第4章 夏、紺青の海へ 17

 ゆっくり目を開けると、視界は白く濁っていた。瞬きをすると涙がこぼれていく。おかしい、何が悲しくて泣いているんだろう。それが分からなくて更に瞼を動かしていると、次第に世界が形を表してくるようであった。目線をあげるとよく知った木の節の模様、窓硝子の気泡。光は斜めにたっぷり差し込んで、寝台の端と床に日向の匂いを振りまいている。
 吐息を漏らして起きあがろうと右手を寝台に支えると、途端に腕がひきつるような激痛がはしり、思わず呻いて身体を倒れこんだ。まるで右腕に力が入らない。手の指が一斉に痙攣し始めて、自分でもどうしていいのか分からなかった。枕に頬を押しつけて次々に浮いてくる脂汗を拭っていると、軽く駆け寄ってくる足音がした。次の瞬間、ぴたりと冷たい感触が額に押しつけられて心地よさに僅かに喘ぐような声が出る。
「右腕は痛めているから、あんまり使うなよ」
 聞き慣れた明るい声に振り仰ぐと、チアロが柔らかに笑いながら自分に濡らした布を押し当てているのだった。ああ、という、喘ぎとも吐息ともつかない声がこぼれた。
 チアロがクインの額に濡布を押しつけ、肩を抱くようにして体勢を直す。起きるか、と聞かれて頷くと、寝台にもたれるように身体をあげてくれた。
「起きたな、クイン。……今、食べるものを持ってきてやるから」
 クインはぼんやりしたまま頷いた。全身が気怠く、ぎしぎしと軋んでいる。ばらばらにされたのを無理矢理繋ぎ直したように、関節が重くてなかなか動かすことが出来ない。ちらりと右腕を見るとこれでもかというように包帯が巻かれており、添え木までがあった。それを見た途端、強い湿布薬の臭いがした。
 クインはそれをじっと見つめて首を傾げた。記憶が不鮮明で、どこからが夢で現実なのか、まるで分からない。一体何故こんなことになっているのかも。左手でそっと右腕の包帯を撫でようとすると、左の小指と薬指にも包帯があった。こちらは固めてあるらしく、ぴくりとも動かせない。
 クインはぽかんとする。現実味のない世界に突然迷い込んだようで、どう反応していいのかも分からなかった。厨房からチアロが戻ってきて、寝台の隣に椅子を引きずり腰を下ろす。甘い匂いがした。
「蜜桃の甘煮だよ。昨日買っておいたんだ、お前、食べたいっていったろ?」
 クインは目をしばたき、そう、と小さくいった。その記憶は完全に抜け落ちていて、チアロがそう言うならということでしかない。クインの反応でそれをチアロも悟ったらしく、何だよと苦笑して皿の中の刻まれた果肉を匙ですくった。
「ほら、口開けて……遠慮すんなよ、その指じゃ匙を持つのもすぐには無理だから」
 どうやら右手は力が入らないし、左手は動かせない指がある。それを悟ってクインはおとなしく唇をあけた。匙のひんやりした感触が割り込んできて、舌先にあたる。舌の上を転がって落ちていく桃のざらっとした表面が気持ち悪い。クインが顔をしかめているのにも構わず、チアロは定期的にせっせと桃を口に運んでくる。どうやら自分は長く眠っていたのだろうと思ったのはこの時だった。皿の中をあらかた嚥下し終えてから、クインは腕なんだけど、と言った。チアロは頷き、完治まであと3週間、と告げた。
「筋をひねって傷めただけだから、使わないようにその期間吊っておけば大丈夫だってさ。あ、それと左手の指は骨がぱっきり折れてるけど、無理しなければちゃんとつくって。あと、肋骨が何本かいっちゃってるからしばらくの間、仕事は休み」
 クインは頷いた。全てがもやのかかったような断片的な記憶ばかりで、何一つ系統立てて思い出せない。ただ、夏の美しい幻影を見た気がする。眩しくて綺羅しい、紺青の海の幻を。
 海が……と言いかけると、チアロがごめんよ、と素早く遮った。
