魔女の末裔4

 エグレットの獄舎は皇城の地下にあった。黴の臭いだけが通路に充満するようで、イルヴィスはずっと布を鼻に押し当てている。そうでなければ辿り着く前に気分が悪くなって倒れそうだ。
 先導する獄舎の衛士がこちらですと呟きながら一番奥の扉を開く。前室と二重の鍵の先が貴人用の牢獄となっていて、地下という場所柄窓がないこと以外は後宮の一室と言われてもあまり違和感のない程度の調度の良さだ。
 妹は長椅子にしなだれかかるようにぼんやり天井を見ていた。脇に置かれた小卓には葡萄酒と思われる暗色の瓶があり、側に小さな切子の酒盃が置かれている。
 イルヴィスに気付いてエグレットはのろのろと身を起こす。側に寄ると酒精が漂い、妹が泥酔かそれに近い状態であることは分かった。

「おねえさま、来てくださったの、嬉しい……」
 エグレットは呟くように口にして、頬を必死で動かした。笑おうとしているのだということに気付いてイルヴィスは暗澹とした気持ちになる。奇妙に歪んだ表情だけをこねまわしているようで、いつまでだってもいつか妹が自分に見せていたつんと澄ましこんだ微笑みや、もっと幼い頃のほんわりとした空気にはならなかった。
 何と呼びかけるかイルヴィスは一瞬迷い、ややあってリッテと呼んだ。陛下という呼称は最早口にすることが不敬であったし、本名ではあまりに他人行儀と思ったからだ。
 ──明日、処刑される前にどうしても会いたいと願った妹に対するには。
「リッテ、飲んでいたのね? あまり強くないのに……駄目よ、落ち着かなくては」
「まぁ、その名前で呼んで下さるなんて、嬉しいわおねえさま……でもわたくしは落ち着いています。これ以上ないというほど冷静ですわ。冷静だから飲んでいるのです」

 そんなことを言い、エグレットは酒瓶の首をやにわに掴んだ。そんな乱暴な仕草を見るのは初めてで、イルヴィスは黙って目を伏せた。冷静だから飲むのだという妹の言葉が細く尖って胸を突き刺してくる。
「おねえさま、わたくし、明日処刑されるらしいのです。だからその前におねえさまにどうしてもお会いしたくて来て頂きました。本当はわたくしからお訪ねしなくてはいけないのですけど、少々身辺が煩いものですから、ごめんなさいませね」
 くっくっと水鳥が鳴くように喉を鳴らしながらエグレットが呟いた。それは笑っているつもりらしかった。どうぞ、と椅子をすすめられ、イルヴィスは腰を落とす。
 粗末な衣装となっていても妹の繊細な美貌は損なわれることなく、むしろ元の清楚な面差しがひきたって一層可憐であった。隣に座るとエグレットがイルヴィスの手を引き寄せて握り締めた。その指先も切ないほど華奢で美しかった。神々が丹念に作り上げた人形のような、現実味のない美しさだ。

「わたくし、おねえさまに謝りたかったのです。ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい。これから先のおねえさまのご苦労を思うと、わたくしとても辛いのです」
 エグレットは座ったままゆっくりと腰を折り曲げた。いいのよ、とイルヴィスは言った。これから死に行く者に鞭をくれることは出来なかった。
「おねえさまにはもっと沢山お話したいことがありました。でも、もうあまり時間がないわ。だから、わたくし、おねえさまにこれをお返しすることにしました」
 エグレットは首からかけた鎖をゆっくりと引いた。現れたのは彼女の胸に収まっていたらしい小さな鳥篭に花を篭めた意匠の垂れ飾りだった。イルヴィスは目を細くする。
 それは遠い昔、姉妹の他愛ない喧嘩でエグレットが彼女から取り上げた玩具だ。伯爵家の持ち物であるから木彫りということもないが、真鍮に鍍金した子供向けの装飾品で、そもそもはイルヴィスに荘園視察の土産だと父がくれたものだ。

「こんなもの、まだ持っていたのね……」
「勿論ですわ。だってこれはわたくしにとっては唯一おねえさまをしのぶ形見でしたもの。いつもいつも、持っておりました……おかげさまで取り上げられることもなくここへ持ち込めたわけですが」
 エグレットは小さく微笑み、鎖ごとイルヴィスの手に握らせた。エグレットの体温にぬくまっていた小さな金属の塊は軽く、鎖のさらさらという音と共に掌に小さく収まった。
「これはわたくしの形見としておねえさまのおそばにずっとおいてくださいまし」
 ね、とエグレットはイルヴィスの手に垂れ飾りを握りこませて頷いた。イルヴィスは曖昧な返事をする。これを彼女に取り上げられたときのことをまざまざと思い返せば、苛立ちのほうが強い。けれど死を覚悟してしまった妹の願いを無碍にするわけにもゆかない。
 そうねと濁した返事をすると、エグレットは小さく吐息で笑った。

