第4章 夏、紺青の海へ 6

 月が出ている。半分欠けたやわい光が帝都の石畳の隙間を埋める白漆喰を優しい色に浮かばせていて、俯きながら歩いていると水面を歩いているような不思議な幻想があった。微かに眩暈がするのはやはり酔っているせいだろう。世界がゆらゆら、揺れている。
 エミリアは時折振り返りながら彼を待ち、呼んだ。もう帰ろう、鞄だけ返して貰ったらつき合う義理なんか無いんだ、と何度も口にしかけてはそれを飲み込んでしまっている。
 ……誰でもいいのか。クインは皮肉に唇を歪めて笑う。母さんがいない。ライアンが俺を無視する。一度繋がりそうに思えたリーナとかいう女だって……結局俺のものじゃない。今夜も誰かのもので、明日もまた違う誰かのものだ。
 自分を愛してくれる誰かが欲しい。その残り香、気配のようなものでさえ欲しい。飢えているというほどに渇いている──多分、本当に誰でもいいのだろう。例えば彼の機嫌を取ろうとする客たちや、こんな通りすがりの女にまでいい顔をするほど。
 自嘲はやはり胸によい作用はもたらさない。クインがますます無口に黙り込んでいると、エミリアが少年、と彼を呼んだ。
「ここよ。部屋は3階の右」
 上がっていくアパートはやや古めの木造で、階段を上がると軋んで鳴った。あまりよい部屋というわけではなさそうだったが、彼女の身につけているものとは相場は釣り合っているだろう。
 どうぞ、とエミリアが入っていく部屋に足を入れると、まずむっと鼻につまる薬品の臭いがした。看護学校でも薬独特の臭気はあるが、それとは全く別の系統の臭いだ。
 クインが思わず顔をしかめるとエミリアは少し笑って、居間はちょっとましだから我慢してねと囁いた。彼女の言葉の通りにそこは彼女が窓を開けてくれたせいもあって無臭にやや近い。
「ごめんね、絵の定着剤の臭いなの。臭いでしょ? 慣れないと吐く人もいるくらい」
 彼女の苦笑にクインは頷く。しかめ面の彼にエミリアは笑い、厨房の方から水の瓶を持って戻ってきた。差し出されてクインはそれを受け取る。酔いも醒ました方がいいのは分かっていた。
 待っててね、とエミリアが一度消え、すぐに手に大きなものを掴んで現れた。絵だ。形や大きさですぐに分かる。
「俺に見せたいのって絵? それならさっき散々あっちで見たよ」
 ふて腐れたような声になったクインに、エミリアは仄かに笑ったようだった。彼の座る窓下の長椅子にぽんと座り、月光に照らされる位置にもたせかける。
「春幻想の、最後の一枚。あそこにあるのは売るための絵だけど、これはアスナに……妹にあげるための絵よ。定着材がやっと乾いたから、明日にでも梱包して田舎に送ろうと思ってたんだけど、その前にあなたに見せてあげたいって思った」
 ふぅんと気のない返事をしてクインは彼女の持ってきた絵を見つめた。
 画廊にあった絵とは確かに何かが違っていた。彼女の絵の特徴である厚い絵の具の塗りはそのままだが、色が違う。淡いなりにしっかりと目に残る色味も幻想の一部であったはずなのに、殆ど色味さえない。辛うじて色はついているものの、春幻想のシリーズにあった夢幻的な色彩の自由な筆致とは言えなかった。
 妹であろう少女が春の野を背景に花を胸に抱く構図で、少女は印象的だった瞳をじっと閉ざし、唇だけで微笑んでいる。表情は柔らかだったが、やはり色数の絶対的な不足のせいで、画廊にあった絵よりも遙かに粗い印象が強い。
 クインが黙っていると、彼の隣でエミリアがどう、と優しい声で言った。彼の戸惑いを分かっているような声音であったから、クインは首を振った。
「……画廊にあったやつの方が綺麗だ」
 実際、こちらの方が絵の具の塗りが妙に厚いこともあって、ひどく太く粗末な感慨を引き起こした。元々多少筆致の厚い絵であったが、これはそれが顕著すぎて描き殴ったようでさえある。筆の跡もまったく放置したままで、それが粗いという印象を担う大きな一つであった。
「あんまり好きな絵じゃない。画廊にあった方がよかった」