「俺が一緒に帰れば良かったな。お前にあんな馬鹿なことを言わせなかったのに……」
 クインはじっとチアロを見つめた。友人は昼下がりの明るい空気の中で柔らかに、どこか哀しそうに笑っている。馬鹿なこと、と復唱するとチアロはリァンのことだよと苦く笑い、クインの額にはりついている髪を丁寧により分けた。
「リァンのことは、俺にはいいんだよ。お前がそう思っててくれたのをディーから聞いたけど、嬉しかった。ありがとう」
 クインの身体に負担をかけないように配慮された抱擁が、温かだった。クインはじっとそれを受け止めながら、自分の脳裏を検証する。チアロの言葉にも、肯けるような気がしたが決定的な確信がない。全てはぼやけた曖昧な世界にあって、何もかも現実味がない。クインの反応がどうやっても薄いことに気付いたらしく、チアロはやや置いて寝台の脇から大きめの何かを取り上げた。
「あ……」
 クインは喘いだ。それを目にした瞬間に、薄い皮膜が破れたように全てのことが次々に溢れ出てくる。
 エミリア、暖かな色をした優しい絵の人。一度は澄んだ視界が見る間にぼやけてくる。自分は泣いているのだ。出会いの夜に目を見張った彼女から一息に、最後に見たミシュアの海での微笑みまでを駆け上がる。
「これ、彼女から預かったんだよ。お前に渡してくれって言われた」
 チアロがエミリアの画帳をクインの膝におき、口を綴じていた紐をほどいた。クインは頷いた。夢ではなかった。あの心穏やかで楽しかった日々は幻でも空想でもなく、最後に身に残った傷と共に確実に刻まれている。エミル、とクインは呟いた。俯くと涙が落ちて画帳の表紙にこぼれた。それをチアロの指がこそげとる。ごめん、とチアロの声が聞こえた。
「……こんな風にはしたくなかったのに、お前にもライアンにも、一つもいいことしてやれなかったな」
 チアロの声音には深い悔恨が滲んでいる。お前のせいじゃないよ、とクインは言った。誰のせいだということには意味がなかった。ライアンの仕打ちに憤っていても、それが自分の癇癪で利己的な欲求だということくらいは知っていた。けれど、それを押してでもライアンには自分を見て欲しいと思い、願いが叶わないと焦れて自棄になったのだ。
 エミリアに出会ったのは、そんなときだった。乾いた砂に吸い込まれていくように、エミリアの全てが胸に通っていった。誰でも良かったのだろうかという疑問は、さらさらと目の前を通り過ぎてしまった。自分に希望という言葉を教えてくれたのは、彼女であったはずだから。
 いいんだ、とクインは繰り返した。チアロが切なく笑ってごめんよと呟いた。クインは首を振り、そっと画帳の表紙をめくった。一人にしてくれるつもりなのだろう、ゆっくり休めと言い残してチアロが席を立っていく。それを視界の端で確認しながらクインは目を落とした。
 練炭の強く淡い濃淡で描かれた世界は、良く知った温もりのままにあった。最初の一枚には近所で遊ぶ石蹴りの子供がある。
 ──私とうとう見つけたわ あの人は私の運命の人──
 耳の奥に明るい恋の歌が蘇る。エミリアのアパートから覗いた日常の写生だ。日だまりの猫に逃げてしまったという注釈、蝶の展翅。側に走り書きの文字が日付と場所を教えている。
 自分もいる。最初の一枚は背中だけで表情さえないのに、尖りきって折れそうなナイフのようだ。ひどく苛立ち、暗く出口のない怒りで気が狂いそうだったのだと今なら思える。エミリアの部屋での写生もやはり背中が多い。けれど、何かが劇的に変化したのが背中だけでも分かる。自分の肩や俯く首筋から暗い翳りが消えている。
 これが彼女の力だった。いつでもクインを許し、優しく笑ってくれた。大丈夫よと囁いてくれた。自分が彼女の優しさに甘えつけ込んでずるずると居着くのを、黙って受け入れてくれたのだ。
