魔女の末裔5

 これでよろしいかと渡された包みを受け取り、イルヴィスは細長い巻布をずらし、中を確認する。ちらりとのぞく赤い鞘と、翼の意匠の一部が見える。間違いありませんとイルヴィスは頷き、丁寧に腰を折った。
「感謝いたします、騎士様。わたくしの礼など大したことではありませんが、是非一度我が家で感謝の夕餐を共に」
「楽しみにしていますよ、イルヴィス殿」
 男は薄く笑っている。イルヴィスは深く頷いてみせた。近衛騎士であれば帯剣したまま後宮にも出入りできるはずで、紅剣を持ち込む際にも一通りの手続きのみで終わるだろうという予測は違えなかった。
 イルヴィスは安堵と共に紅剣を抱き、長い溜息になる。

 行きましょうとイルヴィスは声をあげる。近衛の随行がなければこの先後宮を渡ることが出来ない。近衛屯所に作られている男の執務室から皇帝の座所に至るまでの道筋はよく知っていて案内など必要ないが、イルヴィスは魔女の異母姉として既に歓迎されない身である。一人で歩くなど出来そうになかった。
 男はすぐには動こうとしなかった。不審に眉を寄せたとき、不意に肩を掴まれて壁に押し付けられ、イルヴィスは小さく悲鳴をあげた。後頭部を軽く打ったのか、こめかみあたりから何かが流れ出るように揺らぐ。
「けれどその前に、少々のお駄賃をいただかねば」
 男は素早く言ってイルヴィスの口唇に自分のそれを押し付けた。舌がすぐに唇を割ってきて、ざらざらと口内を弄る。
 夕刻のせいか僅かに伸びた髭がイルヴィスの柔らかな頬に刺さって痛い。イルヴィスは身をよじって男をもぎ離し、咄嗟に唇をぬぐった。

「……物事には、順序というものがございます。少しは手順を踏んで下さらないといけませんわ」
 無礼なとなじることが無駄と知っている今、この程度の嫌味しか口に出来ない。男もそれを理解しているのだろう、薄ら笑いを崩さないまま、なるほどと頷いた。
「では夕餐の折にでも手順とやらを確認することにしましょう」
 イルヴィスは固まったような首をやっと動かして頷いた。頷くことで手順とやらを踏めば好きにしてよいのだという許しを与えてしまったことに気付く。
 ひどい間違いを犯しているという自身の囁きは小さくないが、今はそれを無視することしかできなかった。

 後宮の回廊は静かだった。エグレットが享楽に漬かって放恣の羽を広げていた頃はよく聞こえていた楽も嬌声もぱたりとやんで、ただ黒々とした木々と月光に淡く反射する石の壁だけが続いている。それはきっと国家としては正しい姿なのだろう。エグレットが快楽にのみ視線を向けていたことは誉められたことでないが、以前と比較してしまうせいなのか、もの寂しさは胸から消えなかった。
 連れて行かれたのはイルヴィスが起居していた芙蓉宮であった。皇帝は快癒した後はここに逗留しているらしい。そう告げられると胸の奥が微かにゆるく解けるような感触があった。自分の遺して行った沢山の装飾品や調度や丹精していた芙蓉の花たちを、彼が変わらずに懐かしみ愛でてくれているならば、それはぬるく淡い色彩となって自分の胸を縁取るような気がしたのだ。

 男はイルヴィスの表情を見て何を考えているのかを察したのだろう。唇を歪めて笑いながら呟くように言った。
「あまり期待はしないほうがよろしい、転んだときに痛むからな」
「あなたには関係ないわ」
 怖い怖いとおどけた様子で男は肩をすくめ、どうぞと促した。イルヴィスは僅かに呼吸を整え、扉を叩く。入っていくと夫だった男が意外なものを見たというように僅かに目を瞠り、すぐ微笑んだ。
「どうしたのかね、イルヴィス=アリッシュ? 君にまた会うとは思っていなかったが」
 穏やかな声音は以前のままで、これをどう感じていいのかイルヴィスには分からない。妹を魔女と断罪したのも彼で、自分に微笑みながら元気かと問うているのも彼なのだ。
 イルヴィスは沈み込もうとする思考を押し込んで夫に膝をついた。自分の背後、数歩下がったところに男も膝を折るのがわかった。

