第4章 夏、紺青の海へ 3

 初夏のまっすぐな日射しがようやく茜にゆるむ頃、クインは夏用の薄いワンピースに着替えて地下水路へ降りた。水路に降りて複雑な迷路をどうにかくぐればタリアの境界門にほど近いアパートへ出ることができる。
 どこへ行っても彼の突出した美貌は人の目を引いたが、タリアの中ではそれが悶着になることが多い。いちいち声を掛けてくる連中の目的は結局は彼の身体であったが、相手をするのも面倒で、最近は尚更他人が疎ましかった。
 ──疎ましい、くせに、ではライアンがタリアから消えるとどこか物足りない。それをライアンの不在ゆえだと結論してしまうには内心の矜持の抵抗は頑迷であった。クインは水路からあがる階段を上りながら舌打ちをする。
 ライアンにこれほどまでにこだわる心根が一体何であるのか、クインは自分でもよく分からない。彼は確かに自分の愛人やら血縁やらではなかったし、そうしたいという欲求は見あたらなかった。
 だが、結局誰かに縋り付こうとする時に真っ先に浮かぶ面差しであることも事実であった。チアロはクインのせっぱ詰まった孤独感をどうにか緩和しようとしているのか、頻繁に食事や娯楽に誘ってくれるが、それとはまた違ったことでもある。
 クインは秀麗な顔を歪め、唇の端で苦く嗤った。ライアンなど言葉を交わしていれば苛立ちだけが蓄積されるのに、いないとなるとオルヴィの同行がやけに気に食わない。それを自分が不服としていることさえ怒りになる。
 ──ただ、ただ、自分が欲しいのは、ライアンの言葉ではなく彼の自分を気遣う心でもなく、ひたすらに焦がれるほどに欲しいのは、欲しいのは……そこまでくれば思考がふいに回転を止める。ライアンから何が欲しいのかさえ、彼への怒りゆえに曖昧に塗りつぶされてしまった絵のように焦点がぼやけている。
 クインは首を軽く振り、地下から上がった床の隠し扉を足でゆっくり閉めた。鏡の中にいる自分に向かって微笑んでみせる。瑕疵なく整った顔がきらめくような美しい少女が嗤った。
 化粧の具合を一度見て、クインは部屋のクロゼットから肩掛けのレースと靴を選んで外へ出た。
 このアパートにはいくつかの事務所が入っていて人の出入りが多い。その一つを架空の名義で借り受けて地下水路に繋いだのは正解だったといつもながらに思う。タリアの中をさほど歩かないうちに地下へ降りることが出来るし、他人の目は今でも微かな警戒心を呼び起こさせ、胸をささくれ荒らすのだ。
 まっすぐに前を見つめて歩き始めると彼に目を留めた人々が足を止め、やがて自然に割れて彼のための行き道を造る。微かな吐息、ぶしつけなほどの視線、そんなものでさえ身に飾るように誇らしげに背を伸ばしてクインはタリアの境界門を出ていく。
 ここなど自分の居場所ではないのだと威嚇するような微笑みが自分の顔に張り付いていることは知っていた。
 境界門を過ぎた辺りでクインは流しの辻馬車を拾い、この日の仕事だと指示された宿へ入った。オルヴィの書いた紙片にあった偽名を告げると宿帳をめくって管理人がああ、と曖昧な声を出した。
「お部屋は一番上にご用意してありますよ……しかし、……ああ、済みませんね、お姉さんとはあまり、その、」
 クインは柔らかく笑ってみせる。どんな時にも自分の美貌には絶対の自負があった。
「姉とは母が違うものですから」
 その場の嘘をさらりと口に乗せ、教えられた階段を上がる。指定の部屋は最上階の全ての面積を使う特別室だが、これはさして珍しいことではない。
 軽く扉を叩くとすぐに中から返答があった。オルヴィが嫌味に吐き捨てていったように確かに声音は若い女のものであった。
 若い女ね、とクインは微かに内心に毒づく。一体、どんな女なんだか。