 エミル、とクインは呟いた。居心地が良かった、甘えていた。自分の背負うもの全てを投げて彼女に縋り付こうとしたのだ。そしてそれをエミリアは受け入れようとしてくれた。船の中で手を繋いで眠った記憶、ミシュアの砂浜で約束のために抱きしめた身体。肌の熱。平凡な女の平凡な優しさでも良かった、彼女が自分を抱きしめて、大丈夫よと言ってくれればそれだけで良かったのだ。
 クインはこぼれる涙を左手の甲で拭った。胸にあるのは引き裂かれたという痛みでもなければ世界への煮えたぎるような怒りでもなかった。
 ──淋しい。ただ、淋しい。たまらない。
 寂寞とした大地に一人で立っているようだ。ほんの僅か先に潤う泉が見えていた気がしたのに、それは蜃気楼だったのだろう。真夏の光線と紺青の海に抱かれて一度は取り戻せると思った自分の中の平均律が霞み、消えていく。
 次の頁をめくると、項垂れる自分の背に翼が描かれていた。これが希望の形なのだ。俯きながらも前へ行きなさいとエミリアの声が耳元で謳っている気がする。
 行きなさい。前へ未来へ進んで行きなさい。
 今はまだ小さいけれど、いつか広げて飛ぶことが出来るわ。
 エミリア、とクインは喘いだ。目を閉じると涙がぼたぼたと紙に零れる音がした。上掛けの端でそれを吸い、クインは自分の背にあるとエミリアが言った翼を見つめた。彼女の瞳にこれが見えていたなら、いつか自分にも見えるようになりたいと思っていた。いつかエミリアの見る世界を、自分で見たかった。──エミリア、あなたの手の紡ぐ、愛と祈りといたわりに満ち満ちた世界を。
 クインは泣きながら次をめくる。船の中で彼女が描いていた小品がいくつか続き、それは突然現れた。自分だ。はっきりと分かる。笑っている、胸が痛むほど明るく強くまっすぐに、自分が笑っている。沢山の笑顔。いくら描いても足りないと思ったのか、筆致は急いで早い。勢いのある線が自分の満面の笑みを描き留め続けている。日付はミシュアで別れた日だ。砂浜でこれを描いたのだろう。
 エミル、とクインは呻いて画帳を閉じた。正視は難しかった。何を失ってしまったのか、はっきり分かったのだ。エミリアは確かにクインの希望かそれに近いものだった。彼女は全身全霊を籠めて自分への慈悲を描いてくれた。これほどまっすぐで堂々とした視線を、何の含みや翳りもない笑顔を、クインは鏡の中にさえ見つけることが出来なかった。それを簡単にエミリアは掴みだし、紙の上に広げて見せてくれている。
 大丈夫よ。エミリアの優しい声がした気がして、クインはゆっくり身体を寝台へ横たえて画帳を抱き寄せた。彼女の代わりにこれを抱いて眠りたかった。暖かさは同じだ。そう信じればかなう。大丈夫よ、大丈夫よ……エミリアの声が遠く歌っている。彼女の世界を抱いて、クインはゆるやかに微睡みへ漕ぎ出した。
 目が醒めたのは夕方近い時間だった。差し込む日が赤い。気付くとチアロが出し放しにしていった椅子で、ライアンが画帳をめくっていた。身じろぎするとクインが起きたのを分かったのだろう、画帳を閉じて足下へ置く。
 クインはじっとライアンを見つめた。ライアンも同じように自分を見つめ返してくる。彼とこうして視線を意味無くかわすのは本当に久しぶりだと思った時、声が聞こえた。
「済まなかった」
 うん、とクインは長い吐息と共に言った。チアロは言わなかったが、自分の怪我は殆どをライアンの暴力がつけたものなのだろう。それをさせたのは自分だ。あの瞬間瞬間のことを時系列立てて思い出すことは出来そうにないが、ライアンの傷だと知っていてリァンの名を持ち出し、そこに爪を立てたのは自分なのだ。
「あと二十日もすれば右腕の包帯は取れるはずだ、医者がそう言っていた」
「うん」
「足はひねっただけだから、もう大丈夫だとも」
「ああ、うん……」
