第4章 夏、紺青の海へ 9

 看護学校の課題を終えてクインは綴りの右肩を紐でとめた。ぱらぱら読み返しても全く欠損が無くて我ながらいい出来だ。その欠損には、わざといくつかの間違いを混ぜてあるところまで含まれている。
 ……幼くて魔導論文を書き散らしていた頃、欠陥を故意に作ることなど思いもしなかった。あの苦い失敗はしてはならない。目立ってはいけない、看護学校とて医療行為の一端に噛む故に、魔導の扱いは教えているのだから。
 医療と魔導は既に切れない縁で結ばれつつある。黒死の病に唯一効果のある薬は魔導と医術の融合によって出来上がるものであるし、その他にも難病といわれるものに対処する高価な薬には大抵魔導の効果が組み込まれているのが普通だ。
 医者の為の医療学校と看護士のための看護学校は多少内容は違うが、行き着くところは人間の病と向き合う為の技術であって、医者が基本的な魔導の扱いを知っていると同じように看護士にもそれが求められている。
 そして、それゆえに魔導学を修めている学生たちとの研究会が存在した。クインの通っている学校にもある。大抵は優秀な学生を高等学院へ出向させるのだ。
 だから成績も適当な匙加減を加えて卒業には支障ない程度に押さえてある。普通よりは少し上あたりの階層を彷徨わせている成績と合わせて、同じ学生同士の研修会でも目立つような発言は慎重に避けた。
 自分は、よくやっている。クインは自己満足に小さく笑うと課題の綴りを鞄へ放り込んだ。
 今日は仕事もないし、学校は明日の夜だ。
 さて、とわざとらしく腰に手を当てて机の斜め上に切られている窓の向こうを見やる。白くなめらかな皇城の壁面が一面夕映えの薄陽に染まり、雲のない空は夏の訪れを宣言するような、突き抜けた朗らかさだ。
 どうしようかなと首を傾げてみる傍から自分がひどく機嫌良く笑っていることにクインは気付く。
 けれどそれは少しも嫌な気持ちにならない。何かの特別なことがあったわけではないのに、心の底が仄かに明るくなったような気分になる。
 それが何のせいなのかは知っていた。
 エミリアは唐突で気まぐれとしか言いようのない頻度と時間にまたがる彼の訪れを、いつでも喜んでくれた。他愛ない話、単なる雑談、それに愚痴、そんなことをいちいち真剣に笑ったり驚いたりしてくれる。
 甘えているんだということは分かっていても、居心地のいい許容を手放す気はなかった。ほんの一時態度を弛めていた客たちにも最初の頃のような権高い表情を作れるようになってきている。客に媚びなくなってきたことで、蓄積されて行かなくなったものもあった。
 やっと自分の均衡を自分で操り始めたようで、それも心穏やかにしてくれる。
 全てが良い方向へ転がり始めた。
 追っ手のことや自分の出生のことは追々考えて行かなくてはならないだろうが、ともかくほっと呼吸を温くできる場所があったことが何より大きい。
 どんな時間に行っても彼女は大抵一人で絵を描いていた。静物もあったし、窓からの風景もあった。
 その全てに共通するのは彼女の素朴で清潔な明るさで、それを線画の奥に僅かに感じるたびに、何故だかひどく嬉しくなる。
 そして急に照れくさくなってきて、髪をかき回してクロゼットを開けた。一瞬迷って夏の薄く柔らかいシャツを選んで簡単に着替える。
 客との商売の時は女装も多いが、身長や骨格の堅さが次第に彼を大人にしていった。決定的な違和感ではなかったが、既に女装よりは男装のほうがしっくり馴染むようになっている。
 度の入っていない眼鏡を探していると、部屋の扉が開く音がした。クインは振り返る。
 このアパートへ訪ねてくるのなら、今はチアロくらいしかいない。ライアンはあの女を連れてどこかへ出ているようで、この一月、消息さえ聞かなかった。