 彼の一晩の金額は既に800ジルを超している。これから経費やライアンへ渡る一割を差し引くと手元には300と少しが残ることになるが、この先更に揚げ代は高額につり上がっていくだろう。少なくともチアロにはそのつもりがある。経費には客の身元を確かめるための調査料も含まれているから大幅に目減りすることは仕方がない。
 だから今ならまだ高額といっても誰かを破産させるには足りないほどであったが、それにしても男娼を買う若い女、というものがどんな種類であるのかをクインはこの晩とっくり見物するつもりであった。
 どこかの金満家の後妻、それとも亭主が役に立たない人妻、未婚の女だとすると相当好きな女だろうか。何にせよ、それは軽侮と冷笑を連れてくる。
 どうぞ、と扉が開いた瞬間、クインはそれでもその底意地の悪い思考をさっと表情の奥へ押し込んだ。どんな相手だろうと客は客、と今までも刷り込んできた性癖であった。
「──本当に、来てくれたのね? 嬉しいわ、夢みたい……」
 けれど出てきた女は彼の想像していたどんな極悪な色も持っていなかった。
 一瞬虚を突かれたようにクインはぽかんとする。彼女はそれまで彼を買いつけて散々玩んできたどんな男たちや女たちとも何かが違っていた。彼らは一様にどこか暗く歪んだ炎を目に飼っていたし、身から発せられる空気にも重い澱みがあるものなのだ。
 クインを僅かに見上げて大きく瞠みはられた瞳の輝きには純粋な驚きだけが灯っていて、それがひどく女を無邪気に見せている。年齢はなるほど若い。20には届いていないのは確かだろう。
 特別美しいというわけではなかったが、どこかで見たような既視感でクインは少し瞬きをし、それが過ぎた晩に格子の向こうにいた黒髪の遊女の印象であることに気付いた。──確か、リーナと呼ばれていた少女。
 但しそれは見間違えるというほどの酷似ではなかった。どことなく顔立ちから受ける最初の感触が似ているのだ。あのリーナという遊女もそしてこの女も、さして珍しげな特徴ある容貌ではなかったから、単に空似というものであった。
 夢みたい、と女が繰り返して呟いた。クインはその声でようやく現実に立ち戻り、さあね、と小さく呟いた。
「そっちが買っておいて夢も何もあるかよ。──中、入れてよ、いい加減にさ」
 クインの言葉にはっと女は振り返り、ごめんね、と慌てて身体をずらした。彼女に一瞥もくれずクインは部屋の奥へと踏み入れた。
 部屋は流石にこの宿の一番であって、調度も内装も申し分なかった。売春宿とはやはり品格が違う。クインが部屋の中を見回していると扉を閉めた女がいい部屋よね、と明るい声で言った。
 女の声に全く淫蕩さが潜んでいないことにクインは戸惑い、思わずじろりと彼女を睨んだ。
 この女は一体なんだろうという疑問が先ほどから彼の脳裏を巡っている。彼を買った客たちから感じてきた負の威圧がかけらもない。そもそも男娼を買う事自体をしないだろう、よい意味においての、ごく普通の女だ。奇妙な清潔感が彼女の明るい空気を支えている。
 彼のきつい視線に女は怯むでもなく目をしばたいた。彼が何故自分を睨んだのだろうというのさえ理解していない、まったくの素人ぶりにクインは遂に溜息になった。
「……あんたさ、俺を買ったんだよな?」
 女相手の時いつもするように、適当に言葉で相手を気圧したり翻弄したりする気にはなれなかった。この女は恐らく、本当にただの素人で興味本位なのだ。一体どこのお嬢様だと次第に苦くなりながら、クインは彼女に向き直った。
「だったらこっち来いよ。買った分は楽しむ気があるんだろ」
 彼の噂をどこかで聞きつけて面白半分に手を出そうとしたのなら、それはいたく彼の中の自嘲癖と自尊心のかけ混ざった部分を傷つけた。客たちの目的も欲望もクインには失笑の対象だったが、それさえ持たない女が気まぐれに自分を指名したのかと思うと、苛立たしさがまた腹の底にとぐろを巻き始めているのが自分でも分かった。
