魔女の末裔1

『いやよ。返して』
 ──何を言ってるの? だってこれは私が貰ったのよ?
『違うの。私にくれたの。だから返して。返しなさいよォ……』
 ──泣かないでよ。分かったわ、あげるわ。だから泣かないでったら。
『何よ、偉ぶって。妾の子のくせに』
 ──あんたこそ物欲しがって。あんたみたいなの、きっと魔女になるわ。





 侍女の細筆が仕上げの芙蓉花を額に書き終えた。イルヴィスは鏡の中にいる自分に向かって歯を見せて笑顔を作った。いい出来だ。これなら陛下もきっと満足されるに違いない。
「とてもお美しいですわ、イルヴィス様……」
 侍女の賛辞に淡く頷く。誰からも褒めそやされる美貌はこの夜も溢れしたたるようで、自分でさえも一瞬ほれぼれするような造形の良さだ。
 濡れたように黒々と輝く二皮目とやや肉厚でぽってりした唇が、見る瞬間によって呻くような美女にもなるし、ひどく淫蕩に見える時もある。いずれにしろ、それはイルヴィスを所有する男を喜ばせるものであった。

 イルヴィスは化粧台の前から立ち上がり、夜会用の淡い色をした刺繍の肩掛けを羽織った。
 刺繍の図案は芙蓉の花だ。イルヴィスが暮らす小宮は通称を芙蓉宮と呼ばれている。それは芙蓉の花を愛した何代か前の皇后が、花の紋様や意匠でこの宮を飾り立てたからだ。階段の手すりや廊下を飾る模様硝子、それに白大理石の大岩を芙蓉花の形に彫り込んだ湯浴桶などの、豪奢を極めた品々が溢れている。
 自身はあまり贅沢な生活に頓着していないが、イルヴィスの暮らしぶりは仕える者たちの矜持と関わってくるからあまり要らないと言うことは出来なかった。だから自分から何かを欲しいとねだったり進められない内に何かをあつらえたりということは、イルヴィスはしない。その慎ましさが自分を守る盾であるのだ。
 人の噂と視線が幾千幾万の矢よりも強い、王宮というこの場所では。皇帝の寵姫という立場では。

 イルヴィスは参りましょうか、と小さく言った。この夜は皇后エグレットの二四回目の誕生日だ。通常寵姫という身分にある者が正妻の為の夜会に招かれるなどとは起こらないが、皇后エグレットはイルヴィスの異母妹であった。皇帝の求めに応じて妻となった異母妹の添嫁としてイルヴィスは後宮へ入ったのだ。
 添嫁というのは正妻に付随する侍女で、正統な妻に対しての一族の保険でもある。
 特に、エグレットの場合はイルヴィスを付帯させることが皇帝の最初からの望みであった。
 劣腹の姉イルヴィスは華やかで絢爛な美貌を、そして正腹の妹エグレットはたおやかで可憐な秀麗さを、それぞれふんだんに与えられて生まれてきた。
 お互いにさほど似ているわけでもないのだが、異母姉妹という血の共通が二人を関連づけたがる世間の口にあがるとこうなる──『帝都の二粒の真珠』。異母妹と自分は、そんな風に渾名されていた。
 それを欲しがったのが今や自分の夫である皇帝リジェス4世であり、喜んで差し出したのが父アリッシュ伯爵トルゼンであったのだ。
 皇帝は二人の姉妹の間をゆらぎながら生活をしている。どちらの寵が多いかなどという下世話な勘定は下々に任せておけばいい。自分にそれがあると信じていなくては、まともな神経など保てないと知っていた。

 後宮をめぐる回廊をゆっくり歩きながら、イルヴィスは内心でぬるい吐息になった。ひどく気が重い。
 エグレットとはここ二ヵ月ほど顔を合わせていなかった。後宮入りした四年前には時折の行き来もあったものを、皇帝の寵や二人の権勢を比較しては訳知りに囁かれる噂の数々が、次第に姉妹を遠ざけていた。
 たまたま行き会って話をすれば、どんな会話であったのかを十日ほどで宮廷の皆に知れ渡る。皇帝からの下賜品の取りざたで含み笑われたり、曰くありげに微笑まれたり、そんなことが続く内にエグレットに対して自分は次第に高い壁を築いていったようであった。
 幼い日々には妹と自分は手を取り合って遊んだはずであった。異母姉妹とはいえイルヴィスの母が早くに他界したこともあり、本当の姉妹同然に育ってきたのは事実だ。けれどそれは真実ではなかったと、イルヴィスは後宮に入ってから分かった気になった。

