第4章 夏、紺青の海へ 5

 かたんと自分の前に淡い色の果実酒のグラスが置かれた。天然炭酸のあげる気泡が微かに揺らぎながら、グラスの向こうの風景を時折歪めてみせる。
 クインはグラスの縁を指先で遊び、口を付けた。一息にあおろうとしてそれをやめる。けれど膝の微かな震えはとまりそうになかった。
(なあ、君、もしかして──ほら、君が高等学院に魔導の聴講に来てたとき、俺、君と同じ研究班にいた……)
 掴まれた肩、強引に振り向かされた力の強さ。それに思わずよろめいて均衡を崩し、声を掛けてきた男にもたれて座り込んでしまった。
(中等にいた彼女だよな? 名前──ごめん、名前が出てこない……けどほら、魔導論文で確か賞まで取った──)
 それでも話しかけるのを止めそうにない男を咄嗟に睨み、クインはさっと立ち上がったつもりだったのに、いきなり鞭打たれた事実に足が追い付かなかった。自分は恐らく相当よろめきながら体勢を戻したはずだ。
(誰、それ)
 出来るだけ低く、冷たい声音を出したのは内心のひどい波をそうでもしないと自分で叱りつけることが出来なかったからだ。男はクインに睨まれたのがいかにも存外だったというように目を丸くし、やっと思い出したらしい名前で彼を呼んだ。
 ──それは確かに中等学院に入学した頃彼が使っていた偽名だった。可愛らしくてありふれた少女の名前。
(……俺、男なんだけど?)
 クインは辛うじてそれだけ絞り出した。男の方はぽかんと彼を見つめていたが、やがてかあっと赤くなった。思い違いだと納得したらしい。
(ごめんよ、でも本当に似てるなぁ……彼女、もしかして君の親類とか親戚とかじゃないかな、本当に綺麗な子でさ、大人しくて可愛くて……魔導の方もまさしく天才少女ってああいう感じなんだって……)
(悪いけど)
 割って入ったのはエミリアだった。クインをかばうように自分の背後へ押しやって、男の名前を呼んでいる。知り合いなのだろう。
(この子は私の遠縁なの。帝都に出てきたから今日ここで待ち合わせただけよ、変なこと言わないで)
 ぴしゃりと断言する強さは、あの日にクインの耳を引っ張って叱りつけたものと同じだ。
 庇われているのだとクインは微かに卑下のために唇をきつく結ぶ。だが、それ以上の言葉はあの頃と同じように喉で凍り付いて出てくる気配がなかった。
 男の方はややあってからクインに向かって軽く頭を下げた。ごめんよ、という口調の丁寧さとぼくとつな雰囲気はあの頃のままだ。……高等学院で魔導学の聴講を受けていた頃のまま。彼の名前も得意だった呪言形態も繋がって記憶から戻ってくる。
 あれから考えてみれば5年は経過していない。まだ彼が高等学院に在籍していても特段奇異な出来事であるわけではなかった。何故あの場にあの男がいたのかなどは知らないが、エミリアが高等学院の芸術専攻部にいることと無関係ではないだろう。
 とにかく、とクインは画廊から3区画ほど離れた食堂の一番奥でそっと溜息になる。
 エミリアが咄嗟に庇ってくれたことを感謝するしかないが、それにしても自分はひどく動揺したらしい。真っ青だとエミリアは彼を気遣い、この食堂で待っていないかと言ったのだった。
 それに頷いたのは、やはり呆然のなせる業であった。中等学院に通っていたことさえ忘れかけていたのに、記憶はどこかへ無理矢理紛失させても過去は喪失しない。全て確かにクインが通ってきた欺瞞の歴史そのものだ。
 クインは暗がりに身体を押し込むようにして顔を歪めた。震えはまだとまらない。
 迂闊だった。エミリアが高等学院の芸術専攻部にいることを、まるきり知らなかったわけではない。カードの出展画家一覧の後援にも高等学院の名前があった。
 名前を呼ばれた時に振り返らなかったのが、今は唯一自分を宥める材料といえそうだった。振り向いていたら全てが雪崩のように露見していくに違いない。自分が男だと言うことくらいは気付くだろう。
 気付けば、過去の欺瞞が剥がれる。剥がれ落ちた欠片を、自分と母を追い続けていた連中が拾う──自分の強迫観念の根深さ、臆病な性質をクインはやや苦く奥歯にかみつぶすが、それでもその経緯は明白で、しかも逃れられない絶対の道筋に見えた。
 クインは痙攣のとまらない指先で自分の額を押さえ、机に肘をついた。まだ膝の細かな動きもやまない。
 近付いてはいけない。
 高等学院の関係者にも、あの場所にも、二度と近寄ってはならない。隣接している中等学院の学舎にも、生徒はともかく教授陣はまだ残っているはずだ。藪をつついて妙なことになるくらいなら、最初から逃げてしまえ。
 その考えは既に彼の中に根付いている習慣に近い反射だった。それを繰り返して呟きながら、今日という今日に限って自分がそれになかなか頷かないのが苛立たしい。
