雪行路(試読版)2

 相翰そうかん、と風に乗って声が聞こえた。少年は茅刈りの手を止めてかがめていた腰を伸ばし、声の方向を見た。この声が誰であるか、考えなくてもよかった。癩性で怒りを何処か含んだ声は梁敲りょうこうだ。
「相翰、返事をおし、相翰ッ」
 ここです、と手を挙げて返事をするとやがて草の波を掻き分けるようにして中年の女が顔を出した。彼女は背が低い上に右足を蛮族にもっていかれており、そのせいで腰を屈めて歩く。それで背の高い草に囲まれると相手が見えないこともあるのだった。
「まったく、返事くらいおし。どこで手を抜いているんだか分かりもしないじゃないか」
 口を開くと罵りばかり、相翰はいい加減うんざりとしながら俯いて聞き流した。その手が不意にぴしゃりと叩かれた。
「大方、あたしの言うことを黙って聞いていればいいと思っているんだろう。お前たちの考えることは皆同じさ。けど、あたしが上申書さえ書けばお前たちなんかもっとひどいところへ労働に行かされるのは決まっているんだからね。分かったら返事をおし」
 はい、と答えて相翰は叩かれた手をゆっくりさすった。別段痛いわけではないが、やはり軽い嫌悪はあった。皆同じ、というなら梁敲の方とていつも同じだ。気に入らないことがあると子供たちにあたる。相手の返答が気に入らないと難癖をつけてねちこく苛める。庇うと同じ目にあうから後で慰め合うしかない。
 何故助けてくれなかったのかという仲間はいなかった。皆結局は平等に経験していることでもあるからだ。それでも彼女が国の制度として成立している孤児たちの施設の管理人であることは間違いがない事実で、事実だからこそ重苦しいものだった。
 それに、と相翰は内心で溜息をつく。結局二十歳で成年と認められて戸籍を貰えるまでは施設にいなくてはならないが、どうしても嫌なら飛び出していっても構いはすまい。流れていく旅人たちの間に混じっていくことがそう難しいことだとも思わない。
 それを計算に入れながらここにいるのは、梁敲が言った通り、この杷遼郷の暮らしがやはり恵まれているからだ。梁敲はこんな調子だが郷長は枯れた風情の老人で、苛性でない。それに二十歳まであと五年だ。
 穀物の出来不出来は天の決めることだから波があるが、飢饅にならないように蓄えておくことが治世であり、水害にならないように堤を整備しておくことが為政者の役目だ。
 この杷遼は国境の河から僅かに南へずれたなだらかな平原の土地柄、天領国領地に近く御士大夫役人の目が届くという物理的な理由ではあるが、善政が敷かれていた。運がいいのだ。恐らく。
 それを思って憂鬱に相翰が溜息になると、それを耳聡く聞きつけて梁敲がまた手を叩いた。本当は頬を張りたいのだが手が届かないのだろう。
 すみませんと相翰は軽く頭を下げる。近くにいたはずの仲間たちの気配は遠い。余波を貰うのを恐れて離れた場所で作業をしているだろう。
「お前たちは揃って根性が悪い。まったく嫌になるね」
 苛々と梁敲は爪を噛んでいる。何か用事ではなかつたのだろうかと相翰は梁敲を促した。梁敲は不機嫌に頷いた。
軍門大人将軍閣下幕友秘書さまからの使いが来ている、お前に、だ。さっさと寮堂へ行って、ご用事を承ってきな」
 軍門大人、と相翰は不思議な顔をした。心当たりはまるでない。幕友というのは参謀などの側近のことだ。相翰は首をかしげながら刈り終えた茅を束にしておき、鎌を腰へ挟んで畑から上がった。
 泥で汚れた足を拭って寮堂へ上がろうとしていると、背後からあの、と呼ばれた。振り返ると少女がぽつんと立っていた。年齢は十二、三というところか。意志の据わった強い光のある瞳が印象に焼きついた。
「こちらが杷遼の奨善院?」
 相翰は頷き、ちらりと寮堂を振り返った。この少女は新しい入寮者だろうか。ただ、今は多少間が悪い。あまり使者を待たせたことが梁敲に知れると夕餉を貰えないことだってあるのだ。
 その迷いが顔に出たのか、少女はくすりと笑った。
「いいわ、院長はどこ? 用事があるんでしょ、そっちへ行って」
 相翰は安堵に頷き、梁敲の房室のある講堂を指した。
「癖のある人だから気をつけてね。君、ここへ入るの?」
「いいえ。でも、人を待たなくてはいけないの。さっき郷府役場へ行って聞いたらあたしはまだ子供だからここへ行くようにって。働けば面倒を見て貰えるんだからいい事だわね」
 そうかな、と相翰は苦笑になる。それでもこの少女がそう長くない期間でここを出ていくとするなら彼女のためには悪くないことに思われた。