魔女の末裔2

 微かな雨の音が窓の向こう側に聞こえている。イルヴィスは鈍く痛みを訴えてくる額を指先で押しながら、じっと外を見ている。煙るように曇る硝子に遮られ、美しく整えているはずの庭は殆ど視界には入らない。世界の色は雨のように無色であり、冷たかった。

 イルヴィスは一日を殆どこの窓辺に過ごしている。華やかだった日常も、彼女の部屋の前に列をなして献上の品々を持ち込んできた商人や貴族達も、微笑みあっていたはずの取り巻きも、全てが消えた。
 魔女と囁く人々の視線に耐えることは辛いことだったが、何よりも堪えたのは夫と会うことさえままならないことだ。会いたい、自分の手で看護差し上げたいと何度も請願しているが、全く返答はなく、ないことが無言の回答なのだと理解しなくてはいけない時間であるのに、それを認めることが出来なかった。
 いや、もっと辛いのは夫を愛しているはずの自分の胸内に、薄墨のように苦い不信が広がっていくことだ。柔らかな微笑みで眼差しで、夫は自分を美しいと誉め、優しく包んでくれたではないか。それを必死で思い出そうとしている。そうでないと広がりかけた影を払うことが出来ない。
 夫からの贈り物、夫からの簡単な言伝の紙片。そんなものですら、自分を支えるための支柱として縋り付いている。

 いいえ。イルヴィスは唇を軽く噛み、硝子を睨む。縋り付いてなどいない。夫はきっと混乱しているだけで、いずれ理性を取り戻したならばきっと自分を呼んで長い無聊を慰めるように言うはずだ。その時こそ自分は場末の娼婦にでもなれるだろう。きっと夫の愛を取り戻すことが出来るはずだ──
 その思考にイルヴィスは自分でぎくりとする。取り戻さなくてはならないという言葉は現実が今は背を見せていることを認める言葉のようで、一層ひどい痛みを覚えた。

 イルヴィスが溜息を小さく落としたとき、扉が叩かれたのが聞こえた。不予以来彼女の元を訪れるものは殆どなく、侍女たちも殆どを実家へ帰してしまった。不審に思いながら扉を開き、イルヴィスは溜息をついた。
「皇后陛下……」
 ええ、と頷いたエグレットの表情は無い。繊細で細い美貌はそのままなのに、たおやかな風情だけがげっそりと抜け落ち、まるで死人のような顔だ。染み一つなかった白い肌に色濃く隈が浮いている。
「どうなさったの陛下? 呼んでいただけたらこちらから……」
 その言葉をイルヴィスは最後まで続けることが出来なかった。エグレットはおねえさまと呻くように呟き、彼女の首に腕をまきつけて肩を震わせはじめたのだ。痙攣する妹の細くいとけない肩をイルヴィスは反射のように抱き寄せた。おねえさまともう一度エグレットが呟いたのが聞こえた。
「助けて、おねえさま。わたくし、どうしていいのか……」
 どうぞと招き入れたのは、妹の声があまりにも細く暗く、今にも消えてしまいそうだと思ったからだ。
 あの誕生会の以前には鉄の色だった妹の眼差しがほどけ、ただひたすらに弱く保護するべきものになってしまっている。ずるいという声も微かに自分の中から聞こえるが、それよりも庇護欲を直接触るような涙が、イルヴィスに咄嗟にそれらを無視させた。

 エグレットは暫くの間、イルヴィスの胸に顔をよせるようにしてひたすらすすり泣いていた。何があったかなど、聞くことでさえなかった。イルヴィスと同じことが彼女にも起こったのだろう。
 魔女という囁きが水面に広がる波紋のようにすさまじい速度で伝播していくのを見たあの瞬間から、自分達はこうなることを決定付けられてしまったのだ。
「陛下はわたくしに会っても下さらないのです。おねえさまがもし、陛下にお目通りしているのなら、わたくしにも是非機会をくださいと、お願いして頂きたくて、わたくし、おねえさましかお願いできる人がいないのです、お願い、おねえさま、陛下と会わせてください……」

 妹の言葉にイルヴィスは呻いた。どうやら面会を拒否されているのは自分だけではなかったのだ。
 そこに至って初めてイルヴィスは、自分達を取り巻く状況が非常に悪く、切羽詰っていることを理解した。イルヴィスと違ってエグレットは皇后という立場を得ている。これは執政が可能な子がいない時には摂政という立場にさえ上がることが出来るはずなのだ。そのエグレットが夫に会えないと訴えている……
 イルヴィスは妹の背をゆっくり撫でながら、じっと考えを巡らせる。夫には他の寵姫はいない。戯れに手をつけた侍女などはもしかしたらいるのかもしれないが、自分達姉妹の傾向の違う美しさは彼を魅惑し、捕らえ続けてきたはずだ。

