例えばそれも愛だとすれば4

 陛下の潔斎は少し長い。皇帝は地上に於ける神の代理人、だそうで、普通の人とはやっぱり違うらしい。
 僕にはこの国の宗教のことは良く分からないけど、陛下があまり熱心に信仰をなさる方ではないのは知っている。無神論というのとはちょっと違って、単に面倒だというのが理由の大半だと思っているのだが、如何だろうか。
 潔斎の終了にはどうにか間に合って僕は軽く会釈しながら、出てこられた陛下の足下を照らすための灯りを持った。
「お早う、ソール」
 陛下はまだ少し眠たそうだ。新年会というのは夜明けを待って始まるもので、だから普段なら遅い就寝となる時間に起こされるのだから無理もない。
「ケイは出てきている?」
「はい、ちょっとお疲れ気味ですけど」
 僕の返答に陛下は少し笑い、僕の肩をいつものように叩こうとして手を引っ込めた。新年の宣言が済むまでは祓っていない他人に触れるわけにはいかないらしい。司祭がうるさいからなあと陛下は苦笑し、ケイ参議官のご様子を聞いた。

「あいつ、何であんなに働くのが好きなんだろうなあ……」
 歩きながら陛下はそんなことを言う。ケイ参議官がこの場にいたら絶対にただじゃ済まない台詞だ、と思っていると陛下は僕の顔を見て華やかに笑った。
「……と、俺が言ったことは奴には秘密だからな。新年に休むために年末必死で働いたはずだから少しは休ませてやらないといけないけど……賭けてもいいけど奴は明後日くらいから執務室で何か始めるよ。学生だった頃も、試験の2ヶ月も前からこつこつノート作る奴だったからな」
「……陛下はケイ参議官とは長いんでしたっけね」
 まあ、と陛下は笑って少しばかり遠い目をした。
「年月で長いのはリューなんだけどね。学生寮で一緒だったのがケイは大きいんだろうな」
 ラストレアでの学生時代を思い出すのか、陛下は懐かしげに笑った。当たり前だけど僕の知らない時間の遠い気配が、何だか羨ましい気が少しだけした。

「陛下はじゃあ、ケイ参議官を一番にご信頼になってるんですか?」
 僕が聞くと、陛下は少し怪訝に眉を上げた。
 この方は普段から、こうした仕種の一つ一つがどこか絵画みたいにぴたりとなる。こればかりは陛下特有だ。他の誰も真似の出来ない、その場で単純に笑ったり喋ったりするだけで確実に空気の色が変わるような、そんな匂やかさ、というか。
「ソール、俺が誰を一番に信頼しているとかいうのは意味がない。みんな、一人一人役割と責任が違うんだから。いいね」
 それでもぴしゃりと叱られて、僕はごめんなさいと呟いた。陛下の仰有ることも良く分かったから、申し訳なかった。
 僕が黙ってしまったのに気を使って下さったのだろう、陛下は少し明るい声で分かったらいいさ、と笑った。
「俺はリュードに立法を任せる気はしないし、ガーンに女がらみの相談なんかしないし、ケイに軍隊を指揮させようとは思わないってことだよ」
「……何だかすごく怖い想像になっちゃいますね」
 だろう?と陛下は笑った。僕は頷きながら、陛下は誰にも投票しないと言ったイ将軍とリュード官長の言葉の正しさを実感した。……というか、ケイ参議官の『足りない』って、何だろう。

 陛下が待合室にご到着になると、ケイ参議官が軽く手をあげた。イ将軍は会釈をし、リュード官長は頷いている。待合室の隅の椅子でサファ将軍と何かお話になっていたシエルナ将軍が立ち上がり、一礼するのを陛下は手で押さえた。
「久しぶり、ケイ。生きてたな」
 真っ先に陛下が口にしたのはそれだった。ケイ参議官はまあね、と軽く笑い、エルス、と例の回覧をひらひらさせた。
「お前は誰にする? 投票の話を今、2人としてたんだ」
 ケイ参議官は他のお2人と頷き合う。投票と聞き返す陛下にほら、とケイ参議官が例の回覧を差し出した。それを陛下が受け取る。
「──何だよ、これ」
 中身をご覧になった陛下のお顔が少しだけ不機嫌に曇り、やがてそれは確実にご機嫌を損ねたようだった。大きく溜息をついて、首を振る。

「……ソール、お前がさっき言ってたのはこれのことか? 全く、こんな下らない企画、一体誰が思いつくんだよ」
 リュード官長が指で、イ将軍が視線で、僕を刺した。陛下の視線が戻ってきて、僕は俯く。先程ちょっと叱られたばかりで恥ずかしくて仕方がないのだが、でも嘘をつくことでも言い逃れをすることでもなかった。
「……済みません、僕です……」
 陛下は少しの間、黙っていた。僕は本当に陛下を怒らせてしまったのかとますます小さくなって下を向いた。何をおっしゃりたいのかは分かる。さっき回廊で言われたことをそのまま、今口になさる気にもならないのだろう。
 僕は本当に自分が情けなくなってきてもう一度、済みません、と呟いた。やがて陛下が苦笑したような吐息を漏らした。僕は顔を上げる。回覧を見ながら陛下は仕方なさそうでもあるが、確かに笑っていた。
「……お前、人気ないなあ、ケイ」
 そんなことを陛下が言うと、ケイ参議官も苦笑するのだった。
「みんな、真の実力者が誰か知らないんだよ──ところで俺たち、お前が誰に投票するかで賭をしてるんだけど」
「ふうん……じゃあ……足らない」

 あ、と僕は顔を上げた。ケイ参議官が僅かに口元を痙攣させた。あれは通称、してやったりの顔、と呼ぶ。ちらっと残りのお二方を見やると、官長は青くなり、イ将軍は僅かに顔が引きつっている……一体何を賭けてしまったのだろう。足らない?とケイ参議官の促しに応じるように、陛下はやはり共用のペンを取った。
「足らないよ」
 陛下は繰り返すと、回覧の一番下にペンを置いた。くるくるペン軸が回っている。僕はそのお手元を見つめ――そして陛下、と呟いた。何だか鼻の奥がつんとする。
 ソルムガード・ビリア。それは僕の名だ。
 陛下は僕の名前をケイ参議官の下に書いて、回覧の残りの余地一杯にご自分の署名を大きくなさった。
「俺は彼が一番だと思うな」
 陛下はそういって、柔らかく笑った。僕は……情けない話だが、胸が詰まってしまって何も言えない。ソール、と言われて僕は頷き、何度も何度も頷いて、陛下から回覧を受け取った。
「これはお前が持っておいで。次に何か企画するなら計画の時から俺に相談するように」
「──はい!」
 僕は元気良く返事をし、ケイ参議官を吹き出させた。……陛下は釘をさしたおつもりだったらしい。