「ご快癒おめでとうございます、陛下。とてもお元気そうでわたくし安心いたしました」
「君も元気そうで何よりだ。お父上は臥せってしまわれたとのことだったが、その後は如何かね」
「どこも悪いところはないとの医師の見立てでございます。妹のことではかなり衝撃を受けておりましたので、当面は身を慎みたいとのことでございました」
「そうか、では快癒を祈っておこう」
 ありがとうございますとイルヴィスは面伏せ、僅かな違和感が胸を転げていくのを見つめる。
 まるで他人のような言葉だ──勿論父と皇帝は他人だが、一度は姻戚となって夜会でも議会でも、繁々と傍に寄せてもらったと父は喜んでいたはずだった。抜け目ない父のこと、沢山の献上も、賭博や観劇などの遊興も皇帝へ注いできて、彼はそれを喜んで受け取っていた──のに、何事もなかったかのようだ。表面を洗い流して終わりの皿のように。
 彼は何も感じないのだろうか? 一度は心近く寄せた人々の苦難も苦痛も、全く傷になっていない。けれどそれを今問い募るほどイルヴィスも愚かではない。だから本題を切り出すにとどめる。

「陛下、わたくし妹のことをお願いしに参ったのでございます。妹はわたくしが実家へ連れ帰り、アリッシュ家の中で一生を過ごさせる所存でございますゆえ、どうか命ばかりは陛下のご寛容とお慈悲を願いたいのです」
 皇帝は困ったような顔をすると、イルヴィスと優しい声を出した。
「それは出来ない。決まったものを覆すのは私には出来ないのだ、私の権限ゆえに、使うべきではない。分かるかね?」
 イルヴィスは首を振る。皇帝の口ぶりはひどく穏やかで、いつか二人で興じた四目並べの待ったを諭されたときと同じ口調だ。
 ──おいたものをやりなすのは出来ない。出来るけれど、してしまったら違反だ、さあ負けを認めたら君の飲む番だぞ。
「しかし、魔女と責難されるなど理不尽でございます。魔女は陛下を呪うと申しますが、陛下はこの通りお元気でいらっしゃるではありませんか」
 イルヴィスの言葉に皇帝は苦く笑い、黙り込んだ。不機嫌ではないが返答を拒否するときの彼のいつもの仕草であった。沈黙を作られるとイルヴィスも言葉が出ない。
 じっと黙り込んでいると、皇帝はいつものように折れることをしないイルヴィスに困惑したのだろう、視線を男に流したようだった。

「それは何かね」
 皇帝の言葉に男が包みを低く捧げ持ち、献上品でございますと答えた。イルヴィスは頷き、包みを解いて皇帝の前に差し出した。
「これはわたくしが手に入れました剣でございます。陛下のご収蔵に加えていただければと持参いたしました。妹エグレットのことはどうか……」
 言いかけてイルヴィスは残りを喉の奥へ飲み込んだ。
 夫だった男の表情がみるみる強張り、身を固まらせていく。信じられないもの、恐ろしいものに立ち竦んだままの草食の獣のようだ。瞳だけが強い光を宿していて、それはまっすぐに紅剣へ向かっていた。
「これは……」
 やっと何かを思い出したように皇帝が呟く。声も表情と同じように暗く歪み、微かに震えているように思われた。
「これは、この剣はどうしたイルヴィス、何故これを……」
 そんなことを呟き、皇帝はせわしなく胸元をまさぐった。神へ祈りするときに使う紋様板を指で探しているのだ。けれど視線は紅剣にぴたりと釘付けられたまま、瞬きさえしようとしない。

 イルヴィスは怖気を覚えて僅かに後じさった。彼は常に穏やかでなだらかな感情の表現しかしてこなかった。けれど今、その奥の沼から何か違う生き物が這い出ようとしている。
「これは陛下、わたくしどもの荘園から……」
 怖気りながらも答えを紡ごうとし、イルヴィスは途中で言葉を立ち消えさせた。皇帝は今や返答など聞いているようではなく、ただ殆ど睨むようにして紅剣を凝視している。
 目の色が更に強い。ぎらぎらと光り、何かの昂りのために瞼の下が痙攣しているのが見える。
 イルヴィスは差し出すようにしていた剣をゆっくり抱き寄せた。尋常でないものを目にして、何かに縋り付きたかった。感情の削げ落ちた目に強い執着だけが息づいている。それがひどく異質に見えて恐ろしかった。