 欲しくもないくせに物珍しさだけで買うという行為自体が自分を馬鹿にしている。
 相手を蔑むのは自分の役目であって客のものではないのだ。女が扉を開ける前にそこで自分が浮かべていた冷笑をいきなり浴びせられたような汚辱にクインは微かに身震いし、薄く笑った。
「……こっち、来いよ。来いって言ってるのが聞こえないのか?」
 ほとんど脅しあげるような低い声に、女はぴくりと肩をふるわせた。怯えているのだ。
 クインは大声で笑い出したい衝動を耐えながら、ゆっくり余裕を持って獲物に近寄るように足を踏み出した。
 女の肩を掴んで腰に回そうとした手を、女は身をもぎ放すようにしてすり抜け、待って、と掠れた声で呟いた。
「待って、ねぇ、私、こんなつもりじゃ」
「じゃあどんなつもりなんだよ」
 クインは小さく笑いながら耳元へ囁いた。彼の吐息が女の耳朶にやわく絡んで産毛がさわりと逆立つのが見える。彼女の腰に今度こそ手を回して後ろから抱き寄せるようにすると、待ってと二度目を言いながら、女が突然くるりと身をひねった。正面からおもむろに向き合う形になってクインは僅かに身を引く。
 と、左の耳がぐいと引っ張られてクインは慌てて体を離した。
「待って、って言ってるでしょう? どうして言うことを聞けないの!」
 ぴしゃりと言われてクインはきょとんとする。頭ごなしに言われて怒りになるはずのいつもの反射が、どうしてか反応が鈍い。まるで自分が5才の子供に戻ったような気分であった。
「あ、いや……ごめん……」
 ぼんやり口にして、それが謝罪であったことに一瞬後から気付く始末だ。
 彼の言葉に女はうち解けたような笑みを見せた。美女ではなかったが、十分に居心地のよい、明るい笑顔であった。誰かのそんな表情を随分久しぶりに見た気がした。どうにも調子が狂う相手だとクインは苦い顔になる。気を詰めていた表情や身構えていた心根をゆるく解いて、クインは部屋のソファにどさりと身体を投げ出した。
「……あんた、じゃあどんなつもりで俺を買ったんだよ」
 寝る気がないという意味合いであろう女の言葉に落ち着かない気分であった。積み上げてきた経験の全てが投げやりに首を振って、この女は男としての自分に興味がないのだと溜息をついている。
 クインは身支度整えて編み上げてきた髪をほどいた。魔導の効果で黒く輝いている長い髪が、若干の柔らかな癖を残したままこぼれ落ちる。
 それを無造作に片手でかき回していると、女が部屋の隅に屈むのが見えた。少し大きめの布鞄から、貴重品のように取り出した黒い箱の正面に、大きな硝子の球面が見える──写真機だ。
「写真は駄目だよ」
 女が光画紙を入れようとする間際、クインはそれを遮った。それは男女どちらの客でも同じ事であった。客側の手にクインの写真が渡れば、それはどこからどんな形で誰に伝わるか分からない。ただの家族写真や記念品ではないのだ。
 最も皇太子に近いとされているリュース皇子との酷似は、正体や身元の詮索をいつか必ず呼ぶはずであった。その確実な証拠となる写真など、残すことは自暴自棄といってもよいことであった。
 女はえ、と聞き返した。
「……どうして? ──事情があるなら誰にも見せないわ」
「駄目ったら駄目。あんまりしつこいなら写真機、窓から放り投げるよ?」  
 女が写真機を扱う手つきはひどく慎重であった。恐らくそれは彼女のものではないだろうという推測はどうやら正解であるようで、女は一瞬俯いてから頷いた。
「ごめんなさいね、私、こんなこと初めてだからよく分からなくて……」
「あんたが初めてなのは知ってるよ」
 どう考えても男娼を買う類の女でないことも、既に雰囲気が雄弁に語っていた。世間ずれしすぎていないなら学生かも知れない。クインがそんなことを考えていると、女は写真機を鞄に戻す手で、大きめの写生帳を引き出した。
