魔女の末裔3

 エグレットの処刑が決まったという知らせが届いたのは、それから半月ほど経ってからのことだった。アルカナ宗家も必死に抗弁に走ったようであったが、エグレットの奢侈は有名で、皇后を免じるだけでは罪をあがなうことが出来ないとされたようであった。
 夫であった男の柔らかい声音を思い出しながら、イルヴィスはじっと窓の外を見つめている。愛していると思っていた。あの優しい瞳の光は愛だったと信じていた。自分にも与えられていたそれは、恐らくエグレットにも注がれていたはずだった。二人に平等に、慎重に公正を均しながら与えられる愛。

 何が魔女だとイルヴィスは思う。皇帝を呪い殺したというのならば汚名も諦めがつくが、皇帝はまるで以前と同じように淡々と御前会議を開き、貴族たちの合意の上に決定した事項に署名を入れ、夜は後宮で新しい寵姫たちと戯れているというではないか。
 では、何のためにわたくしたちはこんな目にあわなくてはいけないの? その疑問が繰り返し繰り返し、脳裏へ戻ってきてイルヴィスを苛立たせる。
 早く忘れなくてはいけない、早く取り繕わなくてはいけない。それは理解している。娘二人しかいないこの家にとっては養子を取ることが重要な課題であったはずだが、選定が進まぬうちにこんな事件となってしまっては、最早望むことが出来なかった。
 畢竟、戻されてきたイルヴィスに婿を取らねばならないが、それも難しい。皇帝の寵姫であったという事実が人々に下卑た妄想を抱かせることも、その上で新しい夫に仕えることも、飲み込むには棘の在る果実で、それが分かるからこそ一層気鬱であった。

 イルヴィスが溜息をついたとき、小間使いが彼女を呼んだ。地方荘園からの今年の利潤帳簿や贈答の品が届いたので検分して欲しいとのことだった。本来は父の役割であるが、あの事件以来呆けたように寝台に篭りきり、何か意味のないことを呟いたり突然泣き出したりと、一向に埒が明かない。
 養母は元々そうしたことには一切干渉せず、庭を整えて刺繍をさすことだけしかできない女で、当主が不調であるからといって代理が出来るなど到底ありえなかった。結局イルヴィスが傷心に沈む暇もなく家のことを差配し、切り回し、判断するという役目を強いられている。

 荘園帳簿は今年の収穫が平年よりもやや不作であったこと、しかし海洋養殖の海老は豊漁で下男に至るまで振る舞いが出たことなどが記載されている。まずは大きな変動はないようで、イルヴィスは安堵する。荘園の実入りは今後この家を支えていく柱であり、おろそかにできる種類の話でないのだ。
 帳簿を置いたイルヴィスに、小間使いがあの、と声をかけた。
「それと、献上品の中に剣がございまして……わたくしどもには価値がわからないのですが、造作からしてよいものであると思われます。旦那様にお見せしたのですが……」
「いいわ、わたくしで検分します。ここへ持っておいで」
 小間使いはほっとしたように頷いた。父は既に理性を以って何事かをなすことを放棄している。エグレットの投獄以来、寝台の住人となっていて何かを出来る状態ではない。妹の一報を聞いた瞬間に血の気というものが全て流れ落ちてしまったかのように白くなり、その後は何かを呟きながら泣くばかりだ。諦めはしていても、様子を知る度に苛立ちは募った。

 持ち込まれた剣は確かに何某かの名のありそうな風情だった。残照で塗り潰したように赤い。じっと目を凝らせば鞘の細工も見事で、広がる双翼の隙間を蘭の花で埋めた図案の細かさも、柄の流水紋もやや反りの入った尖影も、全てが融和した美しさだ。後宮で精巧な細工物を見慣れたイルヴィスにも尋常でない価値のある品だと訴えてくる。
 イルヴィスは剣など握ったこともないし興味もないが、美術品としてさえ価値がある剣と思われた。自分で実用することなどありえないが、これほどの剣であれば、何かの折に誰かに勿体をつけて与えることもいい。
 少なくとも現在アリッシュ伯爵家は魔女を産んだ家としての暗雲が垂れこめていて、それを何かの大きな働きや献上で打ち払わねば、今後些細な理由で取り潰されかねないのだ。

 イルヴィスは剣の背の微妙な湾曲を指先でそっとなぞった。この曲線の優美で研ぎ澄まされた緊張感が、やはり無銘の剣ではないと感じるのにふさわしかった。早めにどこか鑑定に出さなくては。剣を所有して家宝と崇めることよりも、伯爵家を維持することを考えなくてはならない。まずは価値を確認することからであった。
 手配をしなくてはとイルヴィスは頷く。富貴に埋もれていたイルヴィスでさえ目を奪われる見事な剣ではあった。ほんの微か、脳裏を欲しいという言葉が掠めたが、それをイルヴィスは無視した。剣を所有することにこだわっている状況ではなかった。父が全く頼りにもならない今、アリッシュ伯爵家のことしか考えてはいけない。
 そう繰り返し繰り返し刷り込もうとしている作用に気付き、イルヴィスは吐息だけで笑った。それは明らかに失笑という響きを持っていて、落とした本人をぎくりとさせる。
 わたくしは何がおかしいのだろう──けれど、ほんの一月前までは後宮で奢侈に埋もれて微笑んでいるだけだった自分の運命の流転は笑わねば。そうでなくては背骨から軋んで折れてしまいそう……