 自分は十分に美しい娘であると言われていた。少女と呼べる時代から、イルヴィスの周辺には沢山の求愛が転がっていた。
 けれどイルヴィスはそれに一瞥も与えなかった。正式な妻の子ではないにせよ、アリッシュ伯爵家は三大公家のひとつアルカナ大公家閥に連なっていて、上流貴族の末端に噛んでいるのだ。
 父は自分をことさら客人の前で可愛がって見せた。膝に置いて戯れてくれたのも一度や二度ではないのだ。父の愛情を受け取って誇らしげだった幼い日々には、自分は朗らかに己を誇示し続けていた。幸福であった。
 ──今なら分かる。それが劣腹の自分に『父親の愛情』という形の箔をつけるための所作であったことが。所詮本妻の子でない娘を政略婚の為の手駒とするならば、そんな付加価値が必要だったろう。

 今それを思い返せば、愛されていると信じていた自分の愚かさと、愚かさゆえの無邪気な傲慢さに、眩暈のするような怒りを覚える。自分の真実の価値など知らずに思うさま美しい羽を広げ誇る小鳥は一体どれだけ惨めだろうか。
 皇帝からの熱心な打診がイルヴィスの運命を変えたが、そうでなければ何かの景品のように勿体つけて、いずれ誰かに与えられたはずだ。イルヴィスはそのために愛されていたのだから。
 だからエグレットが自分を蔑み、冷ややかに笑うのは当然のことだ。けれどそれに不快感を感じることは全く別の話だろう。妹のいささか哀れんだような笑みだけは、イルヴィスは到底許容できないと思い定めている。
 そしてこの胸中を誰かに悟られることだけは、断じてあってはならなかった。自分自身の華やかな美しさにそんなものは似つかわしくない。
 イルヴィスはきりりと面をあげて夜の回廊をゆく。夏まだ浅い夜は、大きくあけた衣装の胸元を冷やして、尚更憂鬱な気分にさせた。

 広間には既に妹エグレットの姿があった。やはり大きく胸元の空いた衣装を着ているが、イルヴィスがそこを惜しげなく晒しているのに対し、彼女は開いた肩口から首筋にかけてを一面、繊細な銀レースをまとわせている。銀の華奢な輝きと、エグレットの持つ本来の清楚然とした細い美貌とがよく似合っていた。
「皇后陛下のご生誕の祝賀を、心よりお祝いいたします」
 イルヴィスは一段彼女より高い場所に座る異母妹に向かって臣下の礼を取った。公式の身分としては妹の侍女であるし、正妻に向かって吠える妾など論外だ。そんなものの為に魔女の汚名を着るくらいなら、いくらでも礼をつくす。
 皇后エグレットは頷き、細い声でおねえさま、と言った。けれど声音には幼い頃に屋敷の中で隠れ鬼をした時のような甘えた心細さも、彼女を呼んで泣いた逼迫も、何も潜んでいない。鉄のように堅い色をしている。
「おねえさまにお祝いしていただけて、嬉しいわ。おねえさまの時にもきっと派手にいたしましょうね。花火師と軽業師を呼んで、それから楽師も。きっと楽しいわ、陛下もお楽しみ下さるでしょう」
 エグレットの奢侈の計画にイルヴィスは柔らかに笑いそうになって、面伏せた。

 凛とした百合花のような雰囲気とは逆に、妹には贅沢という感覚を測る物差しが備わっていない。今夜の衣装は虹色のやわらかな光沢を放っているが、これは螺鈿貝の模様目をかき集めて練り込んだ合成絹糸、それにびっしり裾に入っている水泡の淡い模様は淡泊真珠を一粒一粒縫いつけた刺繍、いったいどれだけの金がこの衣装一枚に消えたことなのか、見当が付かない。
 無論そうした放恣を二人の共有の夫たる皇帝が容認しているのだから口出しは禁じ手であった。
 シタルキア皇国は既に六百年以上の歴史と、徴税をいっさい辞めてしまったとしてもゆうに二百年は国体を維持してゆけるだけの債権や権利を持っている。王宮に眠る富は巨万というしかなく、エグレットの衣装など取るに足らない。
 けれど、と伏せた表情でイルヴィスはひっそり笑う。要は金の多少ではなくて、浪費の度合いが人の口に上るかどうかだ。エグレットの放埒は有名で、宮廷のどこでも彼女の今日の靴や指輪を知ることが出来る。
 好きなだけ、浪費すればいいのよ。イルヴィスはじっとそれを眺めている。いつか何かが起こった時に、それは妹を糾弾する理由に充分なりうる。国庫を私物化した傾国の美女に与えられる名称は、もはや決まっているに等しい──『魔女』。