「大丈夫ですわ、陛下。きっとすぐに誤解は解けるはずです。皇帝陛下はわたくしたちをあんなに大切にして下さったではないですか。少しまだ混乱されているのか、お具合が思わしくないのだと……」
「おねえさま、ご存じないのね」
 口にした慰めを突然エグレットが遮って、イルヴィスは黙り込む。微かに妹の表情に哀れみのようなものがかすめ、すぐに消えて微妙に歪んだ表情だけが残された。
「陛下は既に床をお上げです。明日には執務にも戻られるでしょう。わたくし見てしまったもの、陛下のところに新しい……」
 妹は何かのために喉を一瞬詰まらせ、細く震える声で続けた。
「新しい、寵姫が、披露目しているのを、見てしまっ……」

 何ですってと呟いた自分の声が一度に何十も年をとったようにしわがれているのを、イルヴィスは一瞬遅れて気付いた。目の前が一瞬滲むように暗くぼやけ、脳天から血が抜けるような感覚をおぼえて長椅子のひじかけにもたれる。眩暈がする。それは一体どんな闇の初端なのだろう。
「このままではわたくし、魔女ということにされてしまいます。皇后の位など些細なことです。わたくしが魔女とされてしまえばお父様にも、アルカナ宗家の方々にもご迷惑をかけてしまうわ。おねがいですおねえさま、どうか陛下に会わせて……」
 馬鹿な子、とイルヴィスは目元をゆがめる。芙蓉宮の外に以前賑やかにたむろしていた商人たちや芸術家の卵たちがいないことにも気付かない。自分もまさに沈みゆく船のように振り返られることなく捨てられようとしているのに。
 そこまできてやっとイルヴィスは気付く。エグレットにも彼女を取り巻いている侍女たちや幇間どもがいたはずで、妹が単身で宮廷を歩くなどついぞなかったはずなのに、エグレットは一人だった。

「陛下、ね、いつも陛下と一緒にいらした方々はどうしたの? 侍女たちだって、一人もいないということはないのでしょう?」
 イルヴィスの問いにエグレットは唇を細かく震わせた。それはどうやら微笑もうとしているようだった。
「ええ、まだ沢山の侍女はおります──けど、わたくしについてくる者など誰もいないわ。だって、魔女の眷族にされてしまいますものね」
 言い終えたエグレットの柔らかく白い頬に、深い亀裂がはしったのをイルヴィスは見た。それが笑顔だと気付いた頃には、小さく笑い始めたエグレットの声は次第に大きくなり、やがてはっきりとした笑い声と変わっていた。
 幼子のように屈託なくエグレットが笑っている。その禍々しさにイルヴィスは押し黙り、妹の涼やかで清い笑い声にぞっと背を伸ばした。妹の瞳は何かを見ているようで、何もとらえていないようだった。あまりに邪気のない笑い声に、一瞬道化のしぐさに興じているようにさえ見える。

 いいえ、道化というならわたくしたちのことかもしれないわ。イルヴィスは美しい喉をのけぞらせて笑う妹を半ば呆然と目に映しながら唇を結ぶ。帝都の二粒の真珠と呼ばれ、種類の違う美貌を誉めそやされ、賛辞と追従を降り注がれてわたくしたちは必死に陛下を喜ばせるために芸をしていたのだわ──
 不意に胸内から転がり出てきたその言葉にイルヴィスはぎくりとする。夫を愛しているのだと呟こうとする作用さえ起こらない。妹の次第に甲高く上擦る笑い声が続いている。
 それを何とか宥めようとイルヴィスは努めて優しく柔らかな声を出した。
「魔女などと、馬鹿馬鹿しいことですわ、陛下。新しい寵姫が何です、陛下より美しい姫などおりません、本当に、そう思いますわ」
 不意にエグレットは笑うのをやめた。じっと自分を見つめるエグレットの視線は強く、鉄の色をしながらもどこかで脆く危うかった。

