魔女の末裔6

 エグレットが芙蓉宮へ姿を見せたのは、それから半刻も経った頃だった。背後に鎧鳴りの音がひしめいている。後宮に入ることのできる軍装は近衛だけだ。紺の制服は平服だが、武装してきたということなのだろう。
 おねえさま、とエグレットがイルヴィスに飛びついてくる。床に流れ出た血液も濃い腐臭も、イルヴィスが切り刻んだ死体もまだ残っているが、そんなものを踏み越えて一瞥もくれなかった。
「おねえさま、これはどういうことになっていらっしゃるの? わたくしはおねえさまを説得するように言われたのです」
「ごめんなさいねリッテ。わたくし、少し夢中になりすぎてしまったようなのよ」
 優しく妹の頬を撫でると、うっとりという視線をイルヴィスの顔に彷徨わせながらエグレットはいいえ、と微笑んだ。
「おねえさまのなさることに一つも不服などありません。どうせならこの宮廷の何もかも、切り刻んでいただいたら良かったのに」

 ふふふと笑う妹は、やはり先ほど見た女より数段美しい。少し上目遣いに微笑む瞳に浮かぶ悪戯っぽい表情と、ゆるめた口唇の愛らしさ。僅かに細められた形良い切れ長の目と、するりと通った鼻筋の完璧な配置。
「まぁ、滅多なことを言うものではないわ、リッテ。陛下はお前をお許しくださるとの慈悲を下さったのに」
「あら、そうでしたわね」
 エグレットは椅子に篭められたように座り込んでいる二人の夫だった男に軽くスカートの裾をさばいて一礼した。
「ごきげんよう、陛下。わたくし、とっても寂しかったのですよ? 何故一度も会いに来てくださらなかったの? とってもとっても寂しくて、もう少しで陛下を呪うところでしたわ」

 言うなりエグレットは天を仰いで笑い始めた。酒精は抜けているが、まだ夢の中を彷徨っている妹の心をつなぎとめるためにイルヴィスはリッテと呼んだ。
「もうよろしいでしょう、リッテ。あまり長くいると血の臭いが染み付いて取れなくなってしまうわ」
 あらとエグレットは華やかに笑い、自分のスカートの裾を汚す血に視線をやった。そこは部屋の床にまかれた血液を吸って端から僅かに赤茶色く変色を始めている。
「こんな臭い、大したことはありませんわ。ここには新しい衣装が沢山ありますから、少しお借りしてゆけばよいのです。ねぇ陛下?」
 ああ、と答える皇帝の目線はしきりにイルヴィスと紅剣を行き来している。先ほど軽く引っ掻いてやったのに、まだ喰い足りないのかとイルヴィスは紅剣の柄を軽く指先でなぞった。

 途端彼の顔が引き攣り、目を背けた。弱い、とイルヴィスは単純に不服を覚える。手の甲に軽い、猫に引っかかれた程度の線を描いてやっただけで彼は自分の奴隷だ。
 奴隷という言葉に再度巡りあい、イルヴィスは小さく微笑んで見せた。
 父は家の奴隷、自分はその奴隷、そして彼は自分の奴隷。隷属するものが違うけれど、みな同じく誰かに闇雲に頷くしかできない弱き者共の群れだ。
 そして自分は今、その崖に手をかけて外の世界へ出ようとしている。新しい世界が一層の悪意に満ちていることも知っているけれど。

「リッテ、着替えておしまいなさい。あなたにはもっと繊細で可愛らしい衣装がいいわ。とてもよく似合っていらしたもの」
 ええ、とエグレットは頷き、それでよろしいですわよねと皇帝を覗き込んだ。頷くだけの彼に声を立てて笑い、背を伸ばしてゆっくりと衣裳部屋へ入っていく。皇后として君臨していたときと同じ、静かで動かない鉄の気品が妹の周囲に戻っていることに気付き、イルヴィスは頬を緩めた。
「もういいだろう、イルヴィス。剣を渡しなさい」
 さあと手を伸ばされて、イルヴィスは軽く睨む。皇城を出るまでは彼を人質として帯同させなくてはならないことを考えている身としては、今剣を渡してしまえば全ての決算を一息に払うことになるはずだった。
 後戻りは出来ない。近衛を殺し、皇帝に剣を向けたことはどうにも繕う事ができない。けれど剣を握っているうちは自分の身体は誰よりも自由に雄雄しく動き、物語の中でしか出会わなかった歴戦の勇者のように血煙をくぐりぬけながらも立ち続けることができる。それは誰に聞かなくても確信できることだった。そしてそれが、剣のもたらす福音であり、失えば全てそれに付随して消えてしまうことも。