 この国の歴史が始まる以前から、既にその言葉は存在した。男を食い散らかす、死と破滅を招く美女を人々は、恐怖を籠めて魔女と呼ぶ。
 歴史に名高い稀代の魔女ナリアシーアは複数の王と一つの国家に死を与え、その末裔とされて火あぶりにされた魔女メリキトーナは皇帝とその皇子たち全てを死へ連れ行き、更にその末と認定された魔女アリッカは皇帝を殺して自らの一族全てを呪い殺した。
 魔女が生まれるのは必ず宮廷であり、魔女に関わった男たちは身を滅ぼす。
 魔女は発散される美しさで男を魅惑する。
 そして魔女は必ず呪う。
 国家と皇帝とその一族を。

 この六百年余り、この国は三人の魔女を輩出しているが、その誰もが魔女の名にふさわしい壮絶な死を遂げている。その四人目が、取り澄ました顔で自分と夫を共有する妹であって、何がいけない。
 この場合は幼い頃からの記憶の共有があるだけ厭わしさは深く、疎ましさは増すものであった。妾の子のくせにと幼い妹が自分を罵ったことだけは一生許すまいとイルヴィスは決めているが、それがなくともきっと今のように自分たちはお互いを許容できなかっただろう。
 持つものも持たざるものも、何もかもが似ていないのに、欲しいものだけが同じなのだ。幼い頃は下らない硝子玉や花や蛍籠だったそれは、今はもっと具体的で直截なものに変わっている。

 皇帝リジェス四世の視線や声音や微笑みはイルヴィスのたった一つの拠り所であったし、彼女の全てだった。柔らかな面差しと柔らかな声で、時折はイルヴィスに降り積もった黒い雪のようなものを溶かしてくれる。その穏やかな優しさに触れていると妹のことや他の細々した苛立ちも、全てが消えていくような気がした。
 皇帝として出会った彼は、穏やかに自分を愛してくれた。だから彼にとって邪魔にならず癒される存在でありたい。夫のことをイルヴィスは愛していたし、夫にも愛されていると信じている。

 だから妹のことを思い出す一人の夜にはますます彼女が憎らしかった。自分を蔑み冷笑を与えた者と、一人の男の吐息や身体やその他の全てまでもを共有しているかと思うともの狂おしい気持ちになる。
 それはきっと屈辱感と呼び変えても良かった。それを自分に与え、今も与え続けようとする妹を許せない。いずれ魔女の噂でもたって、妹が宮廷を去ってくれたら。その波風が自分によって立つのか、他人によって起こるのか、この二つには大きな差がある。出来ればそれは自分と関わりないことである方が望ましい。
 だからイルヴィスは奢侈に身を置くエグレットの傍らで、つとめて控えめに振る舞ってきた。全てはこれからだ。二人共にまだ懐妊の兆しがないが、これも大きく事態を流動させる。今は黙って妹のすることを眺めているのが良かった。

「……わたくしの時になど、結構ですわ、陛下。お心だけ有り難くちょうだいいたしますけれど、今日は一段と素敵なお召し物ですわね」
 妹ではなく衣装を褒める辺りがイルヴィスの意地であった。そう、と異母妹は微笑んで裾を軽くつまんだ。
「真珠をね、探すのが大変で。間に合わないかと思いました。ほら、裾の水泡……わたくしとおねえさまがよく遊びに参りましたエリール海岸の想い出のよすがにと繍わせたのです」
 何かを思いだしたのか、うふふとエグレットは含み笑いをした。端正な目元が微かにゆるんで、妹はこんな瞬間が一番美しい。イルヴィスは微笑んで頷き、素敵ですわと追従した。
 お互いの衣装の賛辞が一通り済んだ頃、エグレットが話疲れたというように葡萄酒を口にし、それから首を傾げて広間の扉へ目をやった。そこは皇族専用の回廊から通じている扉であった。妻の誕生の祝いの席だというのに、夫が姿を見せないなどとはあり得ない。