「おねえさま、わたくし、自分が美しくないと思ったことはないのです。今でもわたくしと一緒に並んで立つ事が出来るのは芙蓉のようなおねえさまお一人、他は雑草のようなものですわ。でも、美しければ美しいほど、魔女とされてしまうのではないでしょうか、この顔が」
 虚ろに微笑みながら頬に触れるエグレットの指先が尋常ないほど震えていることに、イルヴィスはようやく気付く。
「この顔が、美しいと言われ続けてきた分、みなわたくしが魔女であると信じているように思うのです。わたくしは陛下を害そうなどと恐ろしいことを考えたこともございませんのに、信じたいものだけ皆見ているのです。わたくしの顔の向こうに」
 言うなりエグレットは白い喉をのけぞらせ、震え始めた。指先の瘧おこりが全身に回ったかのように身を揺すり、唇を喘がせているが、そこからは笑声も叫声もついに聞こえない。空気が微かにたわむ息遣いだけが聞こえる。

 思わずイルヴィスは手を伸ばし、エグレットの華奢な手を握り締めた。何かのもやい綱がなければ妹の心がどこかへしどけなく漂っていってしまう気がして恐ろしかった。
「陛下、しっかりなさって。わたくしは陛下のお味方ですのよ、きっときっと、そうですのよ」
 妹が断罪されることがあればきっとそれは自分も同罪とされるという恐ろしい予感がイルヴィスの背にぴたりと張り付いている。そうなれば良いと思っていたあの日々、それは何と現実感のない夢想だったのだろう。魔女という視線の刺さる孤独の檻の中で、いまや理解しあうことが出来るのはこの異母妹だけなのだ。
 エグレットはありがとうと細く呟くと、腕をイルヴィスの首に巻きつけ、肩口に顔を埋めるようにして静かに泣きはじめた。声をたてず、ただ身を震わせるような涙をどうしてやることも出来ず、イルヴィスは妹の背をひたすらに慰撫し続けた。

「おねえさまの匂い、昔と同じ……」
 啜り泣きながら、小さくエグレットが呟いたのが聞こえた。遠い記憶の中で、父に叱られて薔薇の茂みに隠れてしまった妹を抱きしめたことをイルヴィスは思い出した。
 淡い匂いを手繰り寄せようと瞼を閉じようとしたとき、微かに何かの物音が聞こえた気がして顔を上げる。それは妹にも聞こえたらしく、水鳥がたおやかな首を不安にもたげるような姿勢でエグレットが扉を振り返った。
 ──丁寧で正確な打音。けれど扉を開けてしまえば凄まじく凶暴な獣が雪崩れ込んできて自分達を喰らい尽くしてしまう──イルヴィスは自分の胸に沸いた幻影の禍々しさに呻いた。エグレットがおねえさまと怯えたように呟き、彼女に身を寄せる。細い肩を抱き寄せながら、イルヴィスはどなたですと返事をした。

 その途端、扉が開いた。イルヴィスは驚愕する。扉を叩くのは入室の許可を請う印で、その可否を決めるのは部屋の主であるイルヴィスのものだ。入って良いと返事をする前に、名乗りもせずに扉を開くなどという無礼な真似は、実家であるアリッシュ伯爵家にいた頃にさえ覚えがない。
「わたくしは入ってよいとは申し上げなかったはずですよ」
 非礼を咎める自分の声は硬く強張り、僅かに震えているようでもあった。
 いいえと答えた男は知らない。ただ、紺色の詰襟になった制服は近衛のものだ。胸を飾る徽章の数からすると上位にいる者には間違いなく、引き連れている騎士たちが下命を待っていることでも分かる。

「近衛が何の用です、お下がりなさい、皇后陛下の御前ですよ」
 相手が自分より下位の立場であると認知し、イルヴィスは強く言った。エグレットがはっとしたようにイルヴィスから離れ、お下がり、と声を上げた。
「わたくしはおねえさまと話があるのです。近衛の分際でわたくしの不興を買ってよいことなど一つもないと思い知りますよ」
 だが強い言葉とは裏腹にエグレットの声はかすれ、哀れなほど震えている。騎士が一人、滑るように近づいてきて腕を掴んだ──エグレットの。

「何を……」
 言いかけた言葉をイルヴィスは最後まで落とすことが出来なかった。金属の滑る音がして、自分の喉元に銀色の突端が突きつけられて身動きさえ取れない。
 不意に目の前がかすみ、胸がずきずきと激しく波打ち出してイルヴィスは喘いだ。
 彼らの目は静かで何の感情も浮かんでいなかった。これは職務なのだという頑徹だけを表情に貼り付けている。無礼を咎める言葉も、非難する言葉も、全てが失われてしまったようにイルヴィスは立ちすくんだ。
 これは何、という疑問だけが激しく脳裏を渦巻いていて、他に何も考えられない。エグレットに対してぞんざいな態度を取ることは通常考えられない。彼女は正式な手続きを経て立后されたこの国の正妃皇后であるからだ。けれど、これではまるで罪人のようではないか。
 罪人という言葉が浮かんだときイルヴィスは喘ぎ、僅かによろめいて半歩下がった。
 魔女。それだけが浮かんだ。