 けれどそれは一面希望でもあるとイルヴィスは気付く。どのような事情なのかは分からないが、夫はこの剣に異様な拘りを見せている。詳細に検分するまでもなく、一目で表情が変わったではないか。では如何なる理由であろうとも、取引の切り札としては最良のものなのかもしれない。
 干上がったような喉からようやくイルヴィスは言葉を搾り出した。
「陛下、どうか妹のこと、ご再考を。この剣はきっと献上いたしますから」
 お願いいたしますと続けようとしたとき、突然腕が強く引かれてイルヴィスはよろめく。皇帝が鞘を掴み、自分のほうへ手繰り寄せようとしているのだと気付くのに一瞬の間があった。そんな粗暴なことは初めてでイルヴィスは咄嗟にやめてと言いながら剣を抱きかかえる。何が起こっているのかわからない。

 夫が合図したのか、近衛の男が駆け寄ってきてイルヴィスの肩に体重をかけ、紅剣の柄に手をかけた。やめて、と搾り出しながらイルヴィスは剣を握り締め、男を振り切ろうと身をよじった──その矢先、自分の手が意志を持っているように柄をしっかりと持ち直したのが見えた。
 イルヴィスは声を上げた。凄まじい速さで自分の腕がすらりと紅剣を抜き放ち、近衛へ一撃振り下ろすところだった。紺の制服が咄嗟に飛びすさり、さがりながらも無駄のない動作で剣を抜くのが見える。何かを考えるより先にイルヴィスは突き出された白刃を身ぎりぎりでかわし、腰を低く屈めて剣を下から振り上げた。
 飛沫が頬に降りかかる感触がして、生暖かに水滴が滑り落ちた。紺の制服が下へがくりと沈む。その身に銀の刀身を振り下ろす。絶叫がする。制服の袖がちぎれ、後方へ軽く跳ねながら転がる。
 剣が返る軌道のまま近衛の身体に消えた。イルヴィスは喘ぐ。握りこめる刀身から何かがどくどくと脈打ちながら体内へ入ってくる感触がする。強い歓喜と共に脳裏が白くなるほどの陶酔が目の前を踊ってくらくらする。それはあまりに強い快楽であった。

 その歓喜に導かれるまま、イルヴィスは廊下へ這い出ようとする紺色の塊を追った。背後から貫く、快楽、抜き払う、愉楽、目に映る現実に赤く美しい被膜がかかり、その中で脳髄まで痺れて体の操作さえ覚束なくなるほどの悦びが腕を背を支配している。
 イルヴィスは喘ぐ。剣で何度も叩きつけているとやがて紺色の塊が動かなくなり、次第に高揚が薄まっていくのが分かった。
 手が震えている。抑えなくては、駄目よ、今はこれ以上は駄目。自分でもよく分からないことを呟きながら、イルヴィスは剣を鞘へ収めた。鍔に触れる金属の軽い音が契機だったように、ふっと我に返り、すぐに顔をしかめた。

 酷い臭いがした。金属のようでもあり、生臭いようでもある。何の臭いだろうとイルヴィスはゆっくり部屋を見渡し、ぎくりと硬直した。色の違う大理石を組み合わせて芙蓉を描いた飾り床に赤い紋様がある。刷毛で擦ったような模様、散る飛沫──そしてその向こうの動かない身体。紺色だった制服がじっとりと何かのために濡れ、黒ずんでいるようにも見える。
 手が震える──恐怖ならば良かった。けれどそれは歓喜の余韻と、もっとという強い声だ。震えている手、腕、痺れるように立ち尽くしている脚、そのどれもがもっとという希求をイルヴィスに訴え、ねだり、足りないと喚き散らしている。
 足りない。もっと。この快楽に浸っていたいでしょう? ねぇ、全然足りないでしょう? もっと? 足りない。足りない、足りない、足りない、足りない、足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない……──