「皇城を出てからお渡しいたします。わたくしのことも、妹のことも、無事だと保障していただかないと困ります」
「それならすぐに勅令を出す。もう満足したはずだ、そなたは」
「勅令は乱発するものではございませんわ。陛下もそう仰っていたではありませんか。わたくしも、心より同意しておりますの。このようなつまらないことで勅令まで頂く必要などございません」
 しかし、と男が言いかけるのをイルヴィスは剣の鍔を弾くことで黙らせ、じっと扉の外を見る。目に映る範囲には誰もいないが、殺気立った沈黙は回廊の向こう側から涼風のように吹き付けてきて明らかだった。剣を渡してしまっては駄目。イルヴィスは掌に浮いてきた汗を裾でぬぐい、剣を握りなおした。
 この剣は命脈だ。手放してしまったら命が消える。
 生きたい。まだわたくしたちは何も見ていないから。奴隷の見る空と、自由に見上げる空はまた違う色──だろうか。

 イルヴィスがじっと回廊のほうを睨みすえていると、衣擦れの音がしてエグレットが戻ってきたのが分かった。鏡台にあったものをそのまま使ったのか、いつも妹が衣装に焚きこめていていた麝香ではなく、梔子の甘たるい香りがする。こんな香はイルヴィスにも覚えがない。では、新しい寵姫のものなのだ──ふとイルヴィスは気付いた。
 新しい女、新しい香。ここは新しい寵姫の居宮なのだ!
 脳天から血の気の滑り落ちていくざあっという音がした。近衛の男が皮肉に唇を歪めながら期待するなと言ったのはこういう意味だったらしい。
 見覚えがあるという記憶へイルヴィスは目を凝らした。

 後宮での記憶がないのならば、まだ後宮入りする前、アリッシュ伯爵家にいて爛漫と誇っていた頃のことのはずだ。その頃の知り合いといえば出入りの騎士や商人たち、それにアルカナ大公家系列の親類たち……
 イルヴィスはあ、と小さく声を上げた。あれは確かアルカナ宗家の女だ。アルカナ宗家での夜会に皇帝が臨御した際、最初に彼の元へ薦められた女。容色は可憐ではあるが、エグレットの銀色の輝きの前ではくすんだ錫のようで、皇帝は隣に佇む姉妹に目を奪われてそぞろだった。結局それが契機にエグレットの後宮入りが決まり、イルヴィスは添えられ、アルカナ宗家と永い誓いの慶事としてエグレットの立后が決まったのだ。
 アルカナ宗家、と呟いてイルヴィスは低く呻いた。ではあれはただの寵姫ではない。もしかすると皇后になるかもしれない女だ。

 イルヴィスは知らず胸元を掴んだ。姉妹を追いやってすぐ寵姫を立てることも確かに自分を打った。なんと心無い仕打ちかと感じた。けれど彼女がこうしているということは、アルカナ宗家は姉妹の廃后をすぐに繕いきり、全く口をぬぐって知らぬふりを決め込んだということになる。
 ──いいえ。
 魔女という戯言も、本気でアルカナ宗家がもみ消しにかかれば出来たはずだ。それだけの力で彼らは国の根幹に食い込んでいる。けれどそれをおざなりにし、宗家の女を送り込むために自分たちは捨石にされたのだ! 彼らはやっと元に順序が戻ったと思っている! 係累ではあるが宗家ではない女達が国母という立場を得ることを不本意だと考えていて、僅かな切っ掛けを逃さず断ち切ったのだ。その供物がエグレットの死と自分の更迭ということだ。
 イルヴィスは椅子に座る登極人へ視線を与える。
 ──そして彼はそれを薄々分かっていながら手を打たなかった。彼にとって全ては自分の周りを飾る衣装や玉珠と同じで全て取り替えの利くもの、身体の表面を流れ落ちていく水滴のようなものなのだろう。身を飾っていた二粒の真珠のように。

 息の詰まるような憎しみ、赤い衣を纏った怨みが胸にこみ上げてくる。イルヴィスは震え出す指でこめかみを押さえ、長く長く溜息をついた。胸の中の噴きあがる怒りは今すぐこの男を八つ裂き、切り刻み、あらゆる苦痛を与えてやりたいと訴えているが、それをすることは出来ない。命があってこそ違う世界を見ることが出来る。今は駄目。
 気をそらすためにイルヴィスは着替えを終えて戻ってきたエグレットへ視線をやり、気の抜けた笑い声をこぼした。もう何をどう失望していいのか分からない。彼は一体無神経なのか、それともただの馬鹿なのだろうか。どちらにしろ、まるで平板な起伏しか精神に持っていないのだ。

