出来ない。真夏のぬるい残照の中でアスナの手を強く握りしめて震えていたとするなら、やはり怯えているのだろう。失いたくないのだ。全てを。
「大丈夫。アスナと一緒にいれば、きっと落ち着くからね」
 返答は下手に誤魔化さない。肌で触感を読むごとく、アスナは気配に敏感な娘だった。光を失うまでもその傾向はあったが、それは更に強まっている。妹はそれに直接答えず、そっと笑った。遠くから自分たちを見つけたらしい叔母の驚きと歓喜の声が呼んでいる。それに何の暗さも感じない。エミリアはまた同じような溜息になって手を振り返した。
 久しぶりの養家は記憶の通りの野暮ったくて温かな色味をしている。手縫の壁掛けも毛布のつぎも、そこに溢れるように縫い込められている住人の愛情が真冬の雪のようにじんわりと重たい。けれど、それに埋もれてやっと暖まるような心地もあるのだ。
 エミリアの帰郷は予定よりも半月早く、これは相当突然といって良かった。どうしたのだと苦笑する叔父たちにも、アスナと同じく日常の明るさはあっても恐怖の影は見つけられない。3ヶ月ほど前に帰省した時の空気と同じものをふんだんに与えられて、ようやく神経ごと弛緩していくようだった。
 夕食が終わると妹を連れてエミリアは二人の部屋へ引き取った。昼下がりの埃っぽい道を歩いてアスナも疲れているようだったし、エミリアも船を降りてからは強行軍であったといってよい。
 一刻も早く妹の無事を確かめたかったし、叔父夫婦の息災を見たかったのだ。
 アスナはついてすぐに自分で整理した棚を開けて、手探りで寝着を取り出している。着ていた木綿の服をぱっと勢いよく脱ぎ捨てているのはやはり、自分に対する目の意識の薄さなのだろう。見られている、ということに対して無頓着なのだ。
 寝着をもそもそと着ている仕草はたどたどしい以外の何でもないが、手伝ってはいけないと言われている。身辺のことは自分で一通り出来るようにするのが自活の最初だと盲学校で教えているようだ。
 だから手を貸さずにエミリアはじっと待っている。釦の数を丁寧に数え、指がゆっくりと着替えを仕上げていく。次第に子供から大人へ渡り始める身体はどこも淡く薄い、女の匂いがする。未完成で危うい身体の線が、この一瞬しかない美しさをもっている。それは殻を破ろうとする直前の息吹だ。
 見る度に妹の身体がゆっくりと、しかし確実に子供時代の次の季節へと歩んでいくのが分かった。それに比して笑顔は昔の通り、屈託なく明るい。子供のままのような、無垢の永遠を垣間見る気がする。
 けれど、その身体のように妹が子供のままだとは思ったことがなかった。他人には無邪気で明るく、やや年齢にしては幼く思われるほど素直に大人しくやわやわしい少女であったが、真実子供であれば言うはずの他愛ない我が儘も癇癪も持っていない。何かを無理矢理主張して誰かを困惑させたりすることがないのだ。
 ──優しい子。エミリアはやっと全ての釦をかけ終えて、一番下から順にきちんと止められているかを確かめている妹を見ながら思う。
 優しくて、傷つきやすく、そして強い。両親の死、自身の盲。そんな境遇の中にあってもアスナはいつもエミリアを支え、励まし続けた。辛くないなどとは思わない。アスナの強さは何事にも動じない鉄ではなく、しなやかに風にそよぐ若木のそれだからだ。
 不意に愛おしさの波が零れてきて、エミリアはそっと目元を拭う。妹と自分と、支え合って生きていきたい。可愛い子。優しい子。私の希望。エミリアは口の中で呟いた。ふと意識のそこを何かがかすめようとするのを無理に押し殺し、着替え終わって寝台に座る妹の隣へ腰を下ろす。
「……綺麗な髪ね、アスナ。やっぱり長いのが似合うわ」
 言いながらエミリアは櫛で丁寧に妹の髪を梳いてやる。これは久しぶりにあった時の姉妹の心を近くする儀式のようなものであった。流れるような黒髪は艶やかでどっしりした重みがある。量が多いが美しい髪だ。妹の身を整える閉じた幸福を噛みしめていると、不意にアスナが姉さんと言った。
「──ねぇ、前の手紙にあった男の子は元気?」
 ふっと瞬間、手が止まった。胸の深いところが一瞬で射抜かれて、僅かな時間呼吸も出来ない。
 エミリアはそうね、とあやふやな事を返答し、もう寝なさいと強く言った。寝台に入れてからそう立たない内に妹が寝付いてしまうと、エミリアはほっと溜息になって自分も寝台へもぐりこんだ。船の中の揺らぎがなくて、真実自分は戻ってきたのだと思う。
 目を閉じると真っ先にクインのことが浮かんだ。
 ──クイン。見捨ててしまったという罪の意識や哀れだと思う胸の作用よりも早く、彼の表情が豊かにあふれ出してくる。
 苛立つ頬の線、癇性に歪めた唇。そんな翳りばかりの面差しが、いつしか素直に明るく変化していったのをみたのは、奇跡か幻のような出来事であったはずだ。