 思ったことをそのまま口に乗せる。彼の言葉にエミリアはそうね、と簡単に頷いた。
「多分、みんな同じ事を言うでしょうね。でも、これはこれでいいのよ。妹に見せるために描いた絵だから」
 クインは怪訝な視線を彼女に与える。大人という年齢の端にようやく足をかけようとしている年齢の、尖り始めた顎の線が細い。それが何故かひどく切なくて、クインはふっとそこから目をそらした。
 彼のその仕草にエミリアはそっと笑った。
「いいの、アスナ……妹のための絵だもの。あの子だけが分かっていればいいの」
「でも、色だって画廊の方がずっと綺麗だった」
 自分の感慨を否定されたような僅かな不服に向きになってクインは言った。エミリアはだが、いよいよ柔らかにそっと笑った。
「いいのよ。あの子、目は見えないから……」
 クインは一瞬きょとんとし、それから徐々に彼女の言葉の意味を悟って呼吸を潜めて深くした。
 見えないと繰り返すとエミリアはそう、とことさらゆっくり頷いた。それは、とクインは曖昧な居心地悪さを口の中で噛みつぶし、ややあって大変だね、と付け足した。
 それを口にしてからその事実の重大さにやっと気付く。エミリアの絵の大きな特徴であるはずの、人物像の表情の優しさや色使いの暖かさ、染みいるような筆致の美しさも、エミリアの肉親が見ることが出来ないと言うのはひどい皮肉である気がした。
 クインが黙り込んでしまったのをエミリアは小さく吐息で笑い、彼女自身の目線を粗い粒子で構成される絵へ向けた。
「4年前の流行熱でね……親ももういなかったから医者にも診せてあげられなくて、見えないって気付いた時には遅かった。力のない自分も悔しかったし、何よりあの子が不憫で哀れでずっと泣いたわ。私の絵をとっても好きだって言ってくれたあの子に、もう見せてやることが出来ないと思った」
 エミリアの声はしっかりして、静かに明るかった。クインは絵を見つめる彼女の横顔へ目線をやった。エミリアは彼に視線を合わせ、微笑んだ。それがやはり何の気負いもなく明るいことが不思議だった。
「……この絵はね、だからこうやって見るのよ」
 彼女がそう笑った次の瞬間、クインの手に温かなものが重なって彼ははっと肩をいからせようとする。それは既に反射というような早さだった。客のことも、自分の周辺にある思いに任せない現実も、彼の手を取ってはくれなかったはずなのに、それは不意に降りてきて彼を動転させる。
 大丈夫、と宥める穏やかな声。それに何かが触れて中の神経がゆったりと波を凪ぎへ近寄せていくのが分かった。
 クインは微かに喘ぐ。触れた箇所が過敏に熱い。肌が発火しているような気がする。けれど動くことさえ出来ないで、ただ震えの上がって来るまま、エミリアの手の温度に動揺しているのがひどく恥ずかしかった。
 目を閉じて、と囁くような声が言った。クインは瞬きし、そして何かを言おうとして言葉が見つからず、唇を無意味に動かす。エミリアは少し首を傾げ、彼の手を掴んだままで背後に回り、ゆっくり抱き寄せるような仕草でクインの目を後ろからもう片方の手で隠すようにした。
 そっと背中に彼女が被さる。声を上げかけてクインはそれを飲み込む。ほぼ同じ位置にある心臓の鼓動が、とく、とく、肌と服の薄い厚みを通して触れ合っているようだ。
「こうして、ね」
 エミリアの声が自分の耳すぐ端でした。クインは吐息がかかる距離にやや身震いする。それと指先が絵であろうざらざらした表面に触れるのとが同時だった。導かれるままに指先で絵を撫でる──その触感が筆跡の流れを捉えて滑った。
「ここは緑。春の色、新しくて綺麗な草が戻ってくる春」
 そっと囁く声が優しい。泣きたい。それだけに触れて泣きたくなるほど優しくて温かい。
「ここは青。やっと晴れた日の眩しい空色、ほら、雲、柔らかい、ふわふわしてる。このなだらかな線は山、ずっと向こうにある山に霞雲がかかってる」
