雪行路(試読版)4

 夕食のときに先ほどの少女が隅に座っているのに相翰は気付いた。少女も彼を分かったのだろう、視線だけで微かに笑って頷いた。多少日に焼けていたから、あれから早速仕事を手伝わされたに違いなかった。
 相翰は碗を抱えて少女の隣に座った。少女がいざって場所を開ける。相翰が名乗ると黄鈴という返答があった。
 今日の碗は鳥肉の入った粥だった。正直相翰には若干もの足りない。何しろ十五の育ち盛りだ。
「早速仕事だったろ。ごめんな、客ならもうちょっとゆるめたっていいのに……」
 そんなことを言うと、黄鈴は首を振る。それほど表情に影がささないところを見ると気にした様子はなかった。
「いいわ。どこの奨善院もこんなものよ。それに働かなくては食べられないのは奨善院も関係ないわ」
「……君は偉いんだね」
 黄鈴は軽く笑った。自分の物言いがひどく子供じみていたことに気づいて相翰は苦笑した。適当に雑談をしながら粥を平らげてしまうと、黄鈴がくすくす声を上げた。
「あたし、あんまり要らないから食べなさいよ」
 相翰が何かを言い返す前に、彼女が素早く自分の分の食事を相翰の碗に開け、立ち上がった。一瞬返事の遅れたことを悔やみながらでもと言うと、黄鈴は唇で笑って首を振った。
「いいの。本当にいいのよ。……あまり、元から食べないの」
 それだけ言って黄鈴は手招きする少女たちの輸の中へ入っていく。寝起きする寮は男女別々だし、年頃が十の最初を越すころになると尚更意識し始める年齢のこと、相翰たちと少女たちは明確に、自分たちの自然な総意として離れていることが多い。
 輸の中から切れ切れに彼女の旅の話が聞こえるが、時折は少女たちの上げる笑い声などに消されて聞こえなかった。
 あまり遅くまで居残って話すことは難しい。灯心代や油代のことを、梁敲が細かく気に病んでいるからだ。あまり予算がないのも薄く分かってはいるが、余計なことをつい勘ぐっててしまうのは向こうの人徳というものであった。少女たちもその辺りの限界の機微を理解している。
 意外に早く引き上げていく子供たちに黄鈴は微かに怪訝な顔つきになったが、何であるのかを理解したのか苦笑になった。
 相翰は女子寮に引き上げていく黄鈴を見送る。しゃんと伸びた背中に彼女が年齢を越えて芯を確立していることを感じさせた。
 布団は冷えている。茅を刈り終える頃には雪が降りる。秋も深くなると布団を被っても中々温まらずに両手を擦り合せ、目を閉じて夢の中へ逃げてしまおうと躍起になるのが相翰の常だ。
 だがこの日は違った。戻ってきた姉の生命の証拠が相翰の神経を冷ややかなままにしている。冷たい陶器が手の中で存在を主張しているのだ。
 相翰は溜息になった。姉の存在は両親がいなくなって里を移ってからの相翰にとっては唯一の肉親の希望であった。
 これだけなのかと尋ねても良かったと相翰は思った。
 たったこれだけなのか。他に何でもいい、その男が持っていたのはこの首飾りだけだったのか。せめていつか、両親の墓廟に添えることができる、他の何か。
 この首飾りは相翰が姉と、姉のいた幸福な日常の追憶の想起のために手元に残しておきたい。これ以外何一つないとするならやはり落胆と言うべきであった。
 家族。相翰にはとうにないものであるが、記憶があるだけ自分はましだ。寮にいる子供たちの中には親がいなかったり、いても語りたがらないものも多い。自分は運がいい。運がいいのだ。
 いつものように刷り込む仕種はこの日は上手く行きそうになかった。姉ちゃんと泣く子供の声が、蝉に混じって聞こえてくる。
 相翰は一息ついて起き上がった。隣で横になっていた少年がどうした、と囁いてきたがそれには首を振る。ちょっと外、と答えると曖昧な返事が返ってきた。
 寮を出て廊下に座り込み、ぼんやり月を眺め上げる。
 追悼は一人でするものであった。手の中で首飾りを転がしながらそうして姉の思い出を掘り起こしていると、あら、という声がして相翰は声の方向を見やった。声で誰かは薄く分かっていた。
 女子寮の廊下を殆ど音も立てずに渡って黄鈴は相翰の隣へ膝をついた。どうしたの、と微笑みながら首をかしげる仕種は思いのほか年を取った女のようだ。そんな気配を一瞬感じて相翰は苦笑になった。黄鈴はどうしたって彼より年下の少女であるのだから。
「何でもないよ。君こそ、どうしたんだよ」
「あたし? あたしは……ちょっと、眠れなかったから」
 くすっと笑う顔が月光の下で明るく、屈託ない。相翰は釣られるように笑みになり、首飾りを手首に巻きつけた。
 いいお品ね、と黄鈴が言うのに合わせてそうだねと軽く流す。触れられたくないのが分かったのか、黄鈴はそれきり首飾りのことに口を添わせなかった。
 その代わり黄鈴は相翰の隣へ座り直していい月ね、と眩いた。彼女の気配読みの上手さに相翰は悪い印象を持たなかった。
 ありがたかった。感傷は一人で噛むものだ。感慨を分け合うことができる相手は血のつながった家族でしかなく、希望のあった唯一の家族の死を伝えられて後は真実、天涯孤独でもあった。