 居間の方へ出るとやはりそれはチアロであった。クインに向かって軽く手を挙げ、途中で買ってきたらしい袋を長椅子にそっと置いている。硝子の鳴る音がしたから水の瓶も入っているのだろう。
「ありがとう……仕事?」
 クインは袋の中身をざっと覗きながら言った。チアロはひどく曖昧な返事をして、お前は、と聞き返した。
 クインは一瞬怪訝に友人を見る。何かを聞いた時に質問で返すようなことは今まで無かったからだ。
 淡い不審がうっすらと胸に広がっていく。エミルのことは知ればいい顔をしないだろうという予測が先にあったから、クインは別に、と答えた。適当にいつも引っかけている部屋着でないのは本当だったから、素早く付け足す。
「別に、買い物でも行こうかと思ってただけだよ……どうかしたのか」
 じっとチアロを見ると彼はうんと頷いて笑ったが、やはり薄墨のような曖昧な予感が表情に張り付いている。クインは長椅子に座り直してどうしたんだよと強い声を出した。
 チアロはそれで肩をすくめた。
「怒るなよ、別に駄目だっていう訳じゃないんだから……俺はただ、彼女の所にでも行くのかと思ってさ」
 彼女、という単語が耳に突き刺さってクインは一瞬ぎょっとする。こんな言い方をするのならエミリアのことを確実に知っているのだ──ということに思い至り、次の瞬間にそれが苦い感情に、どうしてという疑問は監視されていたのだという推測に変わった。
 クインは顔を歪めた。
「……俺が自分の時間を何に使っても自由だろ」
 声音はすり切れたように低かった。
 チアロは苦い笑みを崩さない。違うと言葉で否定されるよりもそのほうが胸に応えた。
「何だよ、俺がどうしていようと関係ないんだろう、ライアンだってそう言ったじゃないか」
「クイン」
 チアロは困ったような声を出してクインに近寄り、肩を叩こうとした。
 なし崩しに宥めるような仕草をクインは咄嗟に振り払う。ライアンに突き放された怒りをいつもチアロがそうやって慰めようとしてきた──今度も同じような対処をしようとする友人の態度が面白くなかった。
 チアロは諦めない。再びクインの肩に手を伸ばし、今度は捕まえて優しく揺すった。
「なあ、何で駄目かは分かるだろ? 今ならライアンもオルヴィもいないし、他の幹部連中にはまだばれてないし、どうにかなると……」
「うるさい」
 クインはチアロの手を押し戻した。チアロは僅かに目を見開き、視線を落とした。それがひどく傷ついたような表情であったことで、クインは微かに罪悪感を覚える。
 自分が辛く苦しくて荒れるだけだった時間に、傍にいて話を聞いてくれたのはチアロだけだったのに。
 ごめん、と決まり悪く呟くと、チアロの方は温んだ笑みになった。
「……何で駄目なのかは知ってるはずだ、クイン。今ならあんまり深い傷にはならない」
 クインは首を振る。
 やっと手に入れた場所を、この一言で放棄する気になど全くならない。
 エミリアが彼にふんだんに与えてくれるなだらかな日だまり、突き抜けて明るい空気、何よりも心穏やかに彼女の優しさにしなだれて覚える安息を手放すなどどうして思えるだろう。
「いやだ」
 ふて腐れたような声でクインは言った。ぷいとチアロから視線を逸らす。友人は彼の肩を撫でるようにさすり、ますます優しい声を出した。
「なぁ、頼むよ。……そのぅ……お前があんまりライアンの所有の範囲から逸脱すると俺もちょっとまずいんだよ、なにせライアンの留守中のことだからさ。俺のこともたまには考えてくれよ、な」
 柔らかい声だった。クインは横目で友人を見やる。彼に縋るような言葉とは裏腹に、その顔は少しも困惑していなかった。むしろ、淡い哀しみのような気配さえする。チアロは自分を下げてでもクインを引き留めようとしているのだ。
