第4章 夏、紺青の海へ 8

 ぼんやりした光景には色がなかった。薄い煙幕のような白黒の世界に、ぼやけた焦点の格子木が見えている。ああ、これは夢だ。それを知覚した途端、ぬるく体が溶けていきそうな感覚が興った。視点が低い。まだ幼い自分の見ていた、遠く古い目線の焼き直し。
 格子の向こう側にもつれあった男女が見える。のたうつように身をよじり、意味のないあやふやな言葉を叫んでいる女と、それを殆ど殺すかのような勢いで攻め立てている男、右肩の傷。
 視点はゆっくりと格子の中へ分け入って男の右肩を視線で撫で、女の傍にすとんと座り込んだようだった。女が自分の手を握る。一瞬ぎくりとするほど熱い。
(ねぇ、見てて、見ていて、ねぇ、可愛い子ねぇ、どこから来たの?)
 浮かされたように口走る女に視線が上下する。自分は頷いたらしい。
 どこから来たのという問いに答えるように、子供特有のふっくらした手が上がり、女の腹を指した。自分の唇が動いて何かを言ったようだった。それの何が良かったのか、女がけたたましく笑う。それに合わせて男が笑っている。
 笑う。笑う。嘲り、蔑み、侮る声が幾重にも、ぐるぐる、めまぐるしく、ひたすらに、笑う笑う笑う笑う──……
 これは夢だ。強い声が胸の奥から囁いている。それに導かれるように決然と目を開けると、そこは柔らかな光の中だった。窓から淡い光線が差し込んで、白いシーツの波間に優しい灰色の影を作っている。
 それを目にした瞬間、これが現実だと身体が理解したようだった。すうっと肩から力が抜けて、自分がひどく身を強張らせていたことがやっと分かる。
 長い溜息を肺から押し出していると、隣にいた男が身じろぎした。起きたかと言われ、目をしばたいて素っ気なく頷き返すと男は腕を寝台傍の小卓に伸ばした。煙草だろう。何度かこの男と共に朝を迎えたことがあるから、寝起きの最初が一服から始まることは知っていた。
 身を起こしてその通りに煙草を始めるライアンの仕草はもの慣れていて、そもそもの印象の通り、素っ気ない。
 けれど、それは自分も同じだ。何もかもは過去へ置いてきた。今まで寝てきた全ての男たちも自分に同じものを見て、苦笑したではないか。終わればすぐに醒める女。痕跡も空気も全てを呆気なく消してしまう奴──つまり、なつかない犬。
 そんな喩えを思い出して、オルヴィはそっと視線を伏せた。考え事をする時は、ことさら無表情になる。それが子供の頃からの韜晦の手段であり、母とその周辺の男たちへの目眩ましであった。
 オルヴィは薄い毛布の下で身体の位置を変える。枕に肩まで押しつけるようにして、まだまどろみに半分ほど漂っている気分のままに目を閉じた。眠るかと聞かれて目を閉じたままで首を振り、少し、と呟いた。
 ライアンの返答はない。ないが、それは了承の沈黙であるように思われた。
 母の夢を見るのは久しぶりだとオルヴィはまだ脳裏に鮮明に残るそれを、じっと見つめる。
 古ぼけた格子棚は母の店、シタルキア南部の都市メーリンの、安い妓楼の立ち並ぶ地域の更に隅にオルヴィは8才まで育った。特段美少女ということでもなかったため客には適当に邪険にされながら成長したが、その生活の終わりは母の人生の終わりでもあった。
 だらしのない男に惚れ、男の言うままに麻薬に手を出し、最期の血の一滴までも啜り尽くされて死んだ母。