「……済まなかった」
 ライアンの声が呻くように言った。そこに籠もった深い慚愧にクインはもう一度、うんと返事をした。ライアンが自分の額を指でなぞり、頬に触れる。傷は残らない、と言われてクインは目をしばたき、そういえば自分で左の頬をひっかき下ろしたことを思い出した。
 クインはそれにも頷き、ライアンの置いた画帳へ視線をやった。泣いた痕跡も残っているだろう絵を見られるのはひどく恥ずかしく、そして居たたまれなかった。自分が何をエミリアに求めていたかまでを見透かされそうだ。
「あの女の絵だな」
 ライアンの言葉には抑揚がない。これはいつものことだったが、急に不安がこみ上げてきてクインは左腕を伸ばし、ライアンの服の裾をつまんだ。握りしめたかったが、無事な三本の指ではそうするしかできなかった。
「彼女には手を出さないで……お願いだから」
 必死の思いで口にした言葉に、至極あっさりとライアンは頷いた。その反応の早さが却って不安を呼んでいることに気付いたらしく、大丈夫だと付け加える。
「俺はチアロに任せた。だからあとは奴に言え」
 クインは頷いた。チアロに一任した時からライアンはエミリアのことを手にかける気はなかったのだろう。むしろ、その気がないからチアロに任せたということも言えるはずだ。チェインでは特に頭目の面目が重要視されている。エミリアのことを知りながらライアンが彼女を放免したならば甘いと言われる種類であろう。チアロならば、まだ目立たない。ありがとう、とクインは呟いた。ライアンは頷き、それと、と続けた。
「オルヴィはお前の身辺から外す。お前とは本当に駄目だな、まるで合わない」
 そんなことを今更気付いたのかとクインは呆れかえる。ライアンは溜息になった。
「別に俺の愛人だからという理由でお前に添わせていたんじゃない。だが、どうやら無理のようだ。今後はチアロのところの子供が来る。オルヴィがしていた仕事はディーに割り振る。ディーの方がまだましだろう、お前にとってはな」
 クインは曖昧に頷いた。どちらがより嫌いかということになれば、確かにディーの方がオルヴィよりも数段はましだったのだ。クインが頷いたのを見て、ライアンはそれと、と付け加えた。
「それと、ディーに礼を言っておけ。奴が止めなければ俺はお前を殺していたはずだ」
 それにもクインは頷いた。記憶のどこかで殺す気ですかと怒鳴っている声を知っている。あれはディーだったのだろう。彼がライアンを止めたのは自分へのいたわりなどではなく、基本的にはライアンがその意志で庇護していることを急激な怒りのために破綻させることをためらったせいだ。それがすらすら理解できるが、助けられたのは事実であるらしい。分かった、とクインは小さく言って目を閉じた。
 ディーの思惑を指摘して毒づく気力は既にどこにも見あたらなかった。すっかり何もかもが燃え落ちて、残っているのは温かな記憶の気配だけだ。全てを失って茫然としている。ここにあるのは脱け殻のようなものなのだ。エミリアが去り、再び世界は薄暮へ落ち込もうとしている。彼女の希望という言葉がなければ、既にくず折れていたかもしれない。
 エミル、とクインは呟いた。その瞬間に、瞳が潤み出す。その熱さに耐えられず瞬きをすると、涙がこぼれて頬をかすめていった。むず痒い感触を嫌って枕に頬を押しつけていると、それを大きな手がゆっくりと撫で取っていくのが分かった。
 クインは目を開けてライアンを見る。自分を見やる彼は自分と同じ程度に傷ついたような表情をしていた。クインをこうして寝台に送り込んでしまったのは彼自身だった。そのための痛ましさを簡単に表情に見つけることが出来る。クインは混濁した記憶の中に残っているライアンを巻き戻し、あんた、と呟いた。
「笑ってたよね、ライアン……俺を殴りながら、笑ってた」
