雪行路(試読版)3

 後でねと行って相翰は寮堂へ上がり、振り返った。少女の後ろ姿がまっすぐに彼の教えた講堂へ向かっていくのが見えた。梁敲に会ったらそれは驚くだろう。ずっと前の代の皇帝陛下の慈悲で始まったはずの奨善院を仕切るはずの院長があれだから。
 肩をすくめて待合室に入ると、待っていたのは若い兵士だった。
 郭相翰、と呼ばれて返事をする。郭は相翰の姓だった。名は煕。
「もうずっと以前、絡封で蛮族に襲われたということだが」
 それは事実だったから相翰は頷いた。髪で隠れていて普段は見えないが、後頭部には手で触ると分かるほどの傷痕がある。
 山越えの街道を背後から来た蛮族に一撃殴打されたのだった。ただ相翰が運が良かったのはそれですとんと気を失ってしまったことで、そのおかげで命を奪われずに済んだ。その場にいた大人は皆殺しだったのだ。
 いや、それは事実ではない。相翰は姉と二人、父方の祖父を頼って歩く旅の途中だった。両親がその年の流行り病であっさり亡くなり、奨善院に入るよりはと祖父の家に行く途中だったのだ。
 途中で行き会った旅芸人たちとの旅は楽しかった。幼い子供と、ようやく大人にさしかかろうとしていた年齢の姉との二人旅では危険であったし、両親の死から塞ぎがちだった姉がようやく笑顔を見せるようになったことも嬉しかったものだ。天涯孤独なのだとばかりに硬く自分の手を握り締める姉の、細い腕の強い力が痛かった……本当に、痛かった。
 その道行き、雑談をしながら杷遼近い山道を越えていた時に突然彼らは現れ、大人達を皆家畜のように屠り、姉を攫って行った。姉の死体だけがなかったのである。彼等は南から現れ、西へと去った。わかっているのはそれだけだった。
「姉さまの名前を覚えているかね」
「郭、予、祥苓です」
 兵士は懐の書き付けを見て小さく頷いた。その懐から取り出されたものを見て、相翰は微かに瞠目した。記憶の底に揺らめくようなものがある。赤い陶器の玉を連ねた首環に見覚えがあった。
 知らず深い吐息になった。
 相翰の反応で兵士は確信を強めたように重い声で、これはお前の姉さまのものだねと念を押した。相翰は頷いた。薄れた記憶の中で姉の首にそれが巻きつけられていたのを見ていた気がした。
「一昨日に岳斗で捕まった蛮族の男がこれを持っていてな。締め上げたらお前の姉さまのことを喋ったよ。これがお前の姉さまのものならば、お前に返そう」
 受領の署名をするように言われて相翰は素直に従い、それから恐るおそる視線をあげた。いや、多分この答えは分かっている。
 兵士は多少言い難そうに目を逸らした。そうですか、と相翰はつぶやいた。
「姉は、死んだんですね」
 耳奥に、騒ぎ立てるあの日の蝉の声がした。
「死んだんですね……」
 兵士は重く頷いた。
 相翰は有り難うございましたと頭を下げた。半ば諦めていたとはいえ、喪失感は胸を刺した。風化しない記憶を思い出というならば、それは相翰の内では十分に昇華して、結晶のように美しく固まっている。
 相翰は返されてきた首環を握りしめた。冷たい陶器の感触の彼方に、それを遥か昔、身に付けていた人の気配は微弱であった。それがある気がするだけ、きっとましなのだろう。自分は運がいい。刷り込もうと何度も眩いてきた言葉を、相翰はもう一度自分に言い聞かせた。
「蛮族の男、というのは」
 一息いれて落ち着きを戻し、相翰は聞いた。蛮族を目にしたのは相翰が気を失う前のほんの一瞬のことだが、顔を見れば何かを思い出せるかもしれなかった。思い出したところで何があるとも思えないし、第一その男が姉をさらった男でもないだろう。だが、見える形での怒りの対象が欲しかったのも事実であった。
 兵士はゆるく首を振った。
「実は逃げてしまってな。そうだお前、この辺りで蛮族を見かけなかったか」
 彼らの風俗は明らかに相翰たちとは違っている。獣皮で作られた腰巻に分厚い袴、がっしりした靴、やはり獣の皮の肩抜きに厳寒の地特有の毛皮の帽子や襟あて、そのどれもに独特の刺繍が入る。必ず馬と犬を連れ、弓を構えている。弓は彼らの得意とする武器なのだ。相翰はいいえと首を振った。
 姉が行方知れずになり、相翰は幼くて祖父の居場所を知らなかった。結局相翰は拾われた里の奨善院に入った。
 孤児が食いはぐれぬようにという国の善意は施行の頃の崇高な目的とはややずれて、里の富を増すための労働力をただで提供する場所になりつつある。国と天子の大恩に感謝して自らの働きで返す……という美しい建て前が、相翰たちを朝から晩まで働かせて僅かな金さえ貰えない生活に押し込んでいる。
 兵士はそうかと頷いた。相翰から有力なことを聞けるなどと最初から期待もしていないのだった。
「見かけたらすぐに里長に届け出るように。邪魔をしたな」
 兵士はそれから思い出したように姉の冥福を祈り、帰っていった。取り残されて相翰はぬるい吐息を捨てた。
 姉のことは諦めるように、と誰もが言った。相翰はそれに逆らうでもなく頷いてきたが、真実諦めるには足らないものが多すぎた。最期の言葉も形見もなく、ただその場から忽然と消えただけのような、そんな気がしていたのだ。
 深い疲労を肩に感じて相翰はまた溜息をついた。だが、事実はようやく相翰の前に姿を見せた。姉の形見が帰ってくるという形で、はっきりとその死を告げたのだ。それはやはりという落着をもたらすと同時に、心奥にくっきりした落胆を連れてくるものでもあった。
 相翰は手にした陶器の首飾りを見る。姉には華やかで鮮やかな色が似合った。髪の結いあげを初めてしたときの姉の誇らかな様子が今、目に蘇ってくる。
 いや、それは姉の死をやっと事実なのだと思えたからこそ、克明になぞることができるのかもしれない。握りしめると冷たかった陶玉が相翰の体温に徐々に暖まっていくのがわかった。相翰はそれを大事に懐に収めると、畑仕事の続きをするために外へ出た。