翼在る場所4

 書類を作り終えて父の最終的な決済のために、アスファーンは自ら執務室を訪れた。父の執務室は禁園の庭を望んでいる。窓の下に赤い寒椿の群れが燃えているように一瞬見えた。
 入寮の手続きに関する入寮証明や転校手続きなどは単なる事務だが、王族の居住場所を移すとなると王の正式な署名が必要であった。
 転校という選択肢を全く想定していなかったのは自分の落ち度といえた。だからそのことは仕方があるまい。だが、このままにしておくつもりも毛頭なかった。
 エルシアンは自分の裏を掻いた快感に上機嫌極まりなかったが、愛玩物であった小鳥が、全てを自分の思うようには出来るものかとアスファーンはたかを括っている。
 父が転校を許したのは意外でもあったが、父はエルシアンを、見ていないようで見ている。いつでも視界の隅にいるときは、細心の注意を払っていることを既にアスファーンは知っていた。

 エルシアンの転校と転居についての一通りを説明すると、父王は黙ったままで書面に名と国号を書き入れた。これで全ては決定となった。書類の返却を受けながらアスファーンは父上、と言った。
「……エルシアンは王都にいるべきだと、再三申し上げておりますが」
 ──将来に渡って自分を補佐すべき弟たちの選定に掛かる事項であり、エルシアンを育成するつもりがあるからこそ今まで目をかけてきたつもりですのに、今私の手元から離せば意志の疎通がひどく難しくなります……
 父が了承した旨をエルシアンに告げて後も、アスファーンは数度その件を上奏し、ことごとく下げられてきた。今度も同じであろうと分かっていながらも口にするのは、いつか呼び戻すための布石でもある。
 以前からアスファーンがエルシアンを手元に置きたがっていたということは、父と、父の秘書たちの記憶に必ず残る。何か正当に見える理由を得たときに、意志を通しやすくなるであろう。

 父は軽く首を振り、立ち上がった。ついてこいと手振りで示し、先を行く。
 追って歩いた先は禁園であった。北風は肌を切るように厳しいが、王の許可した者以外は立ち入りを厳しく禁じられている庭園に、人影は勿論ない。
 椿の集落を遠く目に映しながら、父と二人で散策するためにこの場にいるのではないことは分かっていた。
「アスファーンよ」
 父が呟いた。
「あれのことは放置しろと以前にも言ったな」
「父上、私は彼を見込んでいるのです」
 父はちらりとアスファーンを振り返り、表情を殆ど変えぬまま、ならぬ、と言った。
「構うなと何度言えば分かる。ウォーガルドもお前も、あれに構い過ぎる」
 アスファーンは苦笑に似た表情を辛うじて作った。
「それは、あれの母のことで──」
 言いかけたとき、父王が黙れ、と一喝した。アスファーンは続けようとした言葉を飲み込んだ。

 長い沈黙が不機嫌に通り過ぎていく最中、鳥の羽音がした。アスファーンはついそれを目で探した。遠い空に翼を広げる小鳥の影に瞳を細めていると、父が溜息をもらしたのが聞こえた。
「……あれはこの城を出て行きたがっていた。昔から、まだ子供の頃からずっとだ。だからそれでよい。いずれ、折を見て臣籍降下を行う故、その積もりでいるように」
 アスファーンは黙って目礼し、そして呟いた。
「父上は、あれを一番目にかけておられる……それこそ何にも代え難く、誰よりも」
「黙れ、アスファーン。あれのことに口出しは無用だと何度言えばいい」
「──たまには名で呼んだら如何です? エルシアン、と」

 父は微かに怒ったように視線を強め、アスファーンを睨んだ。アスファーンはそれを見返した。再び小鳥の声がするまでの長い一瞬を、アスファーンは父と睨み合って過ごした。
「余計なことだ」
 低い声には紛れもなく深い怒りが込められている。アスファーンはいえ、とゆるく首を振った。何故か、底意地の悪い笑みがこぼれてくる。
「エルシアンというのが父上の中では真実の名でないからですか? 勝手に官吏のつけた名など、どうでもいいと思われている? ……あれは母によく似ている。その母と似た名で御心に呼ばれているのではないのですか」

 父王は返答をしなかった。沈黙のまま、禁園を横切っていく。やがて休憩用の温室が見えてきて王は足を止め、振り返らずに言った。
「アスファーン」
「は」
「満足か」
 聞かれた内容が把握できずにアスファーンは眉を寄せた。ちらりと王は振り返り、満足か、と繰り返した。
 父上、と怪訝に聞き返すと、王はようやく薄い笑みを浮かべた。
「──お前を哀れんでいる、という意味だ」
 アスファーンは顔を歪めた。王は温室の扉に手をかけて、半刻したら呼びに来いと言い残して中に消えた。孤独であることは王の宿命でもあり、周囲に理解を求めて回らない父の性質でもあった。
 一人で元来た道を戻りながら、自分たちに性質の近似を見出してアスファーンは苦笑しようとしたが、上手く笑うことが出来なかった。

《翼在る場所 了》