 イルヴィスは唇に張り付いたままだった微笑をゆっくりとしまった。剣は家のために利用する。そう決めたことはきっと間違いではないはずだった。
 イルヴィスは左手で鞘を掴み、右手で柄を握った。鞘にふさわしい刀身を見たいという衝動が高らかに胸を跳ねている。家のために手放すことを決めた以上余計なことだと承知していても、惜しむ自分の心も知っていた。──だから、これはほんの悪戯程度のことよ。手放す前に、ほんの少し、僅かだけでも見ていたい、それだけだから。言い聞かせるように呟いて、イルヴィスは柄を握り締める手に力を込めた。

 ゆっくりと鞘から抜き出される刀身の銀色の細い輝き。優雅な魚や蛇の美しい曲線にも似ている。鞘走りの音は涼やかで耳にまろく、次第に現れる剣の本身の期待に違わぬ完璧な姿に目が吸い寄せられる。本当に見事な剣だ。何よりも見る者を惹きつけ、惑わせる。
 ああ、と吐息のような感嘆のような自分の声がひどく蕩け、淫らな空気さえまとっていることにイルヴィスは気付き、微かに頬を引き締めた。その時だった。
「君はやめたほうがいいと思うよ」
 イルヴィスははっと振り返り、壁際まで飛びすさった。

 そして次の瞬間、真実イルヴィスは驚愕する。他人の言葉が聞こえたことに驚いたのは事実だったが、壁まで下がるなど、考えてもいないことを成し遂げたことが自分で信じられない。自分の身体がまるで別の生き物のように動く。
 どういうことなのだろうこれは。今まで利き手に握るものといえば化粧用のやわらかなブラシや紅筆や、時折は書く手紙のためのペン程度のもので、剣など間近に見るのも触れるのも、勿論初めてなのだ。
 イルヴィスは自分が今や固く握り締めている紅剣をちらりと見やり、それからやっと声の主を見た。年齢は二十代の半ばと思われる黒髪の青年が、薄く笑いながら窓際に佇んでいた。

 誰、とイルヴィスは低く叱りつけるようにいった。青年の気配など全く感じなかった──いや、それよりも小間使いが出て行ってから扉は閉められたまま、押せば古い家の軋みが必ず聞こえるはずだ。窓際まで寄るにもそれなりに歩数は要る。そこに至るまでにイルヴィスが全く気付かなかったというのは不自然で異常な出来事と思われた。
「……お前は誰ですか。どこから来たの。名乗りなさい、人を呼びますよ」
 自分の声ははっきりと不機嫌で、微かに震えている。青年は小さく笑いながらイルヴィスに滑るように近づいた。
「僕はその剣のおまけだよ、剣の主人には必ずお目通りさせていただくことにしている」
 青年は何が可笑しいのかくすくすと笑う。その声が波紋をたてるように胸がざわめき、脳天が微かに煮える。
 吹き上げてくる熱を孕んだ衝動を、イルヴィスは唇を噛んでじっと耐えた。誰、と再度呟くと青年はにやにやと笑いながら肩をすくめた。

「名乗るほどの名前など、もう忘れてしまったね。そんなことが重要なの? 深窓育ちはさすがにおつむが軽い」
「答えなさい!」
 思わず荒げた声に呼応するように自分の手が剣を床へ振り下ろした。切っ先が寄木の床へほんの僅かを残してぴたりととまる。柄に水のようなものが入っているらしく、何かが剣の内側をたぷんと移動するのが分かる。その度に心の内側の一番荒い部分をかき乱されるようで、イルヴィスは微かに喘ぐ。
 身体の中の奥深いところから、粗野な衝動が飛び出してきて荒く声を上げているのが分かった。異常だという理性の警鐘は強く、しかしそれ以上に剣をさばくたびに巻きおこる歓喜のほうが圧倒的だ。
 手が震えている。それは恐怖や怒りというよりもはっきりと快楽だった。

「これは何、答えて、この剣は何なの」
 呻く自分の声も殆どかすれ、まるで睦言のようだ。青年は小首をかしげて、わからないほうがいいと答えた。
「君に資格はないこともなさそうだけど、僕はやめておいたほうがいいと思うな」
「何を言っているのか分からない。もっと分かるように話をおし」
 青年は弾かれたように声を上げて笑った。それはくっきりとした嘲笑だった。鳥肌がたった。何かを考えるより早く自分の腕が剣を払いあげる。それは剣の気品にふさわしい、無駄のない美しい軌跡だった。
 自分の身体の反射に驚いてイルヴィスは目を瞠る。あたる、と思った瞬間に青年の姿が滲むように消え、少しはなれたところにぼんやりと現れた。

 何を見たのかイルヴィスは理解できなかった。ただ目の前で起こったことが理解できない。人間の技ではないことだけが分かる。
「やれやれ、どうしてみんな僕を斬りたがるのかな、全く。君はやめておいたほうがいい、とは思うけど僕を斬ったからには最早取り返しがきかない。あとはせめて、君がまっとうできるように祈っていてあげるよ」
「質問に答えなさい、お前は誰」
「僕は剣の奴隷、そして君は家の奴隷、奴隷同士仲良くしたかったのに残念だよ、美姫」
 彼のその姿が次第に薄くなっていくのにイルヴィスは気付いて待って、と叫んだ。
「この剣は何なのです、答えなさい!」
 その答えは既に返らない。最後に哀れんだような微笑を浮かべ、青年の姿が消える。イルヴィスは何かの余韻に震える手をなだめながら、剣を鞘へ収めた。途端に今まで自分に張り付いていた快楽と興奮がするりと剥がれ落ち、後は収まらない動悸だけが残された。
 剣の姿は変わらず美しく、触れたいという衝動は強く、イルヴィスに代わる代わる訴えている。それから無理やり目をそらし、イルヴィスは長い長い溜息をついた。