 本当はエミリアなど待たず帰るべきだった。酒の一杯でも一息にあおって帰るべきだ、今でも。
 けれど何故か腰が浮かない。彼女を待っているのだ……なんとも不思議なことに。
 礼を言わなくてはとクインは自分にどうにか刷り込んでみる。エミリアが遠縁なのだと出任せを言ったことでかなり救われた部分があるのは確かだった。
 そうやって答えのでない自問自答を繰り返していた彼の前にエミリアが立ったのは、それから同じ酒の3杯目を終える頃だった。
 ごめんね、と囁く声音にも苦笑気味の表情にも、先ほどの出来事の欠片も残っていない。まるでなかったことのようだ。
「……何も食べてないの? 少し食べる? 絵が売れたからここ、おごるわよ──えーっと……ね、何か嫌いなものある?」
「食欲、ないから」
 クインは乱暴に返答した。事実、何かを食べる気などまったくおこらなかった。ひどい眩暈に必死で耐えているほどだ。
 エミリアは軽く溜息をついた。
「でもお酒だけじゃ胃に悪いわ。ここ、窯焼きの鳥が美味しいのよ。香草が嫌いじゃなかったらそうして貰うわね? それとパンと……そうね、何か温かいもの胃に入れた方がいいから、煮込みかなにか」
「要らないって言ってるだろ!」
 クインは机を拳でたたきつけて怒鳴った。一瞬食堂の中の視線が呼び寄せられる。
 クインは机に突っ伏して要らない、と繰り返した。恋人たちの単なる痴話喧嘩だと思ったのか、やがて注目が散って元の静かなざわめきが戻る。
「……ねぇ、少年」
 それを待っていたようにエミリアがそっと彼の髪を撫でた。
「でも、生きていく限りは食べなくちゃ。あなた痩せてるわ、とってもね。もっとちゃんと食べて、もっとちゃんと生きないと、ね」
 クインは机にうつぶせたまま緩く首を振った。エミリアの言葉はやはり彼に温かくしみこんでくるものだったが、今は聞きたくなかった。
「いいんだ、要らない……本当に、今日は要らない……食べたくないんだ」
 呟く口調がひどく甘えたものになっている。クインは気付いて一瞬きつく眉根を寄せた。誰にでもすりよっていく野良猫と同じ種類の生き物になった気がする。
 自嘲で苦く頬が歪んだ。クインはそのために更に黙り込み、額を机に押し当てたままで呼吸を殺す。それは自分自身をひどく情けなく思うことでもあったのだ。
 そうしてじっとしていると、やがて耳に仕方なさそうな、けれど甘い苦笑が聞こえた。
「……さっきの、気にしてるの? ごめんね、彼、ちょっと唐突で思いこんだら盲目的なところがあるから」
 クインはそっと視線をあげて自分の前に座る女を見やる。彼女は微笑んでいて、クインの目が自分に向いたことを知ってもう一度小さく、ごめんね、と囁いた。
「……あいつ、あんたの、何」
 クインはふて腐れたような顔を上げ、頬杖を付いてエミリアを見た。彼女の方は肩をすくめた。
「彼は趣味で絵を描くのよ。基礎写生からちょっと教えてるの」
 ふぅん、とクインは流した。
 エミリアはクインの返答がやっと通常の音調に戻りつつあることを理解したのか、適当に注文を済ませると展示会のあれこれを話し始めた。あの男が口走った内容について、彼女は触れようとしない。それが彼女の気遣いであることは明らかだった。
 食事を適度に進めながらエミリアは料理を取り分けてクインの前に置く。それを義務的に口に押し込むうち、やっと落ち着いてきた心象にクインは深い吐息を落とした。4杯目の酒を、それで最後にしなさいねと苦笑するエミリアに頷きながら注文する。
 運ばれてきた新しい酒に唇を寄せる瞬間に、クインはぽつりと呟いた。
「……さっきの、聞かないんだ?」
 エミリアもその場にいて、あの男の口走ったことを聞いている。クインが少年であったことで男の方は人違いだと納得した様子だったが、エミリアはそれこそ女装したクインを見ているのだった。もっと幼かった頃にはまさしく少女にしか見えなかったことくらい、想像が出来ない種類の女ではないだろう。エミリアはそうねと笑い、でもと続けた。
「あなたが話したくないことなら聞かない。興味はあるわ、正直にいえば。でも、あなたが嫌がっているのにどうして聞こうと思えるの?」
 クインは頷く。彼女の言葉一つ一つが、何かの宝石のようにきらきら胸の中に踊る。ありふれた気遣い、ありふれた言葉、ごく当たり前のいたわり。そんなものに過ぎないと承知していても、それに甘えたくなる。誰かという叫びが胸の奥にする日に、遂に与えられなかった安息の気配がする。
 ──泣きたくなる。誰かの無条件の優しさが、胸に痛い。突き刺さるように痛い。
 痛みがある、それが疼く、心臓を貫かれたような深い疼痛、それら全てが声を合わせて彼女に甘えてもいいのだ、そうしてもきっと慰撫してくれる、助けてくれる、その予感を歌っている。高らかに。
 クインは片手で顔を覆う。本当に泣き出しそうだった。
