第4章 夏、紺青の海へ 2

 住処にしているアパートが見える角を曲がると、部屋に灯りがついているのが見えた。誰かが来ている。少なくとも、だからライアンがオルヴィと密やかに関係を持つようなことは行われていないのだろう。
 クインは僅かに溜息をついた。安堵したことが自分でひどく屈辱的な気もするし、それでも多少は楽になった恩恵にそのままおぼれてもいい気もする。
 そのどちらに気分を定めるのか思案したまま、クインは自室に辿り着いて扉を開けた。
 入ってすぐにある居間の長椅子にゆったり背を預けていたライアンが、いつもの彼の煙管をくわえたまま、クインに視線を流して頷いた。クインは薄く部屋に漂う煙に眉をひそめ、軽くあごをしゃくった。最近は彼に対して不機嫌な態度を取ることが多い。
 クインの仕草で何を言われているのか悟ったのだろう、ライアンは煙管を灰切りの皿にもたせかけて天窓下の椅子の上に立った。天窓を開ける。
 ゆっくり手で空気を攪拌して煙を追うが、一瞬充満していた臭いだけはそうそう消えそうになかった。
 クインはライアンが降りた窓下の椅子に座った。何故彼がここにいるのかはわかっている気がしていた。あの客からオルヴィへ、そして彼女からライアンへ、連絡が回ったのだろう。
 ひとしきり小言でも言うのだろうかとそれを意地悪く待ちかまえていると、ライアンはクインのそんな表情に気付いたのか、薄く唇だけで笑った。
「お前が自分で自分の客を減らすのは勝手だ、好きにしろ」
 いつものように突き放されて、クインは唇を歪めた。ライアンの興味も関心もまったく引きつけておくことが出来ないのは昔からだが、焦れた思いが沈殿しつつあるこの頃には尚更彼の態度がクインの胸をひっかくようだ。
 ちりちりいう痛みを身体のどこかに聞きながら、クインはそう、と声音だけは素っ気なく返した。ライアンは長椅子の背もたれ越しにクインを見ると苦笑したような吐息になった。
「オルヴィの仕事だけ容赦がないな、そんなにあれが嫌いか」
「チアロ以外はみんな嫌だね」
 そこにライアンを付け加えなかったのは当てつけでもあるし、半分ほどは本気かも知れなかった。ライアンの関心の薄い態度を目にする度に、ひどく苛立つし怒りを覚えるし、そして最後には自分自身の持つものの少なさについて思い知る。
 嫌味に気付いたのかどうか、ライアンの返答はなかった。丁度草が切れたのか、灰切り皿にこつこつと煙管を叩いている。
「何しに来たんだよ。用がないなら帰れば? とってもお忙しいんだからさ」
 クインは極力つまらなそうな声音を作って言った。
 ライアンは曖昧に首を振りながら、腰に下げている煙草入れに手をやっている。中身を変えようとしたところでクインの先ほどの渋い顔を思い出したのかそれをやめたが、代わりに吐き出されてきたのは煙よりも胸に悪い言葉であった。
「悪態がつけるくらいならお元気そうで何よりでございますな」
 自分の嫌味に同じような辛辣が戻ってきてクインはむっと唇を結び、ライアンに聞こえるような舌打ちをした。
 ライアンが振り返り、淡い苦笑のままで長椅子を立って彼の隣あたりの壁に背もたれた。その手がぽんぽんと軽く自分の頭を叩く。
 子供扱いに怒ってクインが首を振ると、ライアンは懐から小さな包みを取り出して彼の手に握らせた。口を縛る朱紐をほどくとそこからクインの爪先ほどある翡翠が転がり出てくる。
「しばらくタリアを離れる。チアロを残していくから大体のことは用足りるはずだが、何かあったら使え」
「しばらく……って、どれくらい」
 さあな、とライアンは返答を濁した。分からない、と付け加えてライアンはまた腰に手をやった。煙草飲みの習性が自然とそうさせるらしい。
 クインはライアンの手を軽く叩いた。煙草の制止である。
 叩かれた手をライアンは軽く振り、溜息になった。