 ライアンの指が一瞬ぎくりとしたように止まり、そしてややあって再開する。そうらしいなという声にはひどい悔恨の影があって、クインをやや落ち着いた気持ちにさせた。
「多分、お前を殺せるのが嬉しかったんだろう」
 ライアンの返答に、クインは吐息で笑う。
「倒錯してるね」
「本当だな」
 ライアンがゆるく笑うのが聞こえる。それに合わせるようにクインがそっと笑うと、ライアンは涙をぬぐっていた手をクインの髪に置いてゆっくりと撫でた。
「だが、お前が死ななくて良かった──自分でしておいてと思うだろうが、時々自分で歯止めが利かないことがある……済まなかった、殺してしまうところだった……」
 彼の声が吐息のようにかすれて消えた。クインはライアンを見た。年長の男はクインの髪を撫でながらどこかで放心したような表情をしていた。過剰な安堵のためなのか、それともその余韻を引き戻して怖れているのか、いずれにしろクインに手をあげたことを痛みとして覚えている。
 いいよ、とクインは言った。彼を怒らせ挑発したのは自分だったのだ。あの瞬間、殺されてもいいとさえ思っていたはずだ。ライアンがリァンへの追悼に縛られて身動きが取れないことを誰よりも苦く思っているのは本人なのかも知れないと初めて思う。
 けれどそれを責めてしまうのは、ライアンの視線が自分だけでなく、例えば彼に忠実で明るい友人のことも見ようとしないからだ。チアロはいいよと笑っていたが、彼の胸内を思えばただ切なく、哀しかった。
「いいよ、分かってる……あんたには特別はリァンだけで、俺も他の奴も誰もそこに入れる気がないんだ」
 クインの言葉にライアンは苦く笑い、長い溜息をついた。
「……リァンの替わりはいない。誰であっても。お前に何を言われても、それを譲る気はない……彼を信じているし、信じることを信仰と呼ぶなら彼は俺の神だ──死んでしまった今でも」
 僅かに何かを思いだしたのか、ライアンの目元が痙攣した。目にあるのは未だに癒えないままでじくじくと膿続けている傷であった。クインはそう、とその目の影を見つめながら言った。
「淋しいね」
「そうだな」
 ライアンは少し笑い、けれど、と続けた。
「けれど、今を生きている奴らを厭うていることはない。チアロのことも、お前のこともな……ただ、俺は求められるのに慣れていない……のだと思う。欲することは知っていても、どう受け取っていいのか、分からない」
 クインは頷いた。ライアンはまだ子供と呼べる頃、ろくな記憶さえ残っていない頃に母親に身売りされて厳しい環境を生きてきたと聞いたことがある。最も最初に与えられる無償の愛情は母からの慈雨だ。彼はその経験が殆ど無いのだろう。歯痒いね、と言うと、ライアンはそうかと頷いた。
「そうか、歯痒いか。……そう、なのだろうな多分……けれど、お前が苦しむのは俺にも辛い。どちらが辛いかは良く分かった」
 クインはじっとライアンを見つめる。薄暮で次第に視界の悪くなる世界の中、ライアンは確かに目を伏せてクインを見ていた。
 この視線だった。自分を案じ、心を推し量ろうとする目。ライアンが自分を気にかけているのだという事実に突き当たり、クインは瞬きをした。焦がれるほど欲しかったはずなのに、なだらかに満ち足りた気持ちになっても歓喜とは遠い。エミリアのくれるはずだった安息とは、これは決定的に何かが違うのだ。
 エミリア、と湧いてきた言葉を呟くと、ライアンがあの女か、と低く言った。
「忘れろ。お前が忘れてやることが、あの女のこれからを保つ。二度と会うな」
 クインは返答をせず、肩を震わせた。一度は引き込んだ涙がエミリアの優しさの追憶に触れて再び零れだした。