「……奴の言ったのは、嘘じゃない。あれは俺だ。10歳の時まで、中等にいたんだ。天才だとか神童だとか言われて、いい気になって、魔導論文も書いたよ……」
 自らの擬態や根本の欺瞞など忘れ、豊かな未来を夢見て自分の持つ力を傲慢に発揮していたのはまだ5年も経たないほどの近い過去なのに、ひどく遠い。自分の過去ではないような気がするほど、現実味がなかった。
「……また、戻りたい?」
 クインが声を震わせたのをなんと思ったのか、エミリアはそんなことを聞いた。クインはゆっくり首を振り、分からないと答えた。
「分からない、そんなこと……俺は、同級生なんかみんな馬鹿にしてた。友達なんかいなかった、みんなちやほやしてくれたけど、俺は奴らのことを端から相手にする気なんかなかった……」
 一瞬目の裏に皇子の面影が過ぎる。皇子のことは別のもので塗りつぶされてしまっていたが、彼が特別であることは真実だった。
「分からない、エミリア、俺は、あんな場所に戻るもんかと思ってた、でも、あそこにいた頃が一番……今から考えるなら、一番、ましだったかもしれない……」
 少なくとも母がいて、きっかけはどうであったにせよチアロやライアンなどと友人関係を築くことが出来、学校という閉鎖された特殊な空間の中で自分の能力の限界を楽しむことさえしていたのだから。
「学校、好きだったのね……」
 エミリアのなだらかな相づちにクインは曖昧に首を振った。苦笑になる。
「俺は、学校なんか別にどうでも良かった……そう、確かに受験した時は……将来は学者や役人になって母さんをもっと楽にさせたいと、思ってたはずなのに……」
 自分はあの人の足枷なのだろうか。それともあの人の罪の中核、動かし得ぬ重大な証拠。
 けれど、そんなことは知りたくない。知らなくていい。ただ母と名乗る女のために自分の人生を使い潰したって構わない。けれど母の温かな肌は彼に与えられなくなってしまった。時折手を重ねても、手袋の薄い遮断を隔てた体温のもどかしさに訳の分からない衝動を覚えることがある。
 エミリア、とクインは呟いた。
「でも、俺は、中等にいた頃のことなんか、捨てたんだ。捨てたら終わりだ、もう戻れない、二度と戻れないんだ……捨てるってそういうことなんだ、リーリーが……」
 クインはふと唇からこぼれた名前を確かめるように、指でそこをなぞった。今この瞬間まで忘れていた、あの、最初の友人の名前。ずっと彼の話し相手だった、黒い猫のぬいぐるみ。
 何かがこぼれるように、胸の奥から吹き上がってくる。
「あいつを捨てた時から、色んなものを捨ててきて、だから、みんな同じだったけど、でも、もう拾えない、拾えないから、諦めるしかないだろ、だって、もうないんだから、なくしたものは還ってこない、だから」
 酔ってる。
 クインは自分の唇がせわしなく動くのを放置しながらぼんやり思った。頭がおかしいんだ、きっと。なんでこんなことをべらべら喋ってるんだ。酔ってる。間違いなく酔ってる。帰らなきゃ──でも、どこへ? タリアの奥巣、ライアンが俺に放り投げて寄越したあの部屋へ?
 クインは小さく笑い出した。帰らなきゃ、と思うのにその場所がどこであるのか今ひとつ確信にならない。あの部屋の寝台は確かに彼の寝床ではあったけれど、帰還する場所ではありえないのだった。
 それはいつか、母の腕の中だった。沢山の不満や不安も激情も、母が彼の波を鎮め慰めてくれた。それさえ、自分で切り捨てなければならなかった。母への秘密を持ったのは自分だ。だから結局自分が自分でその場所に封印をしたのだろう。
 クインは喉で笑いながら、捨てたんだ、と呟いた。リーリー。彼を捨てたあの夜から、拾うもの全てを捨て続けてきた。そうしなくては生きていけなかったと分かっているのに、いつまでも拘泥している。
「……もう、帰ってこないから……」
 クインはエミリアが最後だと念を押した酒をあおり、注文をするために片手をあげた。その手がぱちんと弾かれる。
 クインはエミリアを咄嗟に睨んだが、彼女の方は涼しい顔でやってきた給仕に向かって伝票を振り回した。勘定するときの仕草だ。
「──適量はもうちょっと少ないみたいね、覚えておくわ。……ほら、立って。行くわよ」
 精算を終えてエミリアはクインを促し、彼の鞄を掴んで外へ出た。外はすでに夜の更けていく時間で人通りもまばらだ。石畳の街路を歩くエミリアの後をクインは黙ってついて歩く。鞄、という意識はまだあるのだ。
「どこ行くんだよ。鞄返せよ」
 クインの声にエミリアは少しだけ振り返り、微笑んだ。
「見せたいものがあるの。あなたに見て欲しい」
 その瞬間彼女が浮かべた薄い笑みは、それまで見てきた明朗さとは少し毛色の違った淋しげな影に縁取られているように思われた。
 クインは何かを言おうとしてやめ、だまって彼女の後を追った。