 船の中でみたのはいとけなく縋りつく、切羽詰まった依存であった。怒り、笑い、不機嫌になり、毒づき、そして強く禍々しい言葉に自ら傷つくような顔。沢山の彼を見たはずなのに、最後に他のもの全てを消し去って浮かんでくるのは、ミシュアの浜で別れた時の幸福そうな笑顔だ。
 心の温度のままに全てを全身から発散する彼の、あれが最も力ある表情だった。あの瞬間に自分たちの間に秘密も打算も形式もなく、ただ惹かれるままに相手を見つめていればそれで良かった。そのはずなのに。
 エミリアは毛布を頭まで引き上げ、中で丸くなった。涙がたぎるように溢れてくる。ここに至って初めて、ミシュアの浜で膝を折った時から自分は茫然としていたのだとやっと思う。
 結局のところ、自分は何に負けたのだろう。
 クインのことは愛しかった。彼が自分のためにそこにいてくれと言うのなら、彼の繊細な神経を宥める鎮静剤だったとしても意味があると思った。彼の心はひどく荒くて激しい波だが、その根底にあるのは絶望的な寂しさだった。
 だから可哀想に思った、それが間違っているはずはない。男として愛していたかという問いには今でも答えがないが、それも仕方がない。憐憫は決して恋ではないが、それも人への真摯な祈りならば、愛と呼べる種類でないか。
 手放してしまった希少な宝石。彼はその硬質な心でもって自ら傷ついていく。それを自分に止めることが出来るなら、それに準じる巫女でもいいと確かに思った。女というものは殆どが絶望的に美しいものが好きで、それは馬鹿馬鹿しいことではあるが仕方がない。圧倒的なものの前にひれ伏すならば、愚かしさでもってしか出来ないからだ。
 彼は美しかった。表面に浮かぶ外殻ではなく、胸の奥津城に誰にも触れさせない頑とした純粋を飼っている。それを自分でどうしていいのか分からずに、秘密を分かち合う相手を必死で捜そうとして遂に見つけられない悲哀が彼をどうしようもなく打ちのめしていたのだ。
 エミリアはこぼれる涙を枕に押しつけながら深く頷いた。彼の背中に翼を描いたのが何故だったのか、ようやく解答が見つかった気がした。それはきっと彼が最も欲しているものだから。力強く羽ばたいて地上より少しでも高く、天へ近付いていきたい、そしてそれが出来ないことに絶望しつつあった天使。
 ──それを捨ててしまった。自分の手で。一度は彼は翼を見つけたはずだ。そんな表情を知っている。
 彼はどうしただろう。あの少年は彼の、おそらくは友人なのだろう。名前は遂にその唇から零れなかったが、彼の口から陽気な友人の話は聞いたことがある。それに任せていいのだという声が自分の中からすることを許せない。彼への罪悪感と自分への絶望が、家族の無事を確認し、確信してから湧いてくる。
 それが自分で本当に卑怯だと思う。あんなに心細く不安な声で自分を呼んで、どうしていいのかも分からないまま身を寄せてきた獣のような彼を見捨てて、全てに目を瞑り耳を塞いで逃げてきたのだ。
 心の底から彼を哀れだと思う、張り裂けそうなほど悲しいと思う。けれど、それを救うために自分の根底を構成するこの家の温かな色をした全てを差し出せと言われたら、それは出来なかった。出来ないならば、これは全てを賭けて狂っていくような恋ではなかったのだ。
 そう呟く側から言い訳のようだという自嘲が湧いてきて、エミリアはきつく歯を食いしばる。少年がエミリアに彼を不幸にはしないと言った言葉を鵜呑みにする気はなかった。第一、それは自分とは関係がない。気休めにもならないのだ。
 クイン、とエミリアは小さく名を呼んだ。もしあの時全てが順調に流れていたならば、今頃は彼と身体を寄せ合い名前を呼び合っていたかもしれないのだという新しい推測は、思った以上に胸を刺した。痛い。彼は今、どうしているだろう。
 その資格は既に無いとしても、案じているのは本当だ。あれが恋でなくても、愛の種類ではあったから。思えば全てが幻の儚さであった気がした。夏の海にくゆる、蜃気楼のような。
 違う、とエミリアは反射的に強く思った。全ては自分の目と、心が真実だと思うのがうつつであり、幻だと思うものが夢だ。醒めて消える夢にはしない。誰がどんな思惑を持っていたかも関係ない。エミリアの中にある、一番の彼が全てで現実だ。
 現実、と呟く。あれが幻でなかったことを証明するために、うつつの夢であったことを残しておくために、この胸の後悔と彼への追憶のために、差し出せなかった自分の全てを賭けるとするなら、方法はたった一つだ。
 ──描きたい。
 自分の身体のそこから力強く浮いてきた言葉に深く頷き、エミリアはゆっくりと身体を起こす。妹を起こさないようにそっと寝台を抜けてショールを羽織ると、静かに家の外へ出た。葡萄畑は月夜に照らされて、青緑色の海のように葉がうねっている。