 その指先が手持ち無沙汰に空間を彷徨うのを自分の指を絡めて引き取ろうとすると、ライアンは素っ気なくそれを振り払った。指が離れる一瞬、強かに打ち返してクインは場を離れた。
 居間を挟んで二つの部屋が相対するという簡単な作りの部屋の、片方は寝室でもう片方は書斎として使っている。
 あまり整理整頓というものが得意でないクインの性質を反映して、居間も寝室もそして書斎も乱雑にものが散乱しているが、その書斎の床に放り出したままの生物学の本を拾い、クインは机の前の無炎灯のつまみをひねった。部屋が本を読める程度には明るくなる。
 開け放したままだった扉がこつこつ叩かれて、クインは不機嫌にそちらを見た。ライアンはゆるく苦笑を浮かべていた。
「たまには顔を見に来てやったのに、そんなに不機嫌にならなくてもいいだろう」
「ふぅん、来てやった、んだ? どうせチアロにうるさく言われたんだろ」
 本の字面に目を走らせるようなふりをしながらクインは返答を待ったが、違うという答えは遂に聞かれなかった。
 クインは軽い溜息と共に本を開いたまま、ライアンを斜めににらみ据えた。
「別に、あんたのしけた面なんか見たって嬉しくないね。しばらく出かけるから俺にお小遣いでもやりに来て下さったんでしょ、チェイン王陛下様々。有り難くも勿体なくも恐縮至極に存じ奉ります……で、用事が済んだんだから、帰れば?」
 ライアンは吐息で笑い、クインの背後から彼の開いた本をのぞき込んだ。彼は字を読めないが図版や写真の具合で学術書だということくらいなら分かるのだろう、熱心だなと呟いている。
 微かにそのライアンの呼吸が首に掛かってクインは身をよじった。他人と寝るのに慣れてきた身体が、愛撫ではないのに僅かに反応しようとするのだ。
 その反射にクインはきゅっと唇を噛み、乱暴な仕草で立ち上がった。ライアンを睨みながら、彼を振り向く。
「……帰らないの?」
 読みかけの頁に指を挟み、クインは空いた方の腕を伸ばして指先をライアンの胸に強くつきつけた。夏の薄い綿生地を通して、彼の呼吸と体温が僅かに伝わってくる。
 その瞬間に、自分が彼の身体を欲しているのは確かだった。
 男と寝ることに既に抵抗感はない。自分の身体に道筋をつけたのはライアンだったし、最初の夜が過ぎてもクインが客との行為に慣れていくまでは時折関係を持っていた。
 けれど最近は全く記憶にない。ライアンがタリアの自警のことだけで引き回されていた頃にもあまり会わなかったのだが、最近新しく麻薬の取引筋を一つ手にしたようで、ライアンはそれにかまけて殆ど姿さえ見せない。二人でいることなど、ここしばらくの記憶にまるで見あたらなかった。
 彼に欲情しているのか、それとも単に欲求を解消したいだけなのか、クインは判別しようとしてやめた。
 数少ない記憶の中で、ライアンが彼を抱く時にだけはひどく優しかったように思われて、それにすがりたいのだろう。何かの温かなもの、愛でなくともそれに似たものの熱を感じ取ることが出来たのは、結局この男だけだったから。
 チアロに縋り付こうとした時、友人はそれを丁寧に拒否した。それはチアロの彼を気遣う心根から来るものであったから不愉快ではなかったが、チアロ以外に心を許せるというならば、やはりライアンしかいなかったのだ。
 自分とその身体と、抱えている破裂しそうな胸の中の何か。小綺麗な器と自分でも持て余しかけている中身の熟爛を過ぎようとしている溶液。それ以外に自分に何かがあるのか、確かめたい。何でもいい、誰かから愛されるような何か──自分の価値。
 母マリアの為に生きていかねばならないことは分かっている。それは彼にとって決して苦役ではなかったが、けれど、それだけなのか。
 俺の価値は、今ここにいる身体と心の意味は、それだけの為に在るのだろうか。
 誰かの為にというなら容易い。母の為にと呟くならそれは決して間違いではない。確かに自分はそのために生きている。
 だけど、でも、俺は?