「エグレット・ユリテ・チャリエット=アリッシュ」
 上長らしい男が妹の名を長く呼んだ。アリッシュと呼ばれた瞬間、エグレットが呼吸を止めたのが分かった。アリッシュの更に後ろに続くはずの国号シタルキアと、皇后であることを示す所属姓はついに呼ばれなかった。
「皇帝陛下に対する呪詛の罪を以って収監する。御身の沙汰は追って決する」
 妹の悲鳴はしなかった。エグレットは床にぐったりと沈み込み、肌はますます白く青褪めて陶器のようだ。
 騎士が妹の華奢な腕を掴んで乱暴に引き上げ、連れて行こうとする矢先にやっとエグレットの声がやめて、と小さく言ったのが聞こえた。
「お願い、陛下に一度でいいからお目通りを……」
 その声も鈴を振るように細く優雅であった。

 ならぬと男が簡単に答え、扉に向かう。たおやかな獣が必死の抵抗をするようにエグレットは全身で抗っているが、優しい獣程度の力しか持たない反逆など、まるで無駄であった。扉を抜けて姿が視界から消えようとする一瞬、エグレットが渾身をかけて身を振りほどき、手を伸ばした。
「おねえさま、おねえさま──助けて、わたくしは、違うわ!」
 妹の瞳が自分を捕らえている。離さない。全身全霊ですがり、頼り、訴える目。イルヴィスのこめかみがずきずきと脈を打ち、指先が熱く、火照りでこのまま燃え出してしまいそうだ。
 長い長い時間、イルヴィスは突き刺されたように立ち竦んでいた。何が起こったのかすぐには理解できなかったし、どう反応していいのかさえ分からなかった。

「あなた様は本日限りでお役を解かれることとなりました」
 男の声が不意に耳を打って、イルヴィスは視線をやっと動かした。近衛騎士たちを束ねていた男が一人残り、彼女にゆっくりと腰を折るところだった。
「お役目……」
 それが何を意味しているのか、咄嗟に理解できないままぼんやりと繰り返すと、男は不意に笑った。
「皇后陛下が罪人として獄されるとなれば添い人のあなた様も本来は一蓮托生であるが、皇帝陛下におかれては今までの功績に免じてあなた様に罪は及ばぬと仰せです。ただし、身内に魔女を出したことを軽く見積もることもございません。実家へ戻り、のち穏やかに生きよとのお言葉でございました」

 何かに撃たれたようにイルヴィスはよろめき、ふらふらと後ずさった。全身からどっと汗が吹き出し、膝が震え出したのが分かる。膝から下が泥に埋まってしまったように動かない。
 くたくたと座り込んだイルヴィスに、男は手を差し出してイルヴィス様と言った。皇帝の寵姫として誇らしげに微笑んでいた頃に彼女の名を呼ぶ者があれば無礼だと一瞥をくれてやったはずが、気力全てが流れつくしたあとのように何もない。咎めるどころか自分は返事さえしているのだ。
「お美しい方だ、帝都の真珠にふさわしい。陛下は捨ててしまわれたが、私はあなたを所有できるならばどんな犠牲も払いましょう」
 何を言われているのか判断するのに今度はあまり時間は必要ではなかった。差し伸べられた手をイルヴィスは振り払い、無礼な、と低く言った。

「自分の立場を考えて物をお言い。わたくしは、陛下の──」
「既に寵姫ではあらせられない。国母にもなりそこねた、ただの気の強い妾腹の姫君ですよ」
 イルヴィスは言葉なく、一つ震えた。その言葉は今や真実で、真実だからこそ、胸の真奥を貫いて血を噴出させるような激しさを呼んでくる。下卑た言葉一つ打ち返すだけの気力が、今は尽きてしまったかのように出てこない。ただ胸内から沸いてくる目の眩むような赤い怒りが、練り巻き、巻きうねり、身体の中を這い回っている。
 さあ、と男は薄く笑いながら手を広げてみせた。芝居がかっているようで、ひどく癇に障った。
「一度荷物をまとめて実家へお戻りください。私のことを思い出したら是非ご連絡を。お待ちしておりますよ、イルヴィス様」
 男は笑い、笑いながら背を返した。イルヴィスは急激に冷えてきた腕をさすりながら唇を噛んだ。