 最後にはオルヴィのことさえ分からなかった。中毒のせいで濁った白目でぎょろりと娘を見て、どこから来たのと同じ事を繰り返し聞いた。
 あの草をやる奴は馬鹿だ。馬鹿だから踏み込むのか、あの草の見せる胸の悪くなるような幻影が馬鹿にするのかは知らないが、あんなものに溺れるやつは生きていく価値なんかありはしない。死ねばいい。母のように惨めに。
 僅かに眉根を寄せて深い溜息をつく。母親の死んだ後は債権者によってタリアの非組合の娼窟へ送られ、8才の夜から客を取った。その娼窟には当時の自分よりも更に幼い少女もいたから、そうした好みの客専門だったのだろう。
 12の時にその娼窟の主人も借財のせいで逃げ、すぐに掴まり、自分たちの見ている前でなぶり殺しにされた。それまで奇妙にねっとりした声音で自分たちを扱っていた男が絶叫と苦痛にのたうち、緩慢に死んでいくのをじっと眺めながら、オルヴィはひたすら口の中で同じ事を呟いていた。
 ──私は石だ。石になろう。何も思わず感じない石だ。石になろう、石になろう……
 転売された先の娼窟でも、オルヴィはあまり売れない女だった。笑わない、愛想も言わない、もの暗い表情の女はやはり敬遠されるのだった。とびきり美しい面立ちであれば違ったろうが、生憎そんなものは持ち合わせていない。
 あまりに売上が悪くてその娼窟からたたき出されたのが17の時、そのままオルヴィは迷うことなくチェインに足を踏み入れた。タリアの少年王のことは時折聞いて知っていたし、娼窟で知った数人の顔なじみもいる。あまり不安はなかった。チェインに女は珍しく、そのせいで数度は手酷い目にもあったが、それはオルヴィの中に決定的な傷を残さなかった。
 ──私は石だ。何も感じない石。
 それが全てを傍観するための呪文だった。それさえ胸の中で呟いていれば、やがて災厄は遠くなった。いくつかの傷、些細な諍い、保険のために寝てきた少年たち。そんなあやふやなつての最後に立っていたのがチェインの若い王だった。王という古めかしい言葉の持つ重い澱みを確かに感じた相手。
 お前と似ているだろうと皮肉を言って笑っていたのはどの幹部だったろうか。あるいは全員だったかも知れない。オルヴィがライアンの愛人であることは周知のことであり、それ故に一段蔑まれていることも知っている。幹部たちの中で一番馴染みがあるのはチアロだが、彼にしたところで腹の中でどう思っているか知れたものではないだろう。
 無論ライアンと寝たのは単なる保険だ。自分の足場を僅かにでも確保するためのことで、それ以上ではなかった──はずなのに。
 毛布の中でオルヴィは身じろぎし、右耳の貴石に触れた。一体何が起こってライアンがこれを自分に寄越したのか全く見当が付かない。宝石には詳しくないが、色の濃い石は高いと聞いているし、タリア王からの下賜品だとライアンが言っていたはずだ。安い品ではあるまい。
 そのことを思う時、オルヴィはひどくせわしない気持ちになる。土台ライアンから何かの形あるものを貰う、ということ自体が違和感なのだ。彼は単に自分を便利な道具のように扱っていたはずだった。少なくとも、最初の頃はそうだった。それがどうしてこんな宝石になって戻ってくるのか、それが何故なのか、どう判断していいのか分からない。
 有り体に言うならば、面食らっている。一体ライアンは自分をなんだと思っているのだろう?
