翼在る場所3

 王族専用の通路を夜に行く者は殆どいない。
 元はやはり万一の際の秘密の通路として張り巡らされたものであるらしいが、シタルキアの王都がザクリアに定まり王城が完成してから200年以上を経過すると理由などはどこかへ消える。今は王族が人目を気にせずに後宮を行き来するための道具であった。
 一度だけ異母兄とすれ違ったことがあるが、この兄はウォーガルドと違って自分に敵意を抱いていない。簡単にお互いの目礼だけで通り過ぎることで流していた。
 エルシアンの部屋近くで回廊から抜ける。巡回の時間は知っているから誰かに見咎められることは考慮しなくて良かったし、エルシアンの部屋に入るところを見られたからといって、自分が窮地に立たされることなどあり得なかった。

 居間に入っていくと、書斎の方に灯りが見えた。エルシアンはまだ眠っていないのだろう。
 学院の成績は急落していると聞いている。後宮内にある王族の学問所ではなく、王立とはいえ市井の民の混じる中央学院への進学をエルシアンが願ったときに後見したのが既に王太子となっていた自分であった関係で、エルシアンの成績の事は定期的に知らせを受けていた。
 いざとなれば成績の下降を理由に学院を退学させて王太子府の仕事に就かせてもいいし、逆に退学をちらつかせてエルシアンの譲歩を更に引き出してもいい。どちらでも自分の好きに出来る状況といえる。
 そしてエルシアンも退学のことは既に分かっているのだろう。必死で取り返そうとしているのに違いなかった。

 ただ、とアスファーンはゆるく笑う。アスファーンは既にエルシアンに自らの片腕となり国政を導く役割を担わせる将来を想定していない。エルシアンがいるべきは、自分の従順な恋人という位置だ。愛するためでなく、苦しめるための。
 その結果が破綻であることは分かっているが、恐らく破滅していくのはエルシアンの方だろう。こういう場合、自己をどれだけ強く持っているかで全てが決まる。
 書斎に入っていくとエルシアンはいなかった。机の上には書きかけのノートや資料が散乱している。インク瓶の蓋も開いたままだから、書庫だろう。学院の講義で作っているノートをまとめなおしているようだが、一目見ただけで、まるで進んでいないのが分かった。

 彼の脳裏を占めているのが酷く混濁した惑乱であることを証明するように、ノートの脇の付箋には切れ切れの単語が並んでいる。
 兄、何故、約束、違う、違う、駄目だ、父、欠点、成績──
 アスファーンは小さく笑った。ラジールとの戦線がようやく終着し、父は来週にでも王都に帰還する。既に式典や夜会などの段取りはほぼ終わっており、あとはその姿を迎えるだけに近かった。
 いつだったかエルシアンが父にこの関係を訴えると叫んだことがあったが、その心配をアスファーンはしていない。エルシアンの下手な脅迫に泰然と構えてみせればそれで済んだ。
 エルシアンの混乱は分かりやすかった。アスファーンの強い態度にどうしていいのか本当に分からないのだろう。

 自分なら、とアスファーンは再び唇をゆるめた。そもそも無防備に相手を信頼するかどうかという性質上の問題を差し引いて同じ目に遭ったとしても、エルシアンと同様にはならない。どんな事があっても自分を不当に傷つけ、侮辱した者を許さない。同じ事をして返すか相手を滅多切りに切り刻むかのどちらかであろう。
 そしてエルシアンに足りないのはその覚悟、自分で自分の中にある憎しみと向き合うだけの性根なのかも知れなかった。
 アスファーンは自分でも良く分からない吐息を落としてエルシアンのノートの乱雑な走り書きを指でなぞった。彼の混乱をなぞることで、何かが得られるものでもないと分かってもいるのだが。

 あ、という声がしてアスファーンは振り返った。書庫から戻ってきたエルシアンの顔が薄暗い中でも急に青ざめていくのが分かった。
 一瞬目があって、エルシアンが鮮やかに身を翻した。凄まじい勢いで書庫の扉を閉め、中へ閉じこもってしまった弟にアスファーンは苦笑する。
 何故彼は目先のことしか考えられないのだろう。書庫の鍵は部屋の鍵と共通なのだ。
「……エルシアン」
 扉をゆっくり叩くと、奥から帰れ、という押し殺した声だけが返った。僅かに混じった語尾の震えで、弟が恐怖と混乱のあまりに涙を浮かべているだろう事が分かる。
 アスファーンはこぼれてきた笑みを口元に拭い、エルシアン、と優しい声を出した。
「いつまでもそこにいるわけにもいかないだろう? ……今夜は話があって来たのだから、お前の嫌がることはしないよ」
「……嘘だ……兄上は、いつも嘘ばかり言うから……」
 エルシアンは扉のすぐ側にいるのだろう。声の位置が低い。座り込んでしまっているのかも知れなかった。