 遅うございますわね、とイルヴィスが呟くと、エグレットは頷いた。皇帝はイルヴィスとエグレットという異母姉妹の双方をこよなく大切に扱っており、その片方の祝いの席をもうけておきながら出席しないということは考えにくかった。
 どうしたのだろうと口にしかけた時、扉の前の番衛士が身動きした。扉に手をかけ、深く腰を折りながらも器用に開く。皇帝臨御であった。
 ほっとエグレットが溜息をついて立ち上がる。イルヴィスは妹の前に膝をつき、夫へ目をやった。 おや、と思ったのが最初だった。元々肌の白い夫であったが、それに青みがかかっている。血の気も薄い。顔色が悪いのだと一瞬後に気付き、イルヴィスは陛下と呟いた。
 その声で妹がちらりと自分を見た。同じ事を考えていたのだろう、イルヴィスとよく似た困惑が、その紫の瞳に浮いている。エグレットと視線を合わせてどちらからともなく頷き合い、二人は皇帝へ足早に近寄った。

「陛下、お顔色が悪うございますわ」
 エグレットが口火を切る。こういう場合、正妻から口を開くのが通常であろう。皇帝は微かに微笑み、大丈夫だよ、と囁いた。けれど、どんなに明るい光の元で見ても頬に血色は見えない。イルヴィスも陛下と低い声を出して、その袖からのびた手をそっと押し包んだ。
「無理をなさらないで、今日はお休み下さいませ。皇后陛下も陛下あられてこそ、心安かにおられるのです」
「そうですわ、陛下。おねえさまの言うことが正しゅう存じます。どうか本日はお戻りになって、ゆっくりとご静養を……」
 妹の言葉が急に奇妙なところでとぎれた。イルヴィスは夫を見上げた。自分の握る片方の手は冷たく、もう片方の手は何かを耐えるように顔面を掴んでいる。
「陛下……?」
 不思議そうな自分の声がした時、それはゆらりとかしいだ。

 自分の目の前で、皇帝その人がゆっくりと倒れていく。がくんと反り返った首筋がやけに白く細い。黒髪が宙を泳ぐようにゆらいで、それが糸を引くようだと思った瞬間、夫の身体が軽い音と共に床に放り出された。耳が痛い静寂が降りた。誰もがその場に起きたことを惚けたように見ている。

 と、その耳に女の細い悲鳴がした。
 瞬間、時間が戻ったように悲鳴と喧噪が湧いた。イルヴィスは呆けたように妹を見た。エグレットもまた、イルヴィスを見ている。蒼白な顔は秀麗さに入った亀裂のようにひび割れていた。
 皇帝の身体が必要最低限の丁寧さと迅速さで運ばれていく。
 それを呆然と見送ったイルヴィスは、ふと周囲を見回した。それまで華やかに笑いさざめいていた空気は払拭され、変わって奇妙な沈黙があった。
 そっと自分の腕に妹が触れた。 はっとして妹を見ると、エグレットは何かに怯えるように震え、蒼白なままで彼女に身を寄せてきた。何とはなしにその肩を抱いたイルヴィスの耳にその声は聞こえた。

「……魔女……」
 誰かの呟き。
 水を打ったように静まりかえる広間に、やがてささやきの波が広がる。
 魔女。
 魔女。国を滅ぼし男を食い、皇帝と出自の一族を呪うという魔女。
 魔女。魔女。死の領域、破滅の先達、そして何よりも──傾国と歌われるほどの美貌を持っている。条件にはかなう。あれは魔女。破滅の魔女。
死の魔女。魔女。魔女。魔女、魔女、魔女魔女魔女───
 密やかな声がわっと広がっていくのを目の当たりにしながら、イルヴィスは震えていた。喉が干上がっていて、声が出ない。やっと呟いたのは、ひくくしわがれた一言だけだった。
「私は違うわ……」
 それにはっと我に返ったような妹がぎこちなく頷くが、それは歯止めにはならなかった。違う、と妹が呟き、そして絶叫した。
「違う! 私じゃない! 私じゃないわ! 私は魔女なんかじゃない! 違うのよ!」

 けれど、それに応える声はどこからもなかった。魔女と見つめる視線の中で異母姉妹は怯えたように身を寄せ合って、首を振った。イルヴィスも違うと呟いた。
 何故こんな事になるのか、まったく自分では理解が出来ない。違うのよ、と呻いた声音がエグレットの枯れた声とぞっとするほど似ていた。
 ──公歴九五四年、七月二日、皇帝不予。そしてその日から魔女狩りが始まった。