第4章 夏、紺青の海へ 4

 クインは自室の寝台に転がって、ぼんやりと一枚のカードを見ている。
 降臨する天使、その周囲を取り巻く幻影のような魚の群。淡めの色遣いながらどこか強烈に印象に残る神秘的な青が絵全体を美しくとりまとめている。この絵がエミリアといった女の、細い手が編み出したものであることは信じられない気もしたし、よく知った気もした。
 何があっても絵だけは描いてきたとエミリアは言った。それは真実だったろう。写生用の練炭を握って一心に彼の姿を写し取り始めた彼女は真剣で、声を掛けるのもためらわれるほど無心に手を動かし続けた。突き詰められたような目の光、きゅっと結んだ唇のきかん気。特段美しい女ではなかったはずなのに、その顔をつい見つめてしまう。目が馬鹿になったように彼女の面輪から離れないのだ。
 ──描いている時だけは、私の世界は私のものだから。
 クインに向かって照れたように笑った顔はごく普通の若い女であるのに、画帳に向かう彼女は別人のように厳しい表情をする。
 芸術というものにクインはさして関心がなかった。これからもないだろうとは思う。けれど別れ際に彼女がくれた一枚のカードを捨てることが出来ない。
 エミリアの描いたという天使と魚群の一葉が印刷されたカードの裏には画廊と展示会の期間、そして合同出展するという画家の名前が連盟で記されている。そしてこの仲間たちの中ではエミリアは特別名前の出ている存在なのだろう。合同出展のうち、半数は彼女の「春幻想」と名付けられた一連作に割かれているようだ。
(興味があったら来てね。今週中はずっとやってるから)
 その彼女の言葉を何度も口の中で転がしながら、クインはじっと天使の微笑むカードを見ていた。……もう二日もそんなことをしている。
 ゆらめく波間に射す光の線をかいくぐるように身をよじる銀色の魚たち、それに手を差し伸べて微笑む天使の表情が柔らかく、甘く、優しげなのにひどく切ない。幻影画であることは疑いないが、天使の面輪に何か懐かしい、ぬくい感情がはい出してくる。
 ……これは余計なことなのだろうか。自分は物と同じなのだ、ただ客の望みを察してそのように振る舞うだけの人形なのだと必死でしつけてきた外殻が、柔らかく薄い微笑みひとつにゆるゆると消え去ってしまいそうになる。
 クインはこんなことではいけないと必死で思いこもうとする。人の優しく触れ合う暖かさを求め始めたら、恐らく客と寝ることなど出来なくなる。
 最初にライアンと寝たとき、微かに震えていたし怖かった。だから彼が自分をごく丁寧に、まっとうな恋人にするように扱ってくれたことは分かる──今なら、それは分かる。
 そのせいでライアンについて苛立ったり怒りを覚えたりしながらも、もう一度誰かのぬくもりの中にひたって癒されたいと考える時には彼に手を伸ばし続けて拒否され続けていることも。
 男たちに組み敷かれながら、クインはいつでも自己を閉じてただ暗い場所に彷徨っているようだった。身体の反応は興るままになることで、自分の感覚や意志とは既に遠い場所にあった。
 それが異様なことだと胸のどこかが飲み込めないままであったのを、今更思い知ることなど、欲しくない。
 要らない。
 そんなことに気付けばもっと苦しくなる。居たたまれなくなる。いやだ、それは嫌だ。このままでいいはずなのだ。チアロだって母さんだって、俺を気に掛けてくれてるじゃないか。何が不満なんだ。足りないんだ。
 けれど、その明確な回答など──要らない。
 そのはずなのに。
 クインは起きあがった。寝台の脇の小卓の上で、彼の時計が時間をせかしている。
 クインは澄んだ音で彼を呼ぶ時計の音を止め、服を脱いだ。週に2度、看護学校へ通っているのだ。試験は首位で通過し、特待の資格も得たのだから放り出すのは愚かであった。
 看護学校へは少年のままの姿で通っている。身長はこれからどこまで伸びるか分からないし、そもそも中等学院の時にもあの皇子が少女の体つきではないと断言したではないか。医療系の学校であるから、その目はもっと厳しくなるはずだった。
 クインはクロゼットの中から派手すぎない衣服を選んで身につけると、鞄に教書を放り込んだ。髪は適当にまとめて黒く見せ、眼鏡をかける。女装の時とは違って、素顔を晒すことにやはり抵抗は強かった。
 いつもの地下水路から抜け、少し歩いて乗り合いの馬車にあがりこむ。彼の面差しに時折はぶしつけな視線が当てられることもあるが、大都市ならではの無関心さがおおむね彼の過敏な神経を守ってくれた。
 いつものように他人の視線を拒絶するためにやや俯きがちに、馬車の振動に身体を預けながらぼんやり窓の外の薄暮の景色を眺めていたクインはふと視線をあげた。
 ちらりと一瞬目が過ぎた街角に、既視感の青い色がよぎったのだ。
 肩をひねって振り返り、目線を滑らせていくとやはり何かがちらりと引っかかる。