 エミリア。好きだったのだ。どんな依存であっても甘えであっても、その腕に巻かれて心跳ねるほど嬉しかった。愛かどうかは分からない。恋していたという確信もない。けれど、母親から離れて初めてクインのために胸をさらけて好意を見せてくれた、貴重な時間だった。
 エミルと泣きながら呟いたとき、ライアンがその涙へ唇を寄せた。泣き火照った肌にはそれは一瞬震えるほどに冷たい。やめろ、とクインは唸ってどうにか動く方の腕でライアンを押しのけた。
「やめろ、俺は、もう……」
 ライアンの関心は要らないのだとは言えなかった。けれど、エミリアとのことの埋め合わせだとするなら酷く傷つくとしか思えなかった。ライアンはクインが飲み込んだ部分を察しているのか何も言わずに体を離し、そして置き捨ててあったエミリアの画帳を手にとった。
 足早に部屋の隅にある石の暖炉に立ち寄って中へ放り込む。たまっていた去年の灰が舞った瞬間に、何をしようとしているのかを悟ってクインは喘いだ。やめろと呻いた声が既に潤んでいる。
 ライアンは振り返らずに、腰に吊った煙草入れから火種石を取り出して躊躇わずに火をつけた。クインは自分のかすれた悲鳴を聞いた気がした。エミリアの全てがあっという間に燃えていく。
「忘れろ」
 ふと気付くとライアンがクインの側にいて、震える体をきつすぎないように抱いていた。その腕に縋るようにクインはじっと暖炉を見つめ、喘いで身を折る。ライアンに力の入らない身体を預けたまま、全てが燃え尽きるのを見るように言われて黙って画帳の末期を見つめた。
 エミリアとの全てのことが、今炎の中に消えていく。最初から幻だったように、何もかもが燃えてしまう。涙が出る。
 それを惜しんで泣き叫んでいいのか、それとも理不尽だと声を荒げていいのか、それとも麻痺したように茫然としていることを悲しめばいいのか、まるで分からない中で、クインはひたすら泣きじゃくった。
 黒ずんだ塊が最後にぼろりと崩れるとクインはライアンを押しやり、身体を寝台へゆっくりと戻した。片腕の痛みのためにひどく緩慢な仕草を見かねたのか、ライアンが一度抱き直して横たえる。その優しさに見える仕草が辛くて顔を背けると、ライアンが低く言った。
「忘れろ。全て無かったことだ──いいな」
 クインは首を振ろうとした。
「ライアンは、彼女の代わりに、ならないんだろう? 俺のことはどうでもいいと」
 言いかけた時、ライアンが不意にクインの唇を手で塞ぎ、涙の後へ口づけをした。ぴくりと身体が揺れる。自分が欲しかったものとは何かがずれていることを承知していても、それはひどくよく似た幻影だった。
「忘れろ。無かったことだ。最初から何もなかった。忘れろ、クイン。今から記憶を繋ぎ直せ」
 ライアンは口早に言って、それへの返答を拒否するようにクインの頬の爪痕に唇を落とした。クインは呻いた。息苦しさだと思ったのかライアンが、口を塞いでいた手を離す。それに大仰に呼吸をしていると、ライアンの唇が自分の頬を何度もついばむようにかすめた。
 目線をあげると瞳がかち合った。一瞬戸惑ったようなライアンの目にまっすぐ視線をあてながら、クインは彼の頬に触れて目を閉じる。手でゆっくりと導くと、わずかな躊躇いの時間をおいて、唇が塞がれたのがわかった。娼婦の世界の口づけは、貞操の意味だとライアンから聞いた。それを迷った律儀さがひどくおかしい。
 そしてエミリアと最後までキス一つさえしなかったことに気付き、クインは急にこみ上がってきた何かと、その何かを忘れるために無事な方の手をライアンの首に巻き付けた。ずるずると曖昧になる世界の中で、自分の声は確かに啜り泣き、泣き続けていた。
 それはこの夏を葬るための鎮魂歌であるように耳に響いた。

《夏、紺青の海へ 了》

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