 アスファーンはそれに合わせるように書斎の絨毯に膝をつき、扉越しに穏やかに話しかけた。
「嘘? 嘘をつくのはお前の方だろう? この前の約束も平気で反故にして……」
 予測はしていたから、適当な口実を作って近侍に様子を見に行かせてもいるのだが。戻ってきた近侍の返答は思った通りにお部屋にはおいでにならない、だった。
 どこにいたのかは詮索するべくもない。皇太后のところだろう。届けは出ていなかったが、居座ってしまえば皇太后もむげに追い返すほどエルシアンに厳しくはなかった。
 エルシアンが扉の向こうで沈黙し、やがて嗚咽が零れてきた。これ以上は話しても無駄だとアスファーンは確信し、持っていた鍵で扉を開けた。

 エルシアンは果たしてその場に座り込んでいた。アスファーンの姿にはっとし、一瞬愕然という顔をしたが、鍵のことにはすぐ思い至ったらしい。更に顔を歪めてよろよろ立ち上がろうとした。
 アスファーンは難なくその腕を捕らえた。エルシアンが涙で掠れる声で、許して、と呟くのが聞こえた。引き寄せようとするアスファーンに反抗して、その腕が自分をやわらかく押し返そうとしたが、それは弱い抵抗だった。
 半ば引きずられるようにして、エルシアンを胸に納めて抱きすくめると、彼の全身が張り詰めたように緊張するのが分かった。
「私がこんなにお前を愛しているというのに、お前は本当に性悪な真似ばかり覚えていくのだな」
「ゆ……許して……」
 呻く声さえ震えている。アスファーンは薄く笑いながらエルシアンの髪を撫で、宥めるように背を撫でた。
「約束したのを無視されて私がどれだけ悲しかったか、お前は分かっていない……人の心を玩ぶのがどれだけ罪か分からないのか」
 そう囁くと、耳朶に掛かるアスファーンの呼吸から逃れるようにエルシアンが身をよじった。暴れる事もできないほど、全身が竦み上がっているようだった。

 弟が座り込んでしまうのに合わせて床へ膝をつくと、アスファーンは身体を離した。崩れるようにその場にうずくまるエルシアンの髪をかきあげ、アスファーンは普段は見えない首の付け根にきつくキスをした。赤い痕跡がぼつりと残った。
「……エルシアン」
 呼ぶと、異母弟はぎこちなく顔を上げた。表情の中をせわしなく揺れる恐怖と混乱と、苦痛から逃れるための必死の思考、それからアスファーンの真意を探る目。
 最後のそれがひどく神経を逆撫ですることを、多分彼は知らない。被害者なのだと声高に主張するその瞳が、どれだけ自分の罪に対して無自覚で無神経なのか、これは本当に分かっていないのだ。

 アスファーンは胸内で吐息を落とした。今自分を支配しているこの強烈な感情が愛であろうと憎しみであろうと、どちらでも構わない。自分を傷つけ、裏切るものは絶対に許さない。その手段がどうであろうと、必ず勝ち残り、生き残って自分の望む結果を手に入れてみせる。それが自分の中に根強く立ちおおせる芯である限り、エルシアンとは相容れないのかもしれなかった。
 兄上、と細い声が言った。アスファーンは視線を弟にやった。エルシアンの涙は既に止まりかけていたが、庇護を訴えてくる目つきだけは変わっていなかった。その弱々しさ。
 いつか弟が離してやった小鳥よりも遙かに力弱く、繊細で、他人から傷つけられては生きていけないのだと主張する目を見る度に、強い強い何かが腹の底から駆け上がってくる。

 昔、それを庇護欲であると名付けていた。例えば二人で小鳥を逃がしてやったときのことを思い返せば、そこにあるのは年齢の離れた弟を愛しむ気持ち、こちらを見つめる憧憬の視線を大らかに受け止めていた自分の残像だ。
 これを可愛いと思った、手を伸べてやろうと思った、それは確かに間違いではなかった。
 だが、もうそれはやってこない。過去を懐かしむ気持ちはアスファーンの中にもあるが、取り戻したいとは既に思えなかった。
 全ては、エルシアンのために。喜びも悲しみも、憎しみでさえ全てを還元すべきは、愛しくて殺してしまいたいほど憎い異母弟の、為に。