 その中をエミリアは足早に作業小屋へと向かった。作業小屋の屋根裏は昔からエミリアの絵のための部屋になっている。専用の部屋を増築してもらう事が出来なかった代わり、エミリアが好きなだけ一人で絵を描けるようにと叔父が作ってくれたのだ。
 屋根裏へあがるとそこは昔のままの世界であった。賞を取ることも、芸術院へ進むことも、絵を売って生活することも、全く思いもせずに自分のためにただ描いていた頃の気配がまだ残っているようだ。
 描きかけてそのままになっている何冊もの画帳、何を描くか迷って手をつけていない木綿の画布はやや日向焼けしているが、構わずにエミリアはそれを作業台へ立てかけた。
 ──描きたい。
 胸の奥から衝動が、それだけを囁いている。
 床に落ちていた炭は写生用の柔らかいものではなく、おそらく子供の頃に母屋の備蓄庫から拾ってきたものだ。それをも愛しいとエミリアは微笑み、画布と真向かった。
 ──彼を描きたい。いいえ、描かなくては。
 更地のような何もない画布に、たちまちクインの沢山の表情が零れてくるようだ。これまでに見た綺羅綺羅しいものではなく、人形のような魂のない端正さではなく、たった一つ、描きたいと心から思う表情が出るまで、じっとエミリアは画布を睨み据えて待っている。
 ──描きたい。
 ここへ戻るのは自分の持っている業なのだろう。それをなじって離れていった恋人もいた。全てのことを絵のための土台であると言われて悲しかった。けれど、それは今的中ではなくても何かの真実を含んでいるかも知れないとそう思う。
 描きたい。クインという奇跡を描き留めておきたい。そうしなくてはいけない。全てがエミリアの中で昇華されていくのなら、通り過ぎていった恋愛でさえなかった交感を形に残し現実だったと振り返るよすがとなるのはやはりこれしかない。
 自分自身の中から溢れてくる、この衝動と情熱の帰結しかないのだ。
 描きたい、とエミリアは強く画布を睨んだ。
 彼を描きたい。美しさで周囲に君臨する王ではなく、ただ寂しさと怒りと、それでも希望を手に入れようとするあの目を持った少年としての彼をとどめておきたい。
 自分でも意識せずに最初の一線が出た。何も描かれていなかった処女雪の上に足をつけた僅かな罪悪感が手を止め、やがてそれは突き進み、滑り出す。
 彼を描きたい。今、描きたい。
 ひたすら突き上げてくる衝動がエミリアの手を自動筆記のような勢いで動かしている。ザクリアのアパートにある美しい幻想画とは違う絵になるだろう。この高揚感をしばらく味わっていなかった気さえする。
 売り絵は否定しないしそれで食べていこうとしているのも事実だが、他人が求める自分の絵はいつの間にか幾重にも張り巡らされていた自分らしい優しさという枠の中であった。慣れた技法と慣れた愛に、僅かに疑問を持ったことはなかったろうか。エミリアの持つ魂の複製品のような絵を沢山描いてきた気がする。
 ──描きたい。
 エミリアは自分の手が勝手に彼の姿を描き出していくのを見つめながら、深く頷いた。これは彼だ。誰がどう言っても、私の中の彼だ。技術でもなく、色彩の綾でもなく、彼の魂をこの一枚に塗り込めておきたい。その為だけに描く、自分のための絵。
 描きたい、とエミリアは呟いた。途端に何かが決定的に弾けたらしく、一度は止まっていた涙が溢れてくる。それを空いた手で払いのけながら、エミリアは忙しく手を動かした。
 描きたい。全ての決算に、自分と彼が僅かにでも同じ地平に存在した証拠に、今描きたい。この絵を最後に情熱全てを燃やし尽くしても構わない。
 これが描くということで、これが想うということだ。
 絵のために生きているのだという非難はあるいは正しいかも知れない。けれど、それがどうしたっていうの。それが生きていくということなのよ──私にとって。
 クインのことがこの絵の代償であったということではないのだ。全ての魂への打擲があるからこそ、それを糧に出来るのだから。
 エミリアは夢中で描き続けた。この絵を彼に見せてあげられるかは分からない。けれど、描くことで彼への祈りを形残すことが出来る。
 その為に描くのだ。愛も、祈りも、形にならないものだからこそ、胸の中にあった証明と追憶のために。
「天使」
 エミリアは呟く。
「天使にするわ──夜明けに空を見る希望を」
 これがエミリアにとっての彼と過ごした夏、奇跡のような短い季節の決算であった。
 ──これは後に、『暁の天使』として展覧会で最高の評価を得、また画家エミリア=スコルフィーグの劇的な質的転換を示す一枚として扱われるようになるが、それはまた別の話である。