 彼女の言葉の通り、指先には山の稜線のような薄い膨らみと、所々途切れるような攪拌された綿のような乱線が分かる。空と彼女が言った箇所は殆ど平らで筆致もほとんど感じ取れない。雲だと言う場所には確かに雲を表すようなゆるい曲線が脈絡無く配置された、模様のようなものがあった。
「そして、これが妹。あの子の目、鼻、ここは瞼……睫毛が長くて、ほら……眉の形はこう、肩の線はここ……少しづつ大人になっていくから大分身体も柔らかな線になってる……」
 彼女の声と手が導く絵と、告げられる色味が次第に頭の中でぼんやりした絵になっていく。指先の感覚が連れてくる、幻想で形作られていくもう一枚の絵。色を彼女が告げるたびにそれはしっかりした風景のように鮮やかになっていく。
 意識の中にしか存在しない、鮮明で美しい絵。髪よ、と指がたどる道筋のうねるような流れと豊かな情感、殆ど官能的ですらある輪郭。
「──見える? これがあの子の見る絵よ……」
 エミリアの声にクインはゆっくり頷いた。彼女の手が離れる。
 背後からそっと気配が遠くなって、クインはやっと目を開けてエミリアを見た。彼女はやはり笑っていた。その笑顔がいつにもまして切なくて、ぬくやかで、ひどく優しい気がした。
「……あの子が見えないって分かって、私、本当に悲しかった。あの子のいないところでずっと泣いてた。絵も……芸術院への推薦を貰えそうだったけど、やめて働こうとしたわ。でもあの子がこうやって」
 エミリアは言いながら手を自分の顔にあて、指先で造形を確かめるように撫でた。
「私の顔は見えないけど、どんな顔をしてるかは分かるって言ってくれた。姉さんが笑ったり泣いたりしてるのが良く分かるって、あの子が……」
 僅かにエミリアの声が歪んだ。クインが目を向けると、月明かりのぼやけた視界の中で彼女は淡く泣きながら、それでも彼に微笑んだ。
 クインは当惑と怯みの中間にある痛ましさに揺すられて首を振った。エミリア、と言いかけると彼女は首を振ってエミル、と言った。
「……エミル……」
 呟くように言うと、彼女は頷いた。エミル、とクインは繰り返した。エミリアは微笑みながら首を振り、指で軽く涙をこそいだ。その口元がやはりまだ笑っている。仄かで温かい、彼女の絵と同じ、人の肌の温度と心の熱を教えてくれる笑みだ。
 ──唇に触れたい。彼女の柔らかで温かなそこに触れたい。
 クインは唐突にそんなことを思い、身体をずらしかけてふとそれを止めた。キスは誰かと寝るより重要なことだという娼婦の世界の常識が不意に現れて彼の腕を掴んだのだ。それが特殊な条件の特殊な約束だとは知っていても、一瞬のためらいの時間が衝動を冷えさせるのには十分だった。
 男女どちらでも寝ることに抵抗はない。それは既に彼にとって定理のような身体の反射に過ぎない。けれどその先に来るはずの、簡単な仕草が重い。特別なことなのだという感覚が自分の身に染みすぎていて、キス一つがどうしても出来なかった。
 クインは僅かに俯き、エミリアの絵に指を這わせた。彼女が盲目の妹のために描く絵はやはり地味な色彩とぼってりした画材の厚みでどうしても垢抜けない。けれど、目を閉じて空想に委ねれば驚くほど豊かな情景を示した。
「……ねぇ、少年。妹が……その時言ってくれたの。見えなくても見えるものがあるし、無くしたものの替わりに拾ったものもあるからいいって、気にしないでって、絵を続けて欲しいって、私の絵があの子の希望だって……」
「希望……」
 クインは呻くような声で呟いた。その言葉を生まれて初めて聞いた気がした。
 希望、と繰り返すとそれが尚更痛くきつく胸に落ちた。
「少年、希望は自分で探さなくてはいけないわ。あの子の希望が私の絵なら、私の希望はあの子なのよ。アスナがいるから描き続ける事が出来る。あの子が私の絵を自分の未来だと言ってくれたから私、ずっとずっと描くわ、描き続ける。あの子の為に」
 だから、とエミリアは続けた。
「あなたの希望を探して。お願い、辛そうな顔をしないで。あなたが無理に笑ったり喋ったりしてるのを見ると、居たたまれないほど私も辛いわ……」
 クインは臓腑の奥を突き刺されたようにして深く呼吸しながら喘いだ。胸が痛い。