 誰かが息を呑む気配がした。さっとイルヴィスは視線をやった。女が一人限界まで瞠目しながら床にへたりこむところだった。
 この女、とイルヴィスは眇目になる。見覚えがある。どこかで会ったはずだ、どこかで。栗色の巻いた髪や大きな目などにどことなく記憶を引っ掻かれてイルヴィスは苛立ちのままに唇をゆっくり舐めた。
 途端、イルヴィスは呻いた。血の臭いと思ったのも一瞬で、甘美な香りが鼻腔を抜けて脳髄まで届く。甘いわ。イルヴィスは微笑む。とても甘くていい香りだ。ずっと啜っていたいほど。もっとという声に頷きたくなるほど。
 イルヴィスは一度鞘に収めた剣を抜き、女の正面に立った。女が喉だけで嗄れた悲鳴を搾り出す。その声さえ耳にまろやかだ。

「お願い、お姉さま、イルヴィスお姉さま、わたし、わたし」
 獣のような臭いが女から漂ってくる。恐怖のあまりに汗が吹き出しているのだろう。けれどお姉さまと呼ばれたことでやや意識はそちらへ戻る。やはり知り合いなのだ。
 この疑問が胸をよぎるうちはやめてあげるわ。イルヴィスは呟きながら剣を収める。そうするとたぎるような熱はややぬくまって、ようやく思考が戻ってくる気がした。
「陛下」
 イルヴィスは椅子の上でみじろぎもせず呆然としている男を睨み据えながら低く言った。それではっと我に返った皇帝が自分を見つめ返してくる。その瞳にあるのはいつか信じていた穏やかな愛情や健やかな友愛ではなく、くっきりと恐怖だった。
「イルヴィス、お前──」
「妹をお助けくださいませ。助けていただけるのであれば、剣は差し上げたいと、わたくし、そう考えていますのよ」

 イルヴィスは微笑んでみせる。この顔が彼は好きだったはずだ。美しい姫として生まれたイルヴィスの唯一の瑕疵は母親が爵位を持たない豪商の娘であったことで、それだけが自分をいつも傷つけてきた。それを庇うため、イルヴィスは美しさに対して隙なく傲慢で在り続けなければならず、その武器としての華やかな笑みは欠点を隠してくれていた。それさえ惨めなことだと気付きもせず。
「わかった、わかったイルヴィス、エグレットを連れ帰るがいい。今、勅令を書くから……」
 男が視線で指図するのに応え、女がよろよろと立ち上がり、書斎のほうへ消えていく。あの後姿にも見覚えがある。後宮で常に知っていた顔であればすぐに出てくるはずだけれど、とイルヴィスはじっと彼女の背を見ながら考えるが、回答は容易に出そうになかった。

 皇帝が差し出した羊皮紙を受け取り、イルヴィスは頷いた。印章はないが筆跡と署名の形式が正しく、見ればこれが本物であることはわかるはずだった。
「エグレットを解放し、ここへ連れてくるように」
 女が羊皮紙を受け取ってよろめきながら出て行くのを見送り、イルヴィスは微かに溜息になった。
 名を呼ばれたのはその時だった。唇を結び、イルヴィスは夫だった男に視線を移した。彼は青褪めてはいたが、真剣な顔で手を差し伸べていた。
「剣を見せて欲しい、その剣を」
 イルヴィスは手にした紅剣を見やる。変わらず美しく圧倒的な存在感を放つ剣であった。だが皇帝がこれに執着しているのはそれとはまた違う理由によってだろう。彼は一目見た瞬間から固執というほどに拘泥していて、血臭漂う中にあってもこれが気になるらしい。

「この剣がどうかしたのですか陛下」
 問うている自分の声に浮くひどい倦怠にイルヴィスは苦笑になる。抜いてしまったときの快楽の記憶はようやく薄くなっているが、まだ目の端には近衛の男だった肉隗が転がっている。腕ごと斬り飛ばした袖からは剣を握ったままの手がのびていて、それも血溜まりの中に浸って動かない。それをやけに冷静に受け止めている自分が可笑しかった。
 皇帝はイルヴィスの表情に何を思ったのか、ぶるりと震えた。イルヴィスはどうしたのですかと言いながら、男の頬を撫でようと手を伸ばした。
 軽い音がして手が痛んだ。男はイルヴィスの指先を打ち払い、剣を、とだけ言った。
「それは大帝の遺産……だと思う、イルヴィスもっとよく見せて欲しい」
「大帝……?」
 意外な言葉にイルヴィスは首をかしげた。大帝と呼ばれるのはこの国では九百年以上前に国を創建した始祖大帝ただ一人、その遺産と呼ばれるものはいくつかあるが、剣は確か埋葬されたはずであった。けれど嘘だと一蹴してしまうには彼の目つきは真剣で、遊びを許すものではなかった。

