翼在る場所2

 ……どこか遠くから揺すられるように、途切れ途切れの嗚咽が聞こえる。暗黒のように沈静していた意識が引きずられるように戻り、アスファーンは目を開けた。
 一瞬見覚えのない天蓋布に瞬きし、自分が誰の閨にいるのかを思い出して薄暗く笑った。
 殊更ゆっくり身を起こし、微かに身じろぎする異母弟の背を丁寧に撫でる。喉で呻いた彼の反応に構わず、寧ろ宥めるように丁寧にそれを続けた。
「……やめて……」
 やがて掠れた声がした。アスファーンは背を緩やかに往復する手を止めて、曖昧な返事をした。
 自分の手を彼が振り払えないのは当然だ。無理矢理関係を持ってから既に四ヶ月が過ぎようとしているが、弟が必死で抵抗するのは変わらない。
いちいち押さえ込むのも面倒になって、腹に一発くれて大人しくなったのを手首をまとめて結わえ、寝台の天蓋柱にくくりつけてある。
 終わった後で少しまどろみに溶けていたのだが、戒めはそのままだ。

 もう一度、同じ声が同じ事を言った。アスファーンは小さく笑うと異母弟の背を半端に隠す黒髪を払いのけた。
「お前はいつまで経っても愛想がないな……」
 言いながらアスファーンは喉で笑った。自分の言い草が不意に可笑しくなってきたのだった。
 弟の悲鳴も懇願も、全てを自分の都合の良いように歪めて受け取るように振る舞う行為がこれほど容易く、且つ、自分に満足感を与えるものであると思ってもいなかったのだ。
 弟の返答はない。が、彼が微かに身を震わせたのは分かった。新しい涙を堪えているのか気弱な怒りを抑えているのか、そのどちらでも構わなかった。
 アスファーンはゆるく笑いながら露わになっていた弟の隆起する肩胛骨の付け根に唇を押しあてて、強く噛んだ。
 息を呑む弟の反応は、最初の夜から同じだ。全身から滲み出る、拒否の空気。

「私は忍耐強い方だと思うが、エルシアン。あまり焦らされるとお前のことを憎しみたくなるよ」
 エルシアンが枕に顔を押し付けたままでゆるく首を振ったのが分かった。
 アスファーンは長々とした溜息をついてみせ、寝台から降りて自分の衣服を拾った。流石に10月を過ぎると夜明け前には張り詰めるほど冷える。
 適当に身支度を整える。アスファーンの暮らす宮からエルシアンの部屋までは中庭をよぎり、長い回廊を歩く。中庭以外は王族専用の通路を使うから誰かに会うことも姿を見られることも殆どないが、侍従や侍女達の世話の対象としての自分を無視することは出来ない。彼らの仕事は仕事として、きちんと務めさせるのがよい主人であろう。
 風よけに羽織ってきた皮の外套に袖を通しながらアスファーンは寝台から離れ、渋く枯れた色のカーテンをそっとずらした。
 外はまだ暗い。夜明けは日を追って遅くなっている。そろそろ潮時であるといえた。

「また来るよ、私の愛しい恋人……少しは泣きやんで、待っているくらいの殊勝なことを……」
「兄、上」
 アスファーンの言葉を、弱くはあったがエルシアンが遮った。アスファーンは優しく返事をした。
 関係を持って帰る朝にエルシアンが言うことなど知れていたが、言わせてやるのも彼の余裕というものであった。結局のところ、エルシアンはアスファーンとの関係を拒否できていないのが現実だからだ。
「こ、これ、ほどいて……よ」
 肘で身を支え起こしがらエルシアンが言った。アスファーンが少し眠っていた間にも必死でふりほどこうとしたのか、固い結び目の辺りの繊維がほつれている。口でどうにかしようとしたのだろう。
 その消え入りそうな声音にアスファーンは笑った。そのままにして帰るつもりはなかったのだが、時々エルシアンは勝手に罠に飛び乗る。自分で墓穴を広げているのだと分からないのは混乱しているせいだろうか。
「ほどいてもいいが……次の約束が欲しいな」
「やく……そく?」
「そうだよ。恋人同士なら次の約束をしてくれてもいいだろう?」
 僅かな時間を置いて、エルシアンの顔に血の気が戻ってきた。何を言われているのかを理解したのだ。
「嫌だ!」
 返答はまさしく反射といえた。アスファーンはそうかと軽く頷いた。
「だったら好きなだけそうしているんだな。お前が一体どんな言い訳をしたのかは、その内、噂になって流れてくるだろうよ」
 素っ気ない言い方をすると、エルシアンが喉を詰まらせて喘いだ。異母弟は決してこの関係を誰にも告げないだろうという確信は最初からあったが、ここまで徹底していると可笑しさと共に僅かながら哀れさもこみ上げてくる。

 それは思いがけず、自分の表情を柔らかくしていたようだった。
 エルシアンが自分を見上げて悔しさと現実とを天秤に掛ける、微妙な顔付きをした。これはいつもそうだとアスファーンは思う。理由を付けて楽な方へ流れ現実と妥協することをさほど重大に考えていないのだ。
 ──自分には耐えられないことでも、他人には違う。そう、自己は唯一であって誰も成り代わることは出来ないし、まして他人にもなれはしない。どんなに呼んでも欲しても届かないと知りつつも。
 例えば、人が鳥にはなり得ぬように。脳裏を何かの羽音が掠める気配がした。