 そこまできてオルヴィは自問の馬鹿馬鹿しさにさっと頬を歪めた。ライアンにとって一番大切な女は妓楼の中にいるはずだった。彼の視線をもう長く独占しているというその遊女の名前も顔もオルヴィは知らない。妓楼での宴席には正直なところ自分の居場所があるとは思えなかったし、ライアンも自分に来いとは言わなかった。
 知らなくていい。オルヴィはそっと頷く。多分、知らない方がよいことなのだ、これは。この奇妙な怖れがどこから来るのかも、考えるな。
 ──私は石だ。何も感じない、何も思わない、ただの石くれ。
 胸の中に呟き続けていると、かつかつという硬い音がした。煙管の灰切りだろう。気配は再び火種石をいじっているからもう一服というところか。
 既に神経は覚醒へ向かっていて、目を閉じていても眠りに落ちることはなさそうだった。オルヴィはゆっくり体を起こし、ばらばらに落ちてきた髪をかき上げる。横目でちらりとライアンを見ると、彼の方はゆるくくわえた煙管の先に火種を移すところだった。面伏せた瞼のくっきりした外殻線、煙管を撫でる整った指先。あの手はいつでもひんやりと冷たい。
 ライアンはいつもと変わらぬ無表情のまま、煙草を繰り返している。深い呼吸にずっしりと重い存在感があった。他人と同じ事をしていてさえ、身から漂い始める重い威圧がある。
 これは確かに美しい男であった。力ある雄にだけ現れる薄紗のような煌めきが時折、はっとさせる。そもそも役者のような整った面差しでもあるはずだが、彼の身に付いた空気に比すれば全く目立たない付属物であった。
 それとも、とオルヴィはふと思う。ライアンの面輪に大して感慨を強めないのは更に美しい顔貌を知っているからかもしれない。美貌というならばあの少年であることは間違いがないのだから。
 そしてオルヴィは渋面になった。
 元からあの少年はオルヴィを気に入らなかった。何故始めから悪意で迎えられたのかは分かる。彼はライアンの関心を引きたくてたまらない上に、チェインの少年たちとは折り合いが悪い。オルヴィもその一翼に見えていただろうし、いつ頃からか更に憎まれるようになった。誰かから漏れたのか勘付いたのか、オルヴィがライアンの愛人であることを知ったのだろう。
 いや、元から気に入らなかったのは自分も同じだ。最初にライアンに連れて行かれたアパートで自分を見た少年の目が、ざっと一瞥した後にぬるい軽蔑へ変わったのは確かに見た気がする。取るに足らない相手、まったく自分の敵ではないという表情だった。
 嫌な奴。
 それがクインに最初感じた感触であり、時間を経過して接触が増えるほどそれは強まっていった。
 確かにあの美しい面輪は特別の産物だ。一つ一つの表情や仕草でさえ、それがどんなに乱暴で斜に構えた偽悪であっても、目を奪うほど美しい。けれどその美貌を鼻に掛けた態度や人を小馬鹿にしたような口調はどうしても腹に据えかねる。
 だから時折はライアンとの関係を盾にとって彼をからかう。そうすると透けるほど白い肌がさっと怒りのために紅潮するのだ。
 それさえ美の範疇にあるのはさすがであるかも知れなかったが、屈辱感さえ口に出来ない品高さが少年を荒らすことは予測が立てやすかった。
 ふん、とオルヴィは唇だけで笑う。そんな笑い方がライアンに似ているとチアロが以前苦笑していたはずだった。似ているだろうか、とふと湧いた疑問をこね回していると、これだけは確かに似たような吐息がぬるく落とされるのを聞いた。
「……あれのことを考えているな」
 ライアンの表情はぬるい。オルヴィは目線だけで肯定した。
「あまり嫌味な客を選ぶな、奴がどういう客が気に食わないかくらいは知っているだろう」
 その作為はとうに知れていたようであった。
 オルヴィは肩をすくめ、返答をしない。そもそもあちらも気に入らないという理由だけで当日でも平気で撥ねつけるのだから、オルヴィだけが不興を買うのは公平でなかった。
「不満か? だが、奴を荒れさせることは感心しない」
「あの子が私を嫌いなんだ。何故好かれるようにしなくてはいけない」
「機嫌は取らなくてもいい、配慮してやれと言っている」
「同じ意味だ」
 オルヴィは短く返答し、寝台から降りた。裸のまま部屋を横切り、適当な服を拾ってかぶる。