「……おねえさまは、まだあの時のこと、怒っていらっしゃるのね。わたくしがこれをおねえさまから取り上げてしまったときのこと」
 イルヴィスは視線を上げて妹を見やる。既に忘れているだろうと思っていた過去が形よい唇からこぼれてきたことが俄かには信じられない。エグレットはうふふと含み笑いをした。あの誕生日にも見た、妹の一番美しい顔のままだった。
「あのことも謝らなくてはいけないわ。わたくし、知らなかったのです。妾の子というのがどんな意味なのか」
「嘘よ」
 反射的にイルヴィスはエグレットを睨み、それから自分の所作に動揺してあらぬ方向を見やった。自分でもこだわるのがおかしなほどの遥かな昔の小さな傷に、いつまでも拘泥していると指摘されたようで居心地悪く怯んでしまう。エグレットはいいえと強く言い、イルヴィスの手を尚更強く握り締めた。
「わたくしは色々なことを教えられないまま育ちました。おねえさまのことも、何故母が疎遠にしたがるのか分からなかった。母にしつこく聞いて妾の子、いうことは聞き出しましたが、それが一体どういう意味なのかは誰も教えてくれませんでした。でも、聞くとみな苦笑するので悪口なのだということは分かっていたの。あんなにおねえさまがお怒りになるなんて思わなかったのです」

 エグレットは小さく声を立てて笑った。
「お父様はとても上手なお方、こんな小さなものにだって、わたくしたちを争わせてお楽しみでした。わたしたちを憎ませ、争わせて、二人とも真珠と呼ばせたのです──だからわたくしはお父様が嫌い。お父様のなさることはいつも自分のことばかりです」
「リッテ」
 唇からぼろぼろと禍々しい言葉だけを紡ぎ落とす妹をイルヴィスは遮った。狂っているのか、その境界にいるのか、妹の表情はまったく変わらない。薄く微笑んでいるだけだ。けれど瞳だけがせわしなく何事かを探すように蠢いている。必死になって何かを探しているのだ。
「落ち着いて、ゆっくり話をしましょう、ね? あなたの言うことはそうかもしれないけど、お父様はもう家のことは出来なくなってしまったわ、あなたの──」
 言いかけてイルヴィスは言葉を飲み込んだ。魔女事件とも投獄とも続けることが出来ない。それを口にすれば父の不調がエグレットのせいだと強く言い募ることになってしまう。
 それを打ち破ったのはエグレットの甲高い笑い声だった。妹は天を仰いで高らかに笑っていた。心底から可笑しく楽しむ様子にイルヴィスは怖気をおぼえて身動きをとめた。
「ではわたくしは勝ちました! ええ全く完全に! お父様の最期をこの目で見られないのが残念ですわ! うふ、ふふ、ふふふ」
 白く滑らかな喉がのけぞって、哄笑だけが溢れ出している。イルヴィスはエグレットの肩を掴み、強くゆすった。そうでもしないと彷徨い出て行こうとしている妹の魂を戻せないと咄嗟に思ったのだ。

「おねえさまは、わたくしが狂ったと思われているのですね」
 不意に笑みを収めてエグレットが言った。
「でも、そんなことはありません。わたくしはおねえさまに会いたいとお願いしたとき、神と賭けをいたしました。おねえさまが来てくれたらわたくしの勝ちで、わたくしはお父様の破滅を導くことが出来るのだと……嬉しいわ、わたくしの願いは叶ったというわけですものね」
「馬鹿なことを……そんな誓いは正しくないわ、リッテ。お父様の事だって、打撃だったのは仕方のないことでしょう」
「ええ、本当にいい気味! お父様は家の奴隷ですもの、家が取り潰されてしまえば一緒に焼き殺されてしまう白蟻よ」
 家の奴隷という言葉にイルヴィスはぎくりとする。つい二日ほど前にそんなことを黒髪の青年が自分に向かって揶揄した言葉そのものだった。奴隷、と呟くとエグレットはうっとりした声音で呟いた。
「お父様は家の奴隷、だから家のことしかお考えではありません。おねえさまのことも、必要だから可愛がってみせてらしただけ」

 イルヴィスは喘いだ。父の企みを妹が知っていると思ったことはなかった。何を証として知ったのか、妹の口ぶりはひどく静かで確信に満ちている。だからこれがただの言質の罠でないことは分かった。リッテと呟くと、エグレットはふふふと声を漏らしながら笑った。その壮絶な暗い瞳がイルヴィスの胸を貫いて釘付けにする。
「でもわたくしにはそれすら与えられなかった。わたくしは嫡出子ですもの、必要ありませんものね。ねえおねえさま、だからわたくしは子供の時分、随分おねえさまに嫉妬いたしました。わたくしには滅多に貰えない言葉も愛撫も、おねえさまはずっと簡単に手に入れて誇らしげにしていらしたから羨ましくて妬ましくて、いつもいつもおねえさまを怒らせることばかりしてみせました」
 これも、とエグレットの指がいつの間にか硬く握り締めていた拳をそっとなぞる。その途端、魔法の鍵が解けたように柔らかく指が開き、鳥篭と花の小さな飾りが鈍く光を反射した。
 愛らしい子供向けの、どこにでもありそうな細工。それを取り合って泣いたエグレットに、仕方なしにあげるわと呟いた遠い日。憎まれ口に同じものを返す、自分達の幼くて傲慢な瑞々しさ。
 イルヴィスはゆるく溜息をつき、そっと鳥篭の柵の部分を撫でた。小さくて可愛いとエグレットに見せて自慢したのは確かに自分で、エグレットは嫉ましさのあまりに取り上げようとした……──

