雪行路(試読版)1

 ……残暑を惜しむ蝉の声が山野に響き渡っている。波になって伝わる芯への響きに気を取り戻した子供は顔を上げた。彼はまだ幼かったが、自分の身の上に起こったことが普通でないことだけは理解していた。
 ……蝉の声がじわじわ降りそそいでいる。子供はそろそろと身を起こした。彼を襲った疾風のような災厄は、やはり風のように駆け去っていた。子供は強烈な頭痛が後頭部にすることに気付いた。転んだときに怪我をしてしまったのだろうか。痛い、と思った瞬間いつものようにそれを訴えようと姉ちゃん、と呼んだ。
 ……蝉の声が哀痛を叫んで濃ゆくとぐろを巻いている。
 姉の返答はついに返らなかった。子供はよろよろと立ち上がり、立ち上がって視点が上がったことで子供はその周辺の惨状を目にした。倒れている大人たち、その殆どは血流に伏せてぴくりともしない。これが尋常でないと子供は悟った。
 子供は姉ちゃん、と呼んだ。唯一の庇護者を。
 ……蝉の声が返る。
「姉ちゃん」
 子供は次第に込み上が不安に押し潰されるように姉を呼んだ。
「姉、ちゃん」
 ついさっきまで彼の手を握っていてくれた白い手はどこにも見当たらない。子供は大人たちの体の隙間から姉の痕跡を捜そうとするが、見つからない。
 ……蝉の声がはりつくようにじりつき、騒ぎ立てている。
「ね、え、ちゃん」
 少しおどけて呼ぶといつもは何よという微笑み混じりの声がしたはずだった。
 ……降り注がれる蝉の、痺れるようなわめき。
「ねーえ、ちゃん」
 姉の声はやはりしなかった。蝉が煩くて聞こえないのだと、子供は小石を拾って近くの木に投げる。一瞬そこは静寂に戻った。
「ね、え、ちゃーん、ねーえちゃん、ねえちゃん、ねえちゃん、ね、え、ちゃ、あーあ、ん、」
 一度は止まった繁雑な鳴き声がまた周囲を席捲し始めた。
 子供は急激に上がってきた涙を唇だけで堪えながら姉ちゃんと繰り返した。そうすることだけが、姉の返答をもらえる術なのだと思っていた。
 ……蝉の声が煩く何重にもなって響いている。
 子供はそれに負けまいと大声を張り上げた。
「ねーえ、ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃあん」
 それが号泣になるまでさほど無かった。姉ちゃんと呼ばわりながら子供は泣いた。泣き、続けた。
 もちろん子供は知らない。
 大陸の北部には自分たちと全く違う文化と風習をもった民族がいることを、彼らを自分たちが蛮族と見下していることも、彼らもそれを知っていることも。
 そしてやはり子供は知らない。
 彼らがしばしば国境の河を越えてこちらへ侵入し、略奪を糧としていることを。河が凍りつく冬はそれも収まるが、問題はそのせいで本国へ戻る道の困難になった彼らのほうだということも。生きるためにその冬には近隣を縦横に駆け回って村々を襲い、必要なものを手に入れていることも、そのまま盗賊としての生業に身を堕とす者共があることも、子供が出会ったのもそうしたはぐれ族であったことも。
 彼は何かを知るにはあまりに子供であったのだ。
 それが結論であった。