 俺のために何かはあるのだろうか。俺の為に誰かがいるのだろうか。俺を見て、俺を信じて俺を頼る、俺の相手が。
 多分それはライアンではないのだろう。けれど、今この瞬間に、彼しかいない。肌を重ねる感触に擬態させながら心ほどいて誰かに甘える方法を、クインはこれしか知らない。クインは本を挟んでいた指から力を抜いた。本が床に落ちて紙が折れた音がした。
「──帰らないなら、煙草は、いやだよ……」
 彼の胸元へ刺すようにあてた指をしならせてずらし、やがてそっと掌を押し当てると脈が打つのが微かに分かった。クインはライアンの心臓の辺りへ手を這わせながら、彼の目を見ないように自分の指先を見つめた。
 自分の造形美にはクインは一点の曇りもない自負と自信を抱いている。その通りに男にしては華奢な体つきにそぐわう指の細さが頼りなげで、自分でそれに腹が立った。
 クインが僅かに目端を歪めた時、手首が掴まれた。
「お前は、俺からもう一度同じ事を聞きたいか」
 低い声が言った。クインは黙りこくったまま、掴まれた自分の手首あたりにぼんやり目線をやった。
(俺はお前の保護者でも愛人でもない)
 ライアンの声が遠い記憶の底から低い声で呟いている。クインは唇だけでそっと笑い、返答をせずに俯いた。彼の顔を見ることが出来ない。自分の中にあるものを見透かされてしまいそうで怖かった。
 クインの沈黙がじっと時間をやりすごしかけたとき、ライアンの溜息がした。
「既に契約は終了している。俺はお前と寝る気はない」
 その声にクインは反射的に顔を上げた。契約という言葉が凍ったような胸の中に唐突に切り込んできたのだ。冷えた怒りが背を駆け上がってくる。
 クインは手首を掴んでいるライアンの手を乱暴にふりほどき、視線に強い力をこめて睨み据えた。
「……契約? 俺はそんなことを言った覚えなんか無い。あんたが何をどう解釈するのはご勝手だけど、俺は知らないね、そんな約束は」
「約束だと? 俺も知らんな、約束なんてものは。既にお前にやった金額の分は俺は取り戻したと言ってるんだ」
 彼が最初にクインに与えた1万ジル分は使い切ったと言い、ライアンはクインの視線を同じように睨み返した。クインは舌打ちをしてライアンの肩を突き飛ばすようにし、その勢いで自分の方がよろめいて下がった。
「俺はあんたに金を払えって言ったかよ!」
 怒鳴り、クインはかあっとなってきた頭を宥めるために、左のこめかみを指で押さえた。ライアンが溜息をついたのが聞こえた。
「お前の商売はそれだろう。金は要らない? 俺をお前の愛人にするつもりか? それこそそんな話はどこでしたのだと聞きたいが」
 クインは言葉無く顔を歪めた。ライアンの言葉に何かをたたきつけてやりたいが、言質という意味においてはライアンの言うことが事実だ。クインは縋り付こうとし、ライアンはそれを避け続けているのだから、言った言わないの話になると具合が悪い。
 けれど、そんな些細なことではないのだ。
 俺は、と言いかけてクインは呻いた。自分の怒りも苛立ちも、その根底にある飢えて吠える獣のような声も、全てを言葉にすることはとても難しく、どれも的確でないのは分かり切っていた。何を訴えてもライアンの面差しに歪み一つ与えられないことも。
 だからクインはもっと直截なことをした。
 自分が床に落とした本を拾い上げ、それをライアンに叩きつけ、帰れよ、と叫んだ。
「帰れよ──帰れ! 知らない、あんたの顔なんかしばらく見なくたって俺には関係ないんだろう! だったら嫌味だけ言いに来るなんて、あんたも案外暇なんだ?」
 殆ど脈絡など通っていない言葉にライアンが小さく鼻を鳴らしたのが聞こえた。それは冷笑と呼ぶべきものであった。
「そうだな、俺もそんな気がしてきた。お前の癇癪の相手など出来るんだから、俺も思っていたより時間があるらしい」
 クインはライアンにさっと手をあげた。何かの言葉も怒りも、全ては反射的な仕草の方が早かった。
 振り下ろした手はライアンに当たらない。体術ということについてはライアンの方が彼の数段上におり、全く暴力では歯が立たないのだ。
 打ってやろうとした手をするりとよけたライアンが、その手首を素早く掴む。
 その次の瞬間に訳の分からない眩暈がして、世界がぐるりと一周回った。どさりと床に投げ出され、クインは僅かな時間、ぼんやりする。
 つと肩に掛かっていた引きつるような重みが消えて、それですとんと体重が床に完全に落ちた。ライアンがクインの手首をようやく離したのだ。