 何故という疑問も、煩わしいという感情も、湧いてこない。溢れてくるのは涙だ。自分でも訳が分からない衝動と激しい高ぶりが、そんな形になって身体の中から吹き上がってくる。
「エミル……」
 喘ぎながらクインはこぼれてくる涙を手でぐいぐい拭い、口元を押さえた。泣いている時は言葉も声も役に立たない。エミリアがゆっくりと彼の額にばらばらにかかる後れ毛を払い、そっといたわるように抱きしめた。
 彼女の体温。そして髪についている定着剤と絵の具の微かな匂い。それにどっと寄せる安堵を覚えてクインは彼女にしがみついた。いつかあった、こんなぬくい腕の中がやっと自分に戻ってきた気がした。
 涙が落ち着くまで長いことそうしていて、やがて身体が自然に離れた時、その懐かしさや嬉しさにクインはつい笑みをこぼした。エミリアの気配がふっと密やかになる。怪訝にそちらを見ると、彼女はじっとクインを見ていた。
 視線の強さが出会った夜と同じ色だ。
「綺麗ね──本当に綺麗」
 呟いたエミリアにクインはゆるく首を振った。
「俺は……そんなんじゃない……誰かにそう言って貰えるほど何も……無いから」
「いいえ。あなた綺麗だわ。とても……綺麗。あなたの笑った顔、もっと見たい。あなたを描きたいわ……」
 エミリアはそんな事を言って淋しく笑った。
 その先を続けないことでクインも事情を分かった。女客は二度と同じ相手を取らないのが決まりだ。エミリアがチアロにつてを取っても彼はその理由であっさり撥ねるだろう。
 ……けれど、抜け道もある。
「俺、時々来ても……いいよ……」
 それでもこんな言い方しかできない自分を苛立たしさと苦笑の両方で眺め回しながらクインは言った。これは恐らく重大な違反の一つになるだろう。ライアンは女客を取らせること自体にあまり良い色を示さなかった。
 だからこそ、意味があることもある。これがあてつけなのか反発なのか、……それともエミリアへ向かう何か特別の前触れなのか、まだよく分からないけれど。
 彼の言葉にエミリアは目をしばたき、ついで嬉しそうに笑った。いいの、と聞かれていいさと答える。いずれにしろ、彼女といればここ最近自分を取り巻いていた嫌な空気とは離れていられるのだ。ありがとう、というエミリアに首を振り、クインはもう一度絵に目をやった。塗り厚い絵はやはり重たそうな色の印象でしかなかった。
「いつか、ちゃんとあなたを描けたら……その絵をあなたにあげる。妹のためにこの絵を描いたように、いつかあなたのためにあなたを表す絵を描くわ、約束する……」
 エミリアの言葉にクインは頷いた。その瞬間にこぼれてきたのはやはり温かな感慨だった。凍ったようだった胸を、ぬるくほどかしてゆく、春の日射し。新緑の隙間から降る木漏れ日に似た、眩しい季節の前触れ。
 クインはそんな幻想が一時脳裏をよぎるのに任せて目を閉じ、エミル、と言った。
「俺の絵が出来たら見せてよ。見たいんだ」
 勿論、とエミリアが深く頷いた。
 それを見届けて、もう帰るよ、とクインは立ち上がった。酔いも醒めて来た頃合いであったし、今日は看護学校と言うことでタリアを抜けてきている。あまり遅くなってはチアロに心配も掛けるし不審を抱かせたくもなかった。
 今日が最後じゃない。
 それを思うだけで心浮かれるほど嬉しい。鞄を受け取ってアパートの外へ出ると、既に夜は深く人通りは殆ど無かった。月は変わらずに石畳に光の影を落としている。またね、とエミリアが彼の頬に軽くキスをした。それに照れたように笑い、クインはまた、と繰り返す。
 数歩行って振り返り、まだそこにいたエミリアにクインは言った。
「──クイン」
「え?」
「みんな、俺をそう呼んでる」
 それだけ言って、クインはぱっと駆けだした。気恥ずかしくて返事は待てない。その背後からまた、と叫ぶエミリアの声が弾んでいるのを知って、彼は唇をゆるめて笑みを作った。
 吐息のように細く、月光のように淡い、心底から浮いてきたほころぶ笑みを。