 アスファーンが黙っているのに怯えたのか、エルシアンは呼びかけただけで視線を伏せてしまった。苦笑しながらアスファーンはエルシアンの頬を愛撫した。
「こんなに遅くまで勉強とは熱心なことだ。明日の午後は空いているから、私が見てやろうか」
 アスファーンとて後宮内の学問所で一通りのことは学んでいる。実務に入ってから学問的な探求の方向からは離れてしまっているが、それでも自分で習得した知識は脳裏にまだ残っていた。
 エルシアンは殆ど反射的に首を振った。アスファーンはあっさり引き下がった。明日の午後は半月ぶりの休養となるはずだったから、あまり言い張ることでもなかった。
 忙しいのは事実だ。今は特に父王がラジールとの交戦の為に戦地に赴いているために、アスファーンに掛かる事項も多い。
「私も忙しくてお前に滅多に会いに来られないのだから、せめてもう少し歓待してくれてもいいだろうに……約束をしても無駄だということは分かったから、ならば今まで通りに私の都合のいいときに会いに来ることにするよ」

 アスファーンが言うと、エルシアンが顔を強張らせて首を振った。お願いだからやめて下さいという言葉が小さく零れた。アスファーンはエルシアンの頬を両手で挟んで上向けさせた。ほの暗い灯りの中で、弟の睫にかかる水滴だけが鈍く光っている。
「約束してもお前は平気で破るし嘘をつくからな……だから仕方がないだろう?」
「……や、くそくだって……俺が、したくて、そうした訳じゃ……」
「どちらがいいのか聞いたときに選んだのはお前だよ」
「それはあんたが脅したから……!」
「何でも他人のせいに出来るとは、都合のいい口だな」
 言うなりぴしゃりとアスファーンはエルシアンの頬を叩いた。大して力を込めたわけでもなかったが、エルシアンの瞳に溜まっていた涙が勢いでこぼれたのが分かった。アスファーンはエルシアンの肩をさすりながら囁いた。
「……お前が私に本心から詫びて次の約束を出来るというなら、私はこの前のことを許してやるつもりがあるが……どうする、エルシアン」
 エルシアンは首を振り、そして急に顔を上げてアスファーンに怒鳴った。
「俺は嫌だって、嫌だって何度言えば、何度言えば気が済むんです! 俺は、兄上のことをずっと尊敬してましたし、今でもそうしたい! あなたがどうしてこんなことを続けているのか知らないが、馬鹿げてる、正気じゃない!」

 肩を抱くアスファーンの腕を突き飛ばし、エルシアンは混乱し掛ける自分を押さえるようにこめかみに手をやった。
「正気? 恋にまともも正気もあるものか。お前の言葉を借りるなら、そうか、私はでは気が狂うほどお前を愛しているということになるな──お前も時々はいいことを言う」
 感心したように頷いてみせるとエルシアンが慌てたように首を振った。
「そ、そういう意味じゃなくて!」
「ではどういう意味だ? お前の言うことは訳が分からない」
「だから、俺は……俺に悪いところがあるなら直します、兄上の気に入って貰えるように努力します、だから、こ、こんなこと、もう、嫌だって」
 エルシアンが必死で言い募るのを無視してアスファーンは弟の襟元へ手を伸ばした。はっとしたようにエルシアンはそこを自分の手で押さえ、僅かににじり逃げた。
「努力する必要はない、お前はお前のままで私は十分だよ―――直すというならもう少し素直になってくれたらいいのだがな。お前がもっと従順になれば私は手荒い真似はしないのに」
 言いながらアスファーンはエルシアンが握りしめる襟の袷をその手ごと掴み、もう片方の腕を腰に回して引き寄せた。
 重心が変わってエルシアンが均衡を崩し、がくんと頭が落ちる。襟を掴んでいたせいでその細い首が一瞬しなり、苦しげに呻いた。

「けれどエルシアン、私は少し苛立っている、分かるだろう? お前は私に気に入って貰えるようにすると言いながら、いつまで経っても素直にならない。平気で嘘をつく──そうだな?」
 体勢を立て直そうともがいている弟の襟首を揺すると、苦しさのあまりかエルシアンは手をアスファーンの胸元へやり、服を掴んだ。起きあがろうとして半ば縋り付くような格好に、アスファーンは小さく笑ってその背を抱き寄せる。
 ようやく身を起こしたエルシアンが肩で呼吸をしているのに構わず、アスファーンはそうだな、と強く繰り返した。
 エルシアンは軽く咳をしながらアスファーンを見つめた。返答をしないのは、どう転んでも新しい言質になるのを怖れているからだろうか。
 返事、と叱りつけるように言うと、一瞬痙攣するように震えてから首を振った。