「何だよ」
 クインは立ち上がり、彼女の手元をのぞき込んだ。新しい頁を探すように女がぱらぱらとめくる紙には練炭色で何かが描かれている。それは花だったり人だったりごくたまに猫や犬だったりしたが、総じて淡い圧力で描かれた美しい絵だった。
「絵は? 写真は駄目でも、絵ならいいでしょう? ね?」
 そんな事を言いながら、写生用の練炭でも探しているのか女は鞄の中で手をごそごそと動かしている。彼女の荷物がどうやらその鞄一つであること、それがどこにでも安く売られているような綿地のものであることにクインは気付いた。そのまま足下に視線をやる。彼女の靴も昔自分が母といた頃に履いていたものと、さほど変わらぬ粗末なものだった。
 微かに、胸がちりっと焦げるように痛んだ。この女は自分と同じ階層にいる相手であった。服だってそう高価なものであるとは思えない。普段彼を買い付けている裕福な連中の払う金には何の同情も覚えないが、この女が自分を買う為に支払った金額を思うと一瞬呆れるほど……馬鹿馬鹿しいのか感心したいのか、どちらであろう。
 クインは溜息になった。どうやらこの女は一晩のモデル料としてあのオルヴィのふっかけた額を払ったようなのだ。
「……絵も駄目だって言ったら?」
 クインの言葉に女は顔を上げ、そして少し困惑したように笑った。
「それは……ちょっと眩暈がするわね」
 だろうね、とクインは応じて天井を見上げた。良い部屋らしく高く取られた空間の天井画は何かの洒落気なのか魚が水草の間をすり抜けていく題材だ。魚鱗の古びた色を眺めながら、クインは女の申し出を吟味した。
 オルヴィの取ってきた仕事であるし、気に入らなかったの一言で投げようか。金はチアロから返してやればいい。写真はもとより絵でさえも自分の容姿を形に残すかと思うと、真っ先に嫌悪感が立つことを軽視してはならなかった。
「……俺じゃなきゃ駄目か? 他にもっと、本職のモデルだっているだろう」
「そうねぇ……でも、新しい意匠の一連作を興す時には、やっぱり最初の自分の印象に近い相手を捜すものでしょ」
「それはあんたのやり方と理屈だから俺は知らないね。俺と似てるってなら……よく客にも俺がリュースさまとかいうお偉い人と似ているって言う奴もいるね」
 よく似ている、そっくりだと呟く声に混じっている混濁した欲望をクインはいつもひっそりと嗤ってきた。あの皇子様ときたら恐らく自分に向けられている視線に時折はこんな淫蕩な値踏みが潜んでいることにも気付いてはいるまい。その闇に葬られるべき部分を引き受けて、クインはますます自分が皇子の影となる気がした。
 あの皇子の引き受けている部分が光溢れる明るい世界ならば、その足下に落ちる影のすさまじい暗さに自分は生きている。皇子本人を決して嫌な奴だと思ったことはなかったはずなのに、彼のことを考えてふと目線をあげれば、鏡の中にいる自分がひどく暗くて惨めな気がするのは単に僻みであった。僻みだと、分かっているからこそ尚更……辛い。
 突然頬に何かが触れてクインははっと顔を上げた。女が彼の柔らかな頬をそっと撫でたのだった。
「……大丈夫? あまり嫌なことは考えない方がいいわ」
 さらりとした本心からのさりげない気遣いに、クインは怯んだように半歩後ずさり、いや、と曖昧な返事をした。
 微かに目の奥が潤み出そうとしている。人の優しい指先が、恋しい。それはいつか母が彼にふんだんに与えてくれたのとよく似た、まっすぐに単純に相手を案じる情愛のぬくもりだった。
「何でもねぇよ──気安く触んな」
 ぱっと顔を背けると、女はゆるく笑ったようだった。それが彼を宥め慰めようとする種類のものであることは、すぐに分かった。何かの反動でもあったようにそれにふらふらと縋り付きたくなるからだ。