 僅かに時間を探し、すぐにクインはその正体を見つけた。表通りに面した硝子張りの店の一面に、あの天使の絵の複製が大きく張り出されている。
「あ……」
 微かにクインは声を漏らして腰を浮かせた。天使のカードをぼんやりと眺めながらつい彼女のことを考えていた最前までの記憶が、不意に現れた偶然に対して喧噪に息づき始める。
 急に心臓が高く打った気がして、クインは思わず口元を押さえた。
 カードの裏に印刷されていた画廊の地番など、覚えていない。多分その箇所は見ないように務めてきた。ふらふらと彼女の親切とやらに甘えてしまっては、この先客とのことが辛くなるだけだから。
 けれどその矢先に眼前に現れた絵の天使は、彼を許すように優しく微笑んでいる。
 もう一度だけ。そんな声が耳の裏で囁いたような気がして、クインはきゅっと唇を結ぶ。
 あと一度だけ、たった一度だけでもいいから、彼女とごく普通に話したり笑ったり、そんな平凡でなだらかな時間が欲しい。それを嬉しいと思う部分が自分の中にまだあったことが喜びに変わりそうになる。いけないと思いこもうとする傍にその声が次第に大きくなっていくようだった。
 微かに苛立ってクインが爪を噛もうとした時、急に馬車ががくんと揺れてとまった。
「──降りるかい?」
 その声が自分に向けられたものだったことに、クインは遅れて気付いた。乗り合いの切符勘定をする車掌が御者を止めたらしい。
「あ……いや、」
 何かはっきりしないことをクインは口の中で呟いた。車掌がいぶかしく彼を見つめる。クインは馬車窓の向こうにやや遠く見えている青い絵の具の色を見やり、自分の鞄を見やった。
 学校が、という胸の中の呟きがする。
 その声に耳を澄ましながら、クインは唇を開いた。
「降ります──ここで降ろして下さい」
 自分の声がぽろりとこぼすのを自分で驚きながらクインは受け止め、そして苦笑になった。
 一度くらい看護学校を休んでもすぐに取り返しはきくという自信はあった。それまでの学舎の経験からしても、数度通った看護学校の内容の密度から言っても、それは殆ど確信といって良かった。
 ……一度くらい、いいか。
 そんな現金さに自分で薄い苦笑を浮かべながら、クインは馬車を降りた。精算分の釣り銭を適当に服に押し込み、天使の絵の掲げられた画廊へ少しづつ近寄っていく。
 いつか妓楼にこわごわ近寄っていった時よりも更に何か恐ろしく不可解なものへ近付いていくようで、落ち着かない。
 画廊は通りに向かう壁面を全て硝子の一枚板で張ってあり、そこにカードと同じ絵の大きな複写画が張られていた。馬車の中から見えたのはこれだ。水の青が優しい。
 クインはその絵をじっと見つめた。カードの時にもふんわりしたぬくみのある絵だと思ったが、大判になると更に顕著だった。表情しか見えなかった小さな印刷よりも、事細かな仕草や表情の微妙な加減、光線の柔らかさなどがゆったりとした時間を連れてくる。
 美しい絵であった。技巧も色使いも表情も、全てが穏やかにゆっくりと、そして確実に胸の中に入り込んでくる。
 クインは溜息をついた。
 彼女が何かにとりつかれたように夢中で彼を写生していた時の情熱の帰結はこれなのだろうか。だとしたら、とクインは不意に頬を赤らめる。
 ……そりゃあ大層なものに見込まれてる。自分は天使ではなく、これほど美しいものでもない。現実と欲望の中に彷徨いながら、それを厭い嫌い憎しみさえしながら、そこから離れて生きていけない。それほど醜いものがあるだろうか。
 けれど自分でも可笑しくなるほどに、彼女が自分の表面だけを小器用に写し取っていたのではないことは、知っている気がした。
 あの日、いつしかソファで眠ってしまったクインが夜半に目を開けるとエミリアはまだ写生を続けており、彼の目覚めに気付いて優しく笑った。
(起きたの? 眠ってていいわよ……)
 それは僅かに記憶の奥底に眠る、母の声音と似ていた。声自体は似ていないのに、その柔らかな音調が似た場所に囁きかけてくる。
 頷いて目を閉じた自分の素直さにクインは苦笑したはずだったが、その先はすぐに闇に溶けて分からない。エミリアがそっと自分に近付いて毛布をかけ直してくれたことだけ、それだけを何故か覚えている。
 クインは微かに笑い、長い溜息になった。画廊の中にはいるのには、また別の種類の勇気が要る。どうしようかと視線をちらりと入り口の方へやると、慌てて居住まいを正す若い男女たちがいた。どうやら彼を見つめていたらしい。
 やっぱりこの顔は目立つな、とクインは苦笑した。
 彼らの年齢は多少ばらけているようであったが、雰囲気は似通っていた。合同出展とカードの案内にはあったはずだったから、これはその若い画家仲間というところなのだろう。
「あ、あの、よければ中、見て行きませんか?」