 エリオンはシタルキアの北東に位置する国で、夏近いとはいえ裸身だと肌が冷えた。服の内側から小さな薬包が転がり落ちるのに目を留め、オルヴィはそれを拾いあげる。
「……煙草にでも入れたらどう、ライアン?」
 当てつけの嫌味を呟いて彼にそれを放り投げる。寝台の上にどうにか届いた薬包をライアンはひらき、灰皿へこぼした。
 微かに鼻を突く、甘い匂い。エリオンの裏の市場で高価に取り引きされている麻薬、その精製された顆粒はどの種類でも多少の差はあれ、甘い匂いをしている。
 エリオンまで出向いているのはこの麻薬の以前の取引筋との契約の為だ。彼がアルードから下賜された麻薬筋は殆どそのままライアンの手元へ収まったが、重量の単価や取引のための符丁などは一度打ち合わせなくてはならない。
 いくつかは別の取引先からの申し出もあるようで、実物は吟味しなくてはならないしその元締めとも顔を繋いでおく必要があるだろう。自分が伴われてきたのはその為だ。母の妓楼で初歩の筆記と計算は覚えている。
 チアロでも良かっただろうが、この点は恐らくクインのためにあちらを残したに違いない。
 そしてこれはオルヴィにとって、紛れもなく大きな転機の機会となるはずであった。麻薬筋のことはライアンの掌握する事柄の中でも金額からして大きな項目の一つだ。その基本的な契約の提携に立ち会い、彼らの語る方針を書き留め、簡単な試算を出すことでその基盤に深く、大きく食い込むことが出来る。
 それを思うと薄い興奮がオルヴィにも上がってくる。
 チェインの中で勝ち上がろうと決めた時から、ライアンはオルヴィにとって当面の寄生先だった。彼はチェインという小さな王国に君臨する絶対王だ。
 もしくは、とオルヴィは頬を厳しくした。クインと相容れないのはお互いの寄生の邪魔だと感じているからかもしれない。クインがどんな事情でか知らないがライアンに頼っているのと違う事情で、しかし同じようにオルヴィも彼に頼っている。
 宿主を取り合っているのだと思うとやはり面白くはなかった。
 オルヴィの渋面をどう受け取ったのか、ライアンが視線で意味を問うてくる。
 オルヴィは別に、と素っ気なく返答してから付け加えた。
「あの子のことなら、するべきことはしている。あちらが気に食わないのは勝手だが、私は配慮してるつもりだ、十分に。金払いのいい、後腐れのない相手をちゃんと選んでやっている」
 ライアンは僅かに溜息をついて薄茶色の顆粒の上から煙管の火種を落とした。灼熱の小さな塊がそこへ転がり落ち、微かな音を立てて薬粒を焼く。彼は薬はやらない。オルヴィと同じく、あの草に手を出す奴は愚かだと知っているのだ。
 風に乗って漂ってくる、ほんの僅かな甘い匂い。母の体臭とよく似ている。記憶の中の嫌悪と。
 それから逃れるようにオルヴィは浴室の扉を開けた。ライアンの肌には既に煙草の匂いが染みついていて、一晩傍にいると何故か眩暈がする。
 肺の中に差し込んでくる空気が細胞を侵していくような、きつい、感触。オルヴィは首を振り、水栓をひねった。一瞬おいて、受口から冷水が小雨のように落ちてくる。肌をこぼれていく人工の雨が、むず痒い。自分の髪から鬱そうと煙草の移り香が立ち上り、やがてそれは水と共に流れ落ちる。
 彼の煙草の匂いが薄くなっていくのに連れて、オルヴィは長い吐息を落とした。気に入らない。あの子も。 妓楼にいるという彼の女も。肌をかすめていく煙草の匂いも。嫌悪と呼ぶにはひどく薄い感触がして、それでも何かが変わっていく──剥がれ落ちて。
 オルヴィは唇だけで暗く笑った。
 金払いのいい、後腐れのない客は確かに選んでいる。その先のクインの嫌悪のことを思って意地悪くほくそ笑むのは、クインの自分に対する嫌悪の鏡であり意趣返しだ。せいぜいねちこい相手にいたぶられればいい。
 そのせいで荒れていく様子は確実に溜飲を下げる遊戯であった。変化をつける為にあの変に素人臭い女を混ぜてみたのも、その落差を激しくするための布石だ。男客への憎悪に近い嫌忌との比較でいっそ、どの女でもいい、駆け落ちでもしてくれたらライアンも彼を処分しなくてはならなくなるのに──……
 オルヴィは肩を軽くすくめた。そんな都合のいいことは滅多に起こらない。だからこそ続ける意味もあるのだと、そんなことを思った。