 クインはことさら厳しい表情をして舌打ちをした。誰かがこんな風に時折優しくするだけで、ひどく寄りかかりたくなるほど自分はどこかがおかしくなってきているのかも知れなかった。
「ごめんね、本当に厭ならもうしないわ。……それに、リュース殿下は駄目よ。あっちは……そのぅ、もう断られたの。肖像権と写真の利得について懇々諭されちゃったわよ」
 女はちょんと肩をすくめて仕方なさそうに笑った。クインはそう、と軽く相づちを打ってやがてゆるく笑った。さほど交流が長かったわけではなかったが、あの皇子の生真面目でひっそりとした性質がそのまま変わらずにあることは分かった。
「だから俺を買ったってわけだ? ふうん……絵、か……」
 皇子の手元をすり抜けた話が巡って彼の元に回ってきた、その事自体は珍しいとは思えなかった。それは時折あることであったのだ。
 珍しいのは女が決して裕福な生活をしていないということであった。服も靴も鞄も、ごく普通の古着や使い込んだ品としか思えない。800ジルを越す金を惜しげなく出せる環境でないのは明白で、それを彼の一晩のモデル料と引き替えようとしている。
 皇子に断られたからと、諦めてもいいはずのその話の続きを見たがっているのだ。
「……そんなに、絵、好きなんだ」
 半ば呆れ加減に呟いた言葉に、女はそうねと笑った。
「好きというよりは、描いていないと死んでしまうかも知れないってことだと思うの……何があってもずっと絵だけは描いてきたからね……」
 女の微笑みに浮いた淋しげな影を、クインはじっと見つめた。何があってもと呟く程度には沢山のことが通過した、微かな痕跡をそこに見つけた気がした。……僅かに、胸が弛む。同情であったかもしれないし、幾ばくかの共感であったかもしれない。
「絵なら……いいよ」
 クインは小さく言った。同じ女の客は取らないことになっている。この女が自分に会うたった一度の機会に大枚を支払ったのなら、どうにかすり抜けのききそうな現実に目をつぶってやっても構わない。
 ライアンの判断に委ねるならば恐らく彼は撥ねるだろうし、チアロも同じ事を言うだろう。だから彼女の申し出を受けるのかも知れないとクインは思い、それを否定する材料がないことに気付いて苦笑した。
「……絵ならいいけど、あまり他人に見せないでくれよ。それと、俺とどうやって連絡を取ったかは誰にも言うな──ま、男娼の買い方なんかべらべら喋ってあんたの得になることは何一つないけどな」
 女は大急ぎで頷いた。彼の気が変わらないうちにと思っているのだろう。
「ありがとう。私はエミリア」
 短く、はっきりと名乗る。この女の風情からして偽名とは思えなかった。
 男娼を買って本名を名乗る相手というものが存在するとは思っていなかったにせよ、それはクインを相当面食らわせたらしい。表情も作らないでただ彼女を見つめ返すと、女はもう一度笑った。
「エミリア=スコルフィーグよ。みんなエミルって呼ぶわ……なんて呼んだらいい?」
 最後の質問にクインは肩をすくめた。
「適当にどうぞ。リュースでもいいぜ。それともカルア? エセル? ああ、ラインなんてのもいたな、どれでもいいさ」
 エミリアは呆れた、と呟いて彼の首を軽く、ぴしゃりと音を立てて叩いた。
「不敬なこと言わないで。別に本名を聞いている訳じゃないんだから……」
 分かったよ、とクインは適当に手をひらひらさせた。
「じゃ、リュース」
「嫌な子」
 エミリアはくしゃりと顔を歪め、それからついというように笑い出した。彼女の持っている空気はどこまでも明るくて、清潔だった。
 それにつられてゆるく笑いながら、ふと胸の重みが軽くなった気がして、クインは苦笑する。けれど、それさえ遂にぬるく解けて安息にしなだれていくことに、何故か懐かしい安堵を覚えた。