「ゆ──許して、許して下さ……」
 それが望んでいる返答でなかったことで、アスファーンは躊躇わず手をあげた。平手で打つのはそれでも跡が残らないからだ。
 派手な音と共に、エルシアンが床に崩れた。結局彼には直接の折檻がよく効くのだった。
「約束を放り出して置いて、ゆるしてだけで済むと本当に思っているのか、お前は? 馬鹿か? もっと言うべき事があるだろう」
 床から半身を起こしたエルシアンが、ばらけた髪の隙間から彼を見つめた。唇は半ば開いたまま、固まっている。何を求められているのか分かっていながら、最初の一言が出ない時の、弟のいつもの癖だった。

 アスファーンはもう一度手をうち下ろした。勢いでエルシアンが床に側頭を打った。
「言うべきことはまだあるだろう。分からないなら──」
「待って! ……待って、下さい……」
 手を三度あげようとしたアスファーンの腕にしがみつくようにしてエルシアンが遮った。じりじりした沈黙をやがて破ったのは、細く消え入りそうな声だった。
「……もう、しない、から……」
「何を?」
「や、約束を、破ることは、もうしないから……乱暴は、それだけは、お願いだから、やめて……」
 うなだれたままの呟きは、ひどく掠れていた。顔を上げないのは、きっとアスファーンを見ることさえ出来ないほど、怯えているからだろう。

 アスファーンはその返答に微笑み、いいとも、と優しい声を出した。
「お前がそうやって最初から素直に振る舞えば、私だって手酷いことはしないよ。だがエルシアン、まだ少し配慮が足りないな。こんな時は乱暴をしないでというよりは、優しくして欲しいという方が私の好みだが」
 エルシアンが俯いたまま震えだしたのが分かった。それを言えばどうなるのか考えるまでもないことであった。
 黙ったまま流れた時間にいい加減飽きた頃、アスファーンは弟の名を愛でるほどに暖かく呼んだ。
「お前に優しくするのも手荒にするのも、お前の態度一つだということを忘れてはいけない。お前が大人しく私に従うなら、私はお前を大事にしてやろうと言っているのに」
 返答はない。アスファーンは微笑みながらエルシアンの顎をつまんであげさせ、目があった瞬間にもう一度軽く頬を叩いた。

 ごくんとエルシアンが喉を鳴らした。見る見るうちに彼の瞳に涙が溢れてくる。
「や、優し、く……──」
 言いかけたところで込み上がってきた呼吸に押し切られるように語尾が消えた。アスファーンはゆったりと笑いながら、今自分が打ち据えた箇所をいたわるように撫でた。
「いい子だ、もう泣くな。さあ、立って……寝台まで歩いていけるね? ああ、いい子だ、もう泣かなくていいと言っているだろう……」
 エルシアンは僅かに頷いたようであった。おぼつかない足取りで寝台まで辿り着き、振り返ったとき、その顔に浮いていたのは見慣れた懇願だった。アスファーンは黙って首を振る。エルシアンは寝台の脇に棒のようにつき立ったまま、無言で俯いた。
 アスファーンは寝台の上に押しやるように彼を突き飛ばし、上着を剥ぎ取った。エルシアンはうつぶせのまま、じっと目を閉じて息を殺している。それは全てを堪えるときの呼吸であった。

 背の一点に、ぽつんと赤いものが目に入った。先の逢瀬の時にアスファーンがつけた噛み傷の跡だろう。既に傷は治っているが、まだ赤みが残っている。
 同じ場所にアスファーンは唇をあてた。この場所から皮膚を噛みちぎってみれば中が見えるだろうか。赤く湧き出る血液と絡みつく肉片の中に、折り畳まれた翼があるだろうか。──自由へ飛んでいくために、異母弟が心底欲しがっているものが。
 そんなものがあるはずはない。自由を飛ぶ翼など、何であれ持っていないのだ。あの小鳥だって、愛玩動物だから自由となっては生きていけないはずだったのに、何故それを言わなかったのだろう。小鳥を虜囚から解き放つことにかけた弟の夢を笑えなかったのは何故。

 人に翼はなく、飛び立つための空もない。境遇や運命などは甘受するためではなく、荒唐無稽な夢に逃避するためでもなく、克服するためにあるのだ。逃げるためではない。断じて。
 翼なき群衆に混じる奇跡がこの弟という人の形であることは認めない。奇跡の具現である翼の有無をいつか、この手で引きずり出してみせる。
 アスファーンはそれを証明するためだけにこの背を切り裂いてしまいたい衝動を、宥めながら、吟味しながら、いつものようにエルシアンを愛し始めた。
 エルシアンが父にラストレアへの転校を申し出たのはここから7週間後のことである。