 クインと一瞬目線のあった女がしどろもどろに言う。下手きわまりない勧誘にクインは微かに首を傾げた。
「エミリアって……ここにいるって聞いたんだけど」
「エミリア? ああ、エミルね、いるわよ」
 女は知った名前が出たことで安堵したらしく、ほころんだ笑みになった。こっちよ、と手招きされて画廊の中へ踏み入れる。中は意外と広く、白い壁と淡い枯れ草色の絨毯が落ち着いた印象だ。
 初めてのことで周囲を見回していると、先ほどの女がすぐに戻ってきた。
 クインは僅かに皮肉気に見えるような笑みを作り、照れのために軽くあごをしゃくる。が、そんな意地も連れられてきたエミリアのぱっと咲いたような笑顔で急に引き込んで、口元を歪めてあらぬ方向を見た。
「来てくれたんだ、ありがと、嬉しいわ」
 やはり彼女の声は通って明るい。あの晩も朗らかな声や表情であったが、それを改めて確認した気持ちになる。
 自分が彼女につられるようにゆるい顔になっていることにクインは気付いたが、それをさっとしまい込む気にはならなかった。
「暇だったし」
 それでも口をついて出てくるのはそんな言葉だった。エミリアは彼の持っている鞄をちらりと見て、そうね、と頷いた。
「でも来てくれたんだから嬉しいわ──ごめんね、今、商談中なの。すぐに済むと思うから絵でも見ていて、ね?」
 商談ということは絵の買い手が付いたということだろう。エミリアはどうやらこの画廊に絵を飾っている連中の中では一番手であるらしく、いくつかあの天使の絵と同じ筆触の絵には売約済みの札が画題の下に張られている。
「売れてんだ、絵」
「まあ、そこそこにはね……何しろ散財しちゃったから、取り戻すのに必死よ」
 くすりとエミリアは笑う。散財というのが自分のことであることに気付き、クインは少し笑った。
 待ってて、と言い残してエミリアが奥の応接室へ戻っていく。その後ろ姿を見送ると、先ほど案内してきた女が知り合いなの、とクインをのぞき込んだ。
 まあ、と適当に肩をすくめるとそれ以上は諦めたのか、女はこっち、と彼の先に立って画廊の奥へ歩いた。
「ここから先がエミルの今度の新しい連作よ。右から時系列にそって並んでるから、その順に見てあげてね」
 それだけ言い残して女が去るのを待ち、クインは絵の前に立つ。天使の絵とは少し趣が違うが、淡いくせにしっかりと塗られた色調と美しい幻想の光景は同じだった。
 滔々と広がる若草色の野原に少女がいる。エミリア自身に少し似ている気がするが、もっと幼い。まだ10才にもならないだろう。黒髪が風にあおられて顔にかかり、ほつれてさえいるが、その目線は何か見えないものをみつめるように敬虔に、ひたすら空へ向いている。
 展示説明の額には妹の成長を追いながら幻想の中に取り込んだ一連の作品であることが記されていて、その通りに一枚を経るごとに少女は少しづつ成長していく。
 若草の野原があり、爛漫の花壇があり、きらめく海がある。あの天使と通じる、一点の曇りもない優しさ、綺麗に透き通った慈しみがある。
 ゆっくりとクインは絵の前を移動する。成長する少女の面影はやはりエミリアに次第に似てくるようだった。少女の表情や服装は様々だったが、どの絵もどこか遠い、とりとめない場所をしっかりと見つめているようで、視線の強さが焼き付く。
 そんなことをぼんやり思いながらクインは最後に近い一枚の前に立つ。
 それは春を迎えて割れ崩れていく氷の上を渡る少女の姿だった。均衡を取るように大きく手を広げ、やはりずっと上の、あらぬ場所を見ている。黒い瞳に何も書き込まれてはおらず、それが何を見ているのかはやはり分からなかったが、現実の何かではあり得なかった。不思議な微笑みは苦悶でも諦観でもなく、試練にうち勝ったときのものでもない。
 どの風景にいても少女はたおやかに凛としていたが、この一枚には特にそんな表情が強かった。
 綺麗な絵だった。技巧よりも、絵を通して何かが確かに心の底を掴んで優しく揺する。それにゆったりと身を任せていると安らいだ気持ちになる。彼女の絵は、そんな絵だ。
 誰かの為に描かれた、愛を語る絵。愛を語るゆえに幻想と現実が調和して、美しい絵。
 彼女の胸の中にある幻影がごく一部であっても鮮やかに投影されていることは、疑う余地がなかった。美しく結晶化された彼女の中の無限の夢が押し寄せてくる。
 綺麗だと口の中でクインは呟く。絵の善し悪しなど彼には分からないし、エミリアの絵に一体幾らの値が付くのか、それが高いのか安いのかなど全く知らない。けれど彼の心に根付き、彼に向かって優しく微笑む天使の幻影と同じ血脈が、この絵には宿り、息づいている。確かに呼吸しているのだ。
 そしてこの絵を生み出した絵の主は今、すぐ近くにいる。応接室の扉を開けて彼に話しかけるために、ゆっくりと近付いてくる。
 僅かに呼吸を整えたクインの肩を、全く別の誰かが掴んだ。