 姉もあの頃、同じように感じていただろう。そして自分よりも遥かに恐怖であっだろう。自分には姉がいたが、姉には誰もいなかったのだ。両親の死の哀しみと、物事をまだ分かっていない弟を抱え、彼女はそれでも必死で顔を上げようとしていた。
 何の折りだったか不意に抱きしめられた記憶がある。姉の腕が自分を抱き寄せ、胸に深く相翰の頭を抱え込みながら、大丈夫よ、と呟いていたあの声音。誰かにそう言って欲しかったのは姉の方だったのだろう。
 だが姉の覚悟も決意も全て背後からの風が吹き飛ばした。結局それだけのことでもあるのだ。相翰はぬるい溜息になった。
「誰か待っているって言ってたよね。ご両親?」
 黄鈴に迎えに来る家族があるなら、それは喜ばしいことであった。黄鈴は一瞬迷って首を振った。親みたいなものだけどね、と付け加えられて、意味が良く分からずに相翰は怪訝な表情になったようだ。黄鈴は小さく、忍びやかな声を上げて笑った。
「あたしの親はもう……ずっと昔に亡くなったの。色々……あってね、知り合った親代わりの人と旅を。もうそれも長いわね……でも時々は自分の親のこと思い出してあげなくちゃ、父さんも母さんも可哀相だから」
 誰も思ってくれないなんて寂しいでしょう、と付け加えて黄鈴は月を見上げた。その顔がいささか寂しげに相翰と似たような感傷を漂わせている。彼女の親のうちのどちらかは月の夜に亡くなったのかもしれないと相翰は思った。
 そうだねと相翰は眩いた。誰かが思い出して追憶することで人の死が過去として堆積し、やがて何かに変化するのであれば、その色が暖かであればよいと思う。
 墓廟の下には冷たい棺が置かれるだけだ。魂の転生や輪廻を説く教えや死んだら神の元へ召されるのだという教え、沢山の神と教えがあるにせよ、皆一様に死者の魂を弔う。
 それはきっと、誰かの死が誰かにとって大切なものであるように祈り願う、人の心の習性とも言うべき作用なのだろう。
 黄鈴は自分の姉のことを知っているのだろうかと相翰はぼんやり思い、それから自分で否定した。それを知ったのは相翰とて今日の昼間、寮友たちにも話していないのだ。だからきっと、黄鈴自身が相翰に合わせながらも遠からず近からぬ場所を選択しているのだろう。それを思うと、自分のほうが遥かに年少のような気がした。……結局の所、慰められているのだから。
 二人は目を合わせて微かに笑いあった。それが導きになったように、相翰は自分の親と姉の話を語った。黄鈴は頷きながら聞いていた。彼女に聞いてもらうと気が抜けていくほどに何かが楽に癒されていくのが分かった。
 俺は運がいいんだ、という呟きを、今度は自分で信じることができそうだった。耐え難い事実、心に許せない出来事があるときは相翰はこれをいつも繰り返す。幸福を探すのは難しいが、簡単なことでもあるという真実は彼の根の深い場所にあって、最早覆されるものではなかった。
 そして、それでも泣きたいときもある。そんな時慰める魔法の言葉が自分は運が良い、なのだった。
 相翰はゆっくり身を縮めた。丸くなる一瞬の、この満ちた感覚は明るい月夜には相応しく思われたのだ。黄鈴はそうっと笑い、そして不意に視線を流した。少女のみじろぎにつられるように、相翰は彼女の視線の先を追った。
 月光の下、村外れの方からふらふらと歩いてくる影があった。昼間に比べて格段に不明瞭ではあるが、体つきで女性だと分かる。
 何かを探しているのだろうか、時折足をゆるめては視線をあちこちに彷徨させているが、見つからないのだろう。悲しげな吐息が聞こえるようだった。
 黄鈴が素早く立ち上がった。思いもかけぬほど厳しい表情なのが見て取れ、相翰は背を正す。少女の体から張り詰めた緊張が溢れてくるようであった。空気にすくみ追われるように相翰は女に視線を戻した。
 女は変わらず頼りない足取りでこちらへ向かっていた。歩き方がおかしい。足に怪我をしているようだと気付き、相翰は声を掛けようとした。座って少し休んでいけばいい、と思ったのだ。
「でも」
 不意に黄鈴が呟いた。
「まだ何もしていないし、それに……いいえ、駄目よ」
 意味は不明だった。相翰はその意図を聞こうかと首を傾げ、それよりも女の方が先だと結論付けた。女が近くなる。その顔立ちが月の弱い光の下で青白く浮かび上がった。
 相翰は思わず立ちあがった。
「……ね、え、さん……?」
 喘ぐように転がり出た言葉に、相翰は自分で息を飲んだ。
 嘘だ。でも。
 黄鈴の声がお姉さんなの、と問い返さなければ相翰は呼吸をしばらく忘れていたかもしれない。少女の言葉に浮かされるようにぽうっと頷き、そして相翰は微かに震えた。
(ねえちゃーん、ねぇえぇえちゃあぁん……)
 子供の声と蝉の騒音が、耳の奥に何重にも轟きながらよぎっていく。死んだんですね──姉は死んだんですね……
 違う。俺の目の前でいなくなったんだ。死んだのを、誰も見ていない。いなくなっただけで、戻ってきたんだ。きっとそうだ。
 死を告げられた時に飲み下しきれなかった納得が、吐き戻すように急激に、胃の底から上がってくる。
 相翰は喉にあがってきたものをうっと飲み込み、そして呪縛が溶けたように走り出した。