「そうだ、バシュラーンという……」
 初めて耳にする銘にイルヴィスは首を振る。そうだろうと男は頷き、これは秘事なのだということを言った。
「もしそれが大帝の遺産であるとするならば、私に所有する権利があるはずだ。私は大帝の血をひく正当な主なのだから」
 それは確かなことであった。彼はリジェス四世を名乗り、現在この国の極まった位置にいる。イルヴィスは頷いて剣を皇帝へ差し出す。
 それを受け取った彼が感極まったような吐息を漏らすのを聞いた。それは彼が求めていた剣であったというよりは、イルヴィスと同じ、剣に魅せられた時の感嘆であるように聞こえた。
 皇帝が剣を抜こうと柄に手をかける。その途端、火花が爆ぜるような音がして一瞬光が目を焼いた。皇帝が剣を取り落とす。手を押さえて呻いている姿にイルヴィスは大丈夫ですかと声をかけた。

「なんの手凄だイルヴィス、私に使わせないつもりなのか」
「何を仰っているのか分かりませんわ。普通に抜けばよろしいのです、こうして」
 そういってイルヴィスはすらりと刀身を抜き出してみせる。ささやかな刃滑りの音と共に、銀に細く輝く抜き身が現れ、イルヴィスは目にするたびに見事という感嘆を覚えた。
 刀身にはまだ血の油が残っていた。あの男のものねとイルヴィスは近衛であったそれをちらりと見やる。自然と手が動き、一度振り下ろすような仕草でそれを払い落とした。
 何故自分がこんなことを出来るのか、何故扱いに長けているのか、そんな疑問など最早どうでもよかった。重要で重大なのは剣を奮う自分の中に獣がいて、それが快楽を欲しがって激しく啼き狂うこと、そして獣を飼いならすことも解放することもイルヴィスが選択出来るということだ。

「普通の良き剣ですわ、陛下。大帝の遺産であるというバシュラーン? それであるとしても、とても」
「イルヴィスそれを寄越せ。私のものだ」
「エグレットと引き換えと申し上げましたわ」
 ぴしりと遮り、イルヴィスは微笑んだ。皇帝に意見し逆らうなど、ほんの二月前には想像すらしていなかったのに、今剣を片手に彼を脅すような真似をしているのがひどく皮肉に思えたのだ。
「わたくしは、約束は守ります。エグレットを解放していただけたらこれは勿論陛下に献上いたしましょう」
「その男のことはどう言い訳をするつもりだ、イルヴィス。お前があれを斬り刻んだ……」
 言いかけて皇帝は口元を押さえ、えづきそうになるのを殺した。イルヴィスはじっとそれを見つめる。
 男を屠ったときの記憶は極彩色の興奮の中にあって、ぼんやりとした輪郭しかなぞることができない。飛ぶ血泡と斬り飛ばされて転がる腕、絶叫と苦痛の呻き、刺し貫いた剣が床に到達する硬い感触。それらを次々と記憶から引き出しても、付随してくるのは恐怖や醜怪さではなく、鮮やかな悦楽だった。

 知らずイルヴィスは微笑んでいたようだった。剣を握るときの高揚を、身実を貫く戦慄に似た喜びを、他人に理解させることなど意味がなく、説明するなどという無駄なことをするつもりもなかった。この感覚はわたくしだけのもの。誰にも触らせないし誰にも分け与えない。わたくしだけの剣よ……
 名を呼ばれてイルヴィスははっと顔を上げる。皇帝の顔は強張り、奇妙に歪んでいる。それは何とか微笑もうとしているように見えた。
「いや、あの男はお前に狼藉を働こうとした、そうだ、そうしよう、イルヴィス。いいだろう? だから冷静になって私にその剣を渡しなさい」
 宥めようとしているのか、彼は必死に頬を引き攣らせている。けれど目はまったく別の表情をしており、せわしなく瞬きする瞳に明滅するのは恐怖の光だった。
 剣を、と手を差し出されたとき、その仕草が不意にイルヴィスの決壊を破った。これはわたくしの剣よ! 胸の内で癇症に叫ぶ声が聞こえた瞬間、イルヴィスは無言で剣を抜き、差し出された手へ振り下ろした。