 それはクインには出来ないことでもあった。だからクインはやや態度を和らげる。そんなことまで友人にさせたことは確かに罪悪感になった。でも、とクインは顔を上げる。チアロの配慮を嬉しく感じ取るのと、エミリアに自分の負の部分を預けることは全く比重が違うことなのだ。
「お前しか知らないっていうなら、黙っててくれよ──なぁ、いいだろ? ライアンはあんなだし、俺は……俺は、ただ……別に恋人とかじゃないんだし……」
 ねじれた言い訳を呟きながら、クインはチアロの腕を掴んだ。チアロは首を傾げて溜息になった。
「クイン、俺は忠告をしているんだよ。お前はライアンのものだ、違わないだろう? なのにタリアの外で女と会ってる。他の幹部たちに知れたら、彼らはお前を処分しろと言うはずだ」
 クインは煮え切らない返答を喉で鳴らす。チアロの言うことは出鱈目の恫喝ではなく、十分に予測される未来であった。
 最終的にはライアンの胸一つでもあるが、幹部たちが口を揃えて処分を吠えれば無視することは考えにくい。配下の意見を尊重するというよりは、それによって傷つく彼の体面と矜持を優先するだろうということだ。
「ライアン、いつ、帰ってくる……」
 苦い気分のままクインは呟いた。チアロは僅かに迷った後、来月の半ばにはと答えた。一緒に行ったオルヴィからの連絡があったようで、大体の経緯は知っているらしい。
「だから頼むから、もう」
 行くなと言いかけたチアロの言葉を、クインは素早く、強く遮った。
「いやだ」
 殆ど泣きかけているような声だと自分で思った。
 けれど、それが却って自分の意志を強く固めたような気持ちを連れてくる。いやだ、とクインは繰り返して素早く、勢いよく立ち上がった。チアロが驚いたように微かに目を瞠る。それは本当に不意を付かれた時の彼の癖だ。
 僅かにそれで溜飲を下げて、クインはいやだと三度目を言った。
「ライアンは何もしてくれない、俺はもう奴のことを考えたくないんだ、もう嫌なんだ、うんざりしてるんだよ、どうして分からないんだ!」
 叫ぶ自分の声に吊り上げられるように、苦く痛い記憶ばかりが脳裏からあふれ出てくる。ライアンの冷たい声音までを思い出してクインは一瞬上がりかけた涙を飲み込んでもう嫌なんだ、と怒鳴った。
「分かってる、それはよく分かってるから」
 宥めようとするチアロの肩を軽く突き飛ばし、クインはたまたま放り出されていた眼鏡を掴んでまっすぐに扉へ向かう。待てよと追いかけようとするチアロを一瞥振り返り、何が分かってるんだよと低く小さく、唸るように言った。
「分かってるなら放っておいてくれよ、俺は大丈夫だから」
「クイン、でも、」
「ライアンは勝手だ、だから俺もそうするんだ。何がいけないのかなんて、知るかよ!」
 鈍く冷たい怒りのままにクインは吐き捨て、外へ走り出た。乱暴に扉を閉め、階段を駆け下りる。路地は既に紫色の暮刻の中で、建物の輪郭線までが不明瞭な闇に沈みつつある。
 普段使う地下水路を放棄して、ただチアロとその向こうにいるはずのライアンやその幹部たちへの当てつけの為だけに、クインは地上を駆け出した。
 エミリアに会いたい。何を言われても、どんな制約があっても、彼女に会ってこの吹き上がってくる怒りや苛立ちを宥め鎮めてやりたい。会いたい──それだけでいいから。
 走ってタリアの境界門を抜けると、急速に力がゆるんだ。膝に手を当ててしばらく呼吸を整え、エミリアの住居であるアパートへ歩き出す。部屋を飛び出した時にチアロが何かを叫んでいた気がするが、それはもう分からない。
 それから黙って突き飛ばされてくれたのが彼の優しさであることに気付き、クインは溜息になった。チアロのことを憎くなど思えない。
 だからそれはその果てにいるはずのライアンへと流れ込んでいく。憎しみだと単純に言い張るよりも遙かにねじれている感情が強く、強く、体の中に根付き増殖していくのがはっきりと分かった。