 横に立つ彼を見上げると、ライアンは軽く首を振った。
「お前は自分で自分の吠える声に苛立っている。俺は巻き込まれたくない。もう充分だ」
 激高するでもなく淡々と呟かれた言葉に、クインはそう、と重い声を出した。
 のろのろ立ち上がって本を拾い、軽くほこりを払うような仕草をしながら呟いた。
「なら、さっさと帰れよ」
 一瞬の間をおいて、ライアンが溜息をついた。お前……と何かを言いかけ、奇妙なところで言葉を句切る。クインも顔を上げ、戸口の方を見やった。確かに扉が開いた音がしたのだ。
 軽い足音がして、部屋の中を覗いたのはオルヴィだった。女としてはやや長身に属するが、やはり女である体の線は明確だ。
 お前か、とライアンが僅かに肩から力を抜いた。オルヴィが彼に簡単な会釈をする。
 クインはふんと頬を歪めて鼻を鳴らし、何だよ、と不機嫌に言った。
「すっぽかしたんだって?」
 オルヴィの声は低めの苛立ちの範囲に属する冷ややかさであった。だから何だよとクインはつまらなそうに促す。オルヴィは不機嫌な声音のまま、淡々と言った。
「私の時だけそんなふざけた真似をするならもう私は仕事をあつらえない。全部チアロにさせればいい。その代わり、私の繋いできた客に対する始末だけは一度つけてもらう」
 謝れ、という意味であろう。クインがなんと噛みついてやろうかと身構えると、ライアンの声が駄目だと入ったのが聞こえた。
「お前とチアロでこれを切り回すように俺は言ったはずだ。俺に無断で勝手はさせない」
「ライアン」
 オルヴィはクインにする時よりはやや温んだ声を出した。クインは不愉快な気分をますます濃くして眉をひそめた。その声に滲んでいる僅かなおもねりを感じ取ったのだ。
「──態度をわきまえろってことさ」
 ライアンが何かを言う前に、クインは素早く割って入った。オルヴィはそう、と簡単に頷いた。
「……伝えておく。今日の客はもう一度あんたをご指名だ。引継はチアロに伝えてある……あんたが今度はすっぽかすかどうか、帰ってくるのが楽しみだな」
 クインはそう、と何気なく話を流したが、そこに含まれている毒はすぐに察知することが出来た。帰ってくるとオルヴィが言うのならば、ライアンがタリアを離れるのに彼女も同行するのだろう。それをわざわざ言葉にしないで提示しているのだ。
 だからクインはオルヴィに向き直り、華々しい笑顔を浮かべて見せた。
「伝える必要なんか無い。俺はあんたに言ったんだよ」
 オルヴィは僅かに眉を上げ、そして頷いた。クインにとっては相変わらず、冷徹な壁しか感じない相手であった。
 軽く彼女を睨むと同じような視線が返ったが、さほど長くは続かなかった。オルヴィはライアンに軽く頭を下げる。それは先ほどの自分の発言についての簡単な謝罪のようだった。
 それが済むと、彼女はクインに迷い無く近づいてきて、一枚の紙切れを差し出した。
「次の仕事だ。最前のご希望通り若い女だから、せいぜい楽めばいい」
 オルヴィの手から紙片をかすめるように奪い取り、クインはその内容にざっと目を通した。女客の時にはいつもの連れ出し用の貸し部屋ではなくタリアの外の宿を使うから、場所は毎回変わった。メモには姉妹ということで部屋の予約が取られていること、使う偽名などが記されている。
 クインは分かったと紙片を机の引き出しにしまいこみ、あごをしゃくった。
「用事が済んだら帰れよ、……二人とも、だ」
 オルヴィが何かを言いかけたのを、ライアンが首を振って制した。彼女の肩を軽く叩いて出ていく背に、クインはよいご旅行を、と怒鳴った。
 オルヴィだけがちらと振り返り、頬で暗く笑った。それは恐らく、クインに対する嘲笑とライアンの一件の勝利の顕示であった。
 クインはぎりっと奥歯をかみ合わせた。オルヴィのこれみよがしな態度は彼の神経をいつでも一番嫌な音の不協和音で逆撫でる。あの女に小馬鹿にされたのだという屈辱感とライアンへの怒りが急速にあがってきて、クインは拳を握りしめた。中で爪が皮膚につきささるようで痛い。
 戸口が閉まる小さな音が聞こえた瞬間、それが悲鳴になってこぼれた。何にどんな怒りをたたきつけていいのかさえ、知り得ない。胸の裂かれそうな苛立ちと痛みと、もの狂おしい怒り。
 それらに翻弄されるようにクインはふらふらと寝室へ歩き、寝台へ身を投げた。
「母さん──助けて……」
 呟く言葉に救いと癒しを求めても、彼の聖母は遠く離れた場所にしかなくて、彼を暖めてくれる魔法とはなりそうになかった。