 父の戦略を今こそイルヴィスは思い知る。偶然にも美しく生まれついた異母姉妹を争わせ、競わせ、お互いを鏡にしながら更に豪奢に繊細に磨き上げられていく珠として父は自分たちを養育した。それは見事な手腕というべきだった。後宮に入って更に人が増え、自分たちがそれぞれ寵を誇るほど父は喜んだはずだ。
 イルヴィスは唇を噛む。目の裏が熱い。
 けれどそれよりも強く喉から駆け上がってくるのは哄笑だ。涙で自分を悼むより辛い現実には、嗤うことでしか立ち向かえない。そうでないと鋼より心を強く持ち、鉄より冷えた心を持つことなど出来そうになかった。

 エグレットはいい。彼女は今宵を限りにこの胸を巻く苛立ちや暗い色をした怒りを感じなくてすむ。けれど自分は長い余生、この重く苦い情熱を友として生きてゆかなくてはいけないのだ。死はたやすい、全てを終わりにすることが出来る。それを理解していて生き続けていくことのほうが何倍も辛いことのように思われた。
 そっと自分の目尻に柔らかいものがあたったのが分かった。エグレットが唇をよせてイルヴィスの涙を優しく啜っているのだった。唇は温かく柔らかで心地よかった。だからイルヴィスはそれを突き放さない。エグレットの細くか弱い肩を抱き、自分のほうへ抱き寄せた。
 エグレットがおねえさまと震える声で呻いた。それは確かに歓喜と聞こえた。
「おねえさまを傷付ける男は誰であっても許しませんわ。おねえさまはわたくしだけのもの。わたくしだけがおねえさまを真実、心より愛しているのです」
 エグレットはそれだけ口にするとイルヴィスの肩口に額を押し付け、鎖骨に唇で触れた。愛しています、と再び呟きがした。

「わたくしはずっとずっと、おねえさまだけが好き。だからおねえさまだけでも助かってよかったの、これでよかったの。わたくしは望みは手に入れました。だから後は……」
 エグレットは言いかけて小さく嗤った。明日に迫った処刑のことを考えているに相違なかった。イルヴィスは彼女にもたれかかるやわやわとした身体を強く抱きしめた。エグレットが震えながら喘いで天を向いた気配がした。
 ちらりと妹を見ると、容色整った頬に涙がほんの僅か、流れていくところだった。泣き顔でさえ、真珠のように美しく可憐であった。
「わたくし、陛下に何とかリッテのことをお願いしてみるわ……」
 イルヴィスは妹を抱きとめながら呟いた。エグレットはふと真顔になり、やがて首を振った。
「いけませんおねえさま──わたくしが折角おねえさまこそ魔女だと喚き散らしたのに、わたくしたちが庇い合えば、庇った事だけを重大だと思うのです、あの男」

 エグレットの眉間に淡い皺が寄る。それは嘲りと憐憫の混じった苦笑であった。
「だから今更あの男に期待してはいけないわ。どうせ彼が何か思っても議会で反対されればすぐ引っ込めるに決まっていますもの」
 そうかもしれないとイルヴィスも苦笑になった。皇帝リジェス四世を優しく穏やかだと信じていられた日々は馬鹿ではあったが、却って幸福であったかもしれなかった。
「でもお前を見殺しにすることは難しいわ……」
 言いながらイルヴィスはふと思い出した。
 誰かに与えて家督を維持しようとしていた紅剣のことを。あの剣を夫であった男へ献上してみたらどうだろう?
 魔女などという戯言には根拠がない。何故なら皇帝を呪い殺すはずの魔女は処刑が決まり、当の本人は瑕疵なく健やかに過ごしているのだから。取引の材料とするという考えは、急ごしらえにしては欠損がないように思えた。

 もうあまり猶予がない。既に夕刻を過ぎて夜の眷属が天空を飾る時間だ。今から屋敷へ戻り、すぐに取って返してきても分の悪い賭けである上、実際に目通りが叶うかは未知数だ。
 剣そのものを直接持ち込めば必ずあの剣は目を惹くだろうと予測はあるが、皇城に刀剣の持込は制限がされており、そこに至るまでが至難と思われた。
 無理かとイルヴィスは微かに眉を寄せ、そして顔を上げた。あの男──確か、近衛だったはずだ……エグレットを投獄し、イルヴィスに自分のものになれと嘯いた男。何でもすると言っていた。それは勿論覚悟の程度を示す言葉だが、大逆を手伝えという話でもない。まず打診してみるべきであった。
「おねえさま……?」
 エグレットの不安な声を背にイルヴィスは立ち上がる。大丈夫よと小さく微笑んで、獄衛士に声をかけるために呼び鈴を引いた。