 アスファーンは肩をすくめて大仰に溜息をついてみせた。エルシアンがその仕種で怯えるような目に変わった。
「お前はいつも何か要求するばかりで私の願いを聞いてくれたことなどないな……次の約束くらいはしてくれてもいいだろう?」
「い、つも……いつも……俺を好きにしてる……じゃないか」
「私はお前の口から愛が聞きたいんだよ──いつまで恥ずかしがるつもりだ、思わせぶりな女みたいな真似をする」
 子供に笑うように穏やかな顔を作りながら、アスファーンは寝台に腰掛けて弟の前髪をかき回した。エルシアンがぐしゃりと顔を歪めてその手を振り払うように余所を向いた。
 ほんの僅かに肩が震えているのが分かる。傷付き、血を流しながら、それでも敵から逃げようとする弱い獣であるのが見えた。
 それは多分、小鳥ほどにか弱い。アスファーンは胸に沸いた怒りを腹に静めるように深く呼吸した。

「……エルシアン」 
 低く呼ぶと異母弟は身体ごと硬直させてから、ゆっくり振り返った。瞳がかち合うと、弟の焦点に映る自分は酷く暗い目つきで笑っていた。
 一瞬の後にふっと目の前からそれが消えた。エルシアンが視線を外して俯いたのだ。唇を硬く結んでじっと枕の上を睨んでいる弟の肩を掴み、アスファーンは耳元で低く言った。
「あまり時間がない、どうするのか決めなさい――そんなに怖い顔をするな、愛しい弟よ……お前が勝手に部屋に入るなと言うから次の予定を聞いてやっているのに」
 エルシアンが首を振った。
「……お願いだから、もう、こんなこと、……」
「やめる気はない。愛している者を手に入れるために手段は選ばないと私は決めている」
 エルシアンは何かを言いかけ、ゆるゆると首を振った。俯いてしまった首の角度のせいで、長い髪が表情を隠している。
 だが、そこにあるのがいつか遠い空の下でアスファーンが見た、何処までも明るく信頼に満ちた光でないことだけで十分だった。アスファーンはちらりと窓の方へ視線をやる。時間はやや迫っているように思われた。

「エルシアン……返事を焦らすのはお前の常套手段だろうが、私にも都合があってな。あまり私を苛立たせても、お前にいいことはないと思うよ」
 穏やかに口にしながらもそれは恫喝であった。エルシアンもそれは分かるらしく、じっと俯きながら兄上、と呟いた。それは普段聞いているどの声よりも低く、今まで聞いたどの悲鳴よりも苦痛が露わだった。
「……どうして、こんな……」
 彼は何千回も自問自答しているのだろうとアスファーンは思った。アスファーンの側だけに完全なる非があるのではなく、自分にも何か落ち度があったのではないかと考えているのだ。
 それは間違いではなかったが、反面、何度繰り返して検証しても答えが見いだせないところにこそ、エルシアンの無自覚さ──これを誉め言葉にするならば天真爛漫さ──の深い病がある。病んでいるのは自分だけではない。自分は知りすぎ、これは知らなすぎるのだ。

 何故と聞かれたときの返答なら決まっていた。聞かれた回数と同じだけ繰り返してきた言葉をアスファーンは淡々と答えた。
「愛していると何度言えば信じて貰えるのだろうな」
 言ってからアスファーンは苦笑した。同じ事を聞くエルシアンもその度に同じ事を言う自分も、揃って飽きないものだと思ったからだ。
 その笑みを何と思ったのか、エルシアンは苦痛と懇願の涙で若干腫れた瞼を伏せた。睫に微か、水滴が戻ってきているのが見える。アスファーンは何故か笑みが自分の頬に浮いてきたのを唐突に自覚した。
「泣くな、あまり私を困らせるな。──ああ、本当に時間だ」
 アスファーンはエルシアンの手首を硬く縛る飾り帯の結び目を掴んでぐいと引き寄せた。勢いでエルシアンが体勢を崩し、寝台の上を僅かに引きずられた摩擦に顔を歪めた。
「さ、次の約束を。いつがいい?」
 エルシアンは黙って首を振る。頑なではあるが断固とした拒否の言葉を吐かない逃げの姿勢が苛立ちを煽った。
 エルシアン、と強く促しても返答はない。分かった、とアスファーンは寝台から立ち上がった。
「では、お前の恋人に関する派手な噂を待つことにしよう」
 ぴしゃりと言い捨てて背を返すと、後ろから兄上という切迫した声がした。振り返るとエルシアンは今にも崩れそうな表情で、じっとアスファーンを見つめていた。薄暗い灯りの中でもはっきり分かるほどに青ざめた顔色が、結局の結論を教えてくれた。
「……つ、次……は、……来週の末が、学院が、休みなので……」
 呻くような声音が、身体ごと震えていた。アスファーンは頷き、再び寝台の側まで歩み寄った。

 寝台の上にぺたりと座り込むように身体を立て直したエルシアンが、黙って手首の戒めをアスファーンの前に差し出した。アスファーンはそれに手をかけ、そしてうなだれている弟の顎に指をかけて上向かせた。
「来週末がいいんだな……聞かれたことには答えなさい」
「……はい」
 そう頷いた途端、エルシアンが耐えられないというように目を閉じた。涙が今までの轍を拾うようにして流れていった。
 アスファーンは軽く相槌を打ち、自分が結んだそれを丁寧にほどいた。エルシアンが散々暴れたせいで、帯が巻かれていた部分は赤くなっている。そこを指で撫でると痛むのか、顔をしかめた。
「……骨はどうにもなっていないようだな。袖から見えないとは思うが、気になるなら腕輪でもはめておきなさい」
 エルシアンは再び頷いた。アスファーンは少し笑ってエルシアンの頬を両手で挟み、まだ水気の残る涙の痕へ唇を押しあてた。
「では、また来週。楽しみにしているよ……」
 囁くと、エルシアンが声を立てずに泣き出すのが分かった。