 ……それは誕生日の夜会にエグレットが作らせたという、真珠色の衣装だった。裾の淡い海泡の模様もまだ美しく、練りこまれた絹の光沢もまた、見事だった。
「おねえさま、ご覧になって。こんなところにこれがありましたの。ねぇ、わたくしがおねえさまとの思い出にと作らせましたのに、他の者に着せても意味がございませんわ。これは、わたくしにしか合わない服です」
 エグレットは微笑みながらくるりと回ってみせる。裾がゆれ、絹に夜の灯火がぬめぬめと光った。そうねとイルヴィスは頷き、よく似合っていてよ、と微笑んだ。エグレットは嬉しそうに唇をゆるめ、うふふと声を上げながら一礼した。
「陛下、わたくし、陛下のお仕打ちは忘れません。きっときっと、忘れません。わたくしが魔女かどうか、これからずっと考えながらどうか御身永くご壮健でとお祈りいたしますわ」
「もういいでしょうリッテ。わたくしたち、これからのことを考えなくてはいけないわ」
 皇帝の顔がこれ以上ないというほど蒼白となったところでイルヴィスは割って入った。エグレットはどこか箍の飛んだ目線をイルヴィスに戻し、そうねと微笑んだ。妹の心は危うい線を行きつ戻りつしているようで、直視するには辛く、痛ましく、それをすぐに引き戻してやることが出来ないのも胸を挟むように苦しいことだった。

「イルヴィス、剣を渡しなさい」
 エグレットよりは話が通じると踏んだのか、再度皇帝がそんなことを言うのに首を振る。エグレットが紅剣に目を留めて、それは何? と無邪気な声で聞いた。
 わからないわ、とイルヴィスは答えた。バシュラーンという銘は皇帝がそう主張しているだけで何の確信にもならないし、ましてこれが歴史に名高い大帝の遺産の一つだと言われても信じるに足りる材料が何もない。彼が単純に自分から取り上げようとしているだけなのだと考えてしまうほうが楽なほどだ。
「でも、とても美しい剣ね。少し見せていただいても構わない?」
 ええ、とイルヴィスは頷き、妹に剣を手渡した。エグレットは素敵、と頬をゆるめて剣を抜こうとしたが、何の拍子なのかやはり刀身は鞘に納まったきりで動こうとしなかった。
 先ほど皇帝が抜こうとしたときも同じことが起きていたのをイルヴィスは見た。つまりこれは今、私にしか扱えない剣になっているのだという答えが突然ひらめいて、イルヴィスは笑い出したくなった。この剣は自分のものだと主張する男がいて、彼に確かに主筋があるのにも関わらず、可能であるのが自分だけという事実は確かに心地よかった。

 不意にエグレットが悲鳴をあげた。イルヴィスは顔を上げる。背後から何かが激しくぶつかり、肺が一瞬軋む。喉を鳴らしてイルヴィスが片膝をつく瞬間、後ろから自分の首に回った腕が喉を締め上げた。鼻腔に血が集まる。何かを喘ぐように開いた唇から空気は僅かにも入ってこない。
 目の焦点が揺らぎ、脳裏が白くなりかけたとき、おねえさま、と叫ぶエグレットの声がして、急に呼吸が通った。
 重い身体を動かして振り返ると、エグレットが紅剣を鞘ごと振り上げ、皇帝へ一撃くれるところだった。やめなさい、と静止するより先にエグレットは一瞬動きを止め、呆然という顔つきでイルヴィスを見た。その瞳が潤んで泣き出しそうだと思った瞬間、エグレットはやわらかに微笑み、そのままの表情で崩れ落ちた。

 リッテ、とかけた声が消えるよりも前に、地鳴りがした。それが駆け込んでくる軍勢のあげる威鳴りであったことはすぐに分かった。エグレットの背に突き立った槍が彼女の細く繊細な肌を裂き、血を降らせ、自身の重みで抜け落ちていく。崩れたエグレットが背をゆるく反らせ、その上に倒れこんでいくのがひどくゆっくりと見えた。リッテ、とイルヴィスが手を伸ばすのと同時に槍がエグレットの腰と腹を突き破って貫いた。
 軽い音をたててエグレットが転がる。限界まで見開かれた目には何の恐怖もなく、ただ、おねえさまと小さな声で囁いた。
「わたくしは、おねえさまを傷付ける男は許しませんわ。おねえさま、きっと、わたくし、許しませんわ……」
 それだけを呟き、エグレットは凍えたような顔を動かして唇をゆるく開いた。微笑もうとする頬がぴくぴくと引き攣っていて、エグレットの命数がつきかけていることを教えた。

 全身の血が逆立つような感覚がした。目の前が熱い。何も考えられない。獣のように唸りなら素早く立ち上がり、エグレットから紅剣をむしりとろうとしていた皇帝に飛びついて剣を抜き、殺到してくる近衛に向かって刃を向けた。全身の血がたぎり、心と命をかきたて、叫んでいる。
 敵を屠り、敵を打ちのめし、累々の屍を超えて前へゆけ。自分の手で拓く自分だけの道へ!
 繰り出される銀の殺意をイルヴィスはくぐりぬけてかわし、目の前の騎士の軽鎧の隙間へ紅剣を滑り込ませる。あがる悲鳴、降りそそぐ血潮、生暖かい雨。剣からは歓喜のような悲鳴が聞こえる。もっと! 声が強く囁いてくる。その声に応えるためにイルヴィスは剣を抜き、更に打ちかかってきた騎士の手首から先を刎ね飛ばす。頬に血漿がかかり、甘美な匂いにイルヴィスは声を上げて笑う。
 生きている。今、この瞬間に、自分は圧倒的に生きている!
 快楽なのか苦役なのか、背を鞭打つ衝動がもっと、足りない、と喚いているのが聞こえる。それはどんな声よりも強く、まろく、甘く、そして激しかった。
「殺せ! その女は魔女だ! 殺せ! 早く!」

 その叫びが耳を打ち据え、イルヴィスは振り返る。夫であったという事実が遠く霞む。胸を叩くのは失意と哀れみだ。憎悪にすら値しない。
 お父様は家と共に斃れる白蟻よ。エグレットの声が笑っているのがどこかに聞こえている。
 だとすれば彼もまた、虫の眷族と思われた。羽虫一匹叩き潰すのに躊躇など必要なかった。イルヴィスは無言で剣を振り上げる。
 その背に焼けるような熱い痛みを覚え、イルヴィスは呻く。あ、という自分のあげる声が意外そうな響きだ。痛みはすぐに全身を貫き、つま先までが重みを持って痺れてくる。瞠った視界に青褪め、唇を歪めてなお暗く笑う男が見えた。紅剣の鞘を握り締め、男は笑っている。

 胸の奥がかっと滾るままイルヴィスは背から刺し貫く剣の主を、逆手にした紅剣で刺した。呻き声と共に背に張り付いていた重みの一部が消える。
 イルヴィスはもう一度剣を振り上げる。男に向かって打ち下ろそうとしたとき、背後で鎧の音がするのが聞こえて振り返った。騎士がイルヴィスに向かって剣を振り上げており、その脚にエグレットが全身ですがりついていた。脚を取られた騎士がエグレットを蹴り飛ばし、イルヴィスに向き直って剣を握りなおそうとした隙間、イルヴィスは飛び込んで剣をなぎ払った。血飛沫がぱっと靄のように薄くかかり、絶命の叫びを上げてそれは斃れていく。

「おねえさま、わたくしたち、生きましょうね」
 そう妹が呟くのが聞こえた。
「ずっと、ずっと、何度でも甦って、何度でも、ご一緒しましょうね、ずっと生きましょうね、ずっとずっと、一緒に……」
「分かっているわ、リッテ。愛しているわ」
 約束、と唇が動いたのを最後にエグレットは硬質の美貌をことりと横たえ、動かなくなった。イルヴィスは叫びも泣きもしない。ずっと甦って何度でもとエグレットが言った。
 その最後の望みを果たす瞬間は自分にも近いことは分かった。背に突き立ったままの剣の隙間から、自分の命も流れ尽きてゆこうとしているのが分かる。
 だからせめて、僅かばかりの誇りや、意地のために。

 イルヴィスはよろよろと剣を構え、振り返った。紅剣の鞘を握り締めた男が叫ぶのが聞こえた。
「魔女だ、早く殺せっ」
「──ええ、わたくしは魔女かもしれないわ」
 イルヴィスは低く、凍えてしまいそうな唇を動かした。
「こんなに全てが憎いもの。だから呪うわ。お前を。お前を生み出した血筋を。わたくしたちを捨てた全ての者を呪うわ。この世に安息などなく、平穏など夢だと思い知らせてあげるわ。お前を呪い、この国を呪い、いつまでもいつまでも甦り、ずっと生き続け呪い続けてみせる」
 背に剣が刺さる。腰にも、腹にも、いつか夫が白く吸い付くようだと誉めた肌に傷が入るたび、イルヴィスは声を上げて嗤った。紅剣を振り上げる力など残っていない。ただ握り締めてひたすら声を上げて笑った。

「呪ってやる」
 イルヴィスは男を睨み据える。肩が切り裂かれ、胴が折られ、身が耐え切れずに床に倒れこむ。
 自分を切り刻む白刃の雨の中、呪ってやる、呪ってやる、とただ繰り返す。最後に呪ってやると呟いた声はかすれ、血泡の中に消え、それと同時にイルヴィスの灯